ほころび


 書斎に入ったキリは自責の念に駆られていた。キリは、決して薄情な人間ではなかった。

 椅子に腰掛け机に目をやると、そこにはパソコンが乗っかっていて描きかけの恋愛小説のデータが入っている。イオリと過ごしてきたこの三週間を日記のようにして書き溜めてきた。

 キリは恋愛小説が嫌いだった。俗っぽいし、恐怖の対象である女性を好きになるという気持ちがわからないからだ。そしてキリの恋愛小説も、今のところ恋愛小説とは言えない。甘いときめきも、スリリングな駆け引きも、切なく焦がれる想いも描けているとは言えない。

 しかし、キリは描きかけの恋愛小説を気に入っていた。読んでいると、無性に胸の中があたたかくなるのだ。誰か、大きな存在の腕の中にいたような安心に、包まれるのだ。

 キリはもう、イオリを怖がる気持ちを忘れていた。

 もう一度文章に目を通していく。イオリを怖がらせてしまったことに目を伏せるように。

 時計の針が9時を指したことに気づき、イオリは立ち上がった。キリのことはあまり考えないようにしたかったので寝ることを決断した。シャワーは明日の朝、銭湯にでも行けば良いだろう。とにかく、落ち着きたかった。

 しかし、ユニコーンのボールペンが床に転がっているのをイオリは目にする。

「・・・」

 思考が止まる。どうしてだかわからなかった。今、寝るという決断をしたではないか。

 イオリはボールペンを拾い上げて、ユニコーンの部分をそっと指で撫でてみる。また心臓がとくんと動いた。

 書斎への扉をそっと開ける。自分が自分じゃないみたいだった。

「あの」

 キリの後ろ姿が見えた。机に突っ伏して眠っていた。イオリはゆっくりと近づく。心臓の音がうるさいのに、近づきたくなんてないはずなのに、イオリはキリの側に辿り着いた。

 キリは前髪が横顔にかかっていて、口が薄く開いていた。てらてらと光って見えた。

 イオリはボールペンをテーブルに置く。用はそれだけだった。

「信じられない。男の人とこうして暮らしてるなんて」

 早く出ていかなければ。寝ている姿を女性に見られることは、キリにとって嫌なこと、イオリにはわかっている。だから早く、目を逸らさないと。

 イオリは発見した。キリの頭で寝癖がぴよんと跳ねている。

 あるいはそれも、近づくための言い訳だったのだろうか。

 イオリはキリの顔の側にゆっくりと近づく。それはまるで忍び寄るようだった。

 イオリの指がゆっくりと上がり、キリの頭上へと向けられる。まだ空気を撫でているのが、もどかしい。キリに吸い寄せられるように、イオリは触れかける。

 痴漢にあったあの日の記憶が、一瞬だけイオリの脳内を掠めた。それは、やめておけというイオリの無意識からの警告だったのかも知れなかった。

 いきなり目が開く。

 ギョロリと眼球が動く。イオリの手の先に、焦点が向けられる。イオリの手が固まる。首筋に嫌な汗が流れ落ちた。時が止まったようだった。

 キリの顔に皺が寄り始めた。そこには恐怖がありありと存在した。

 キリは小さく叫ぶ。

 キリは立ち上がって後ずさる。積まれていたハードカバーの本がキリの足に当たってばさばさと音を立てて崩れる。全てが崩壊する。

 キリは搾取される小さな子供のような顔をして、イオリをじっと見つめていた。それは、無言の対話だった。

 イオリは真っ青になって書斎から出た。そして、キリの家から出て行ってしまった。自責に耐えることができなかった。


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