青のさざめく試験前

 しとしとと雨のさざめく中、僕は美術室の扉を開く。するとぱっと顔を上げ、こちらを見やった君と目が合った。そして君はにわかに瞳を潤わせ、ふざけたような、甘えたいような口調で言い放つ。


「せんぱぁい。助けてくださぁい…」


 絵を描く君がこちらを見やるなんて、珍しいこともあるもんだと思っていたけど、よく見ると違うことに気付く。君は絵筆ではなく鉛筆を手に、A4のノートに向き合っている。そして隣には、教科書も広がっている。


 そのさまを見て、去年までの君を思い出していた。国語と英語はむしろ僕が教わるくらいのものだったけど、ほかの教科は絶望的で、うちの学校に進学してくるには、相当の努力が必要だって言われてたっけ。


「でも、私やっぱり先輩と一緒の学校に行きたいです。先輩と一緒に学校に通って、そして先輩と一緒の高校生活を謳歌したいのです」


 そしてギリギリのラインで合格にこぎつけたんだから、勉強についていくので精一杯なのは、仕方のないことだよね。


 荷物を置いて、君の正面に座る。すると、君は少し怪訝そうに顔を潜める。


「あのー…先輩。そっちからだと、文字、読めなくないですか?いやあの、問題がないならそれで良いのですけれど」


 去年の僕は君の隣に座りたがったけど、去年の君はそれを嫌がったじゃないか。それで僕は正面に来たのだけれど。


「それは…あの時は隣に先輩がいるだけでもう全然集中できなくて。私、勉強教えてもらってるはずなのに一人だけ盛り上がっちゃって勉強どころじゃなくなってたから。でも、今は良いんです」


 何がどういいのだろう?でも君が望むとあれば、と隣に座り直すと、今度はうつむいて、こちらの方をちらりとも見やらなくなってしまった。まぁ、いいか。


 分からないところがあれば聞いてくるだろうし、僕も君に習って試験勉強をすることにした。同じようにノートと教科書を取りだして、同じようにノートを書いていく。


「先輩。ここ、どうやればいいですか?…ああ、なるほど。ありがとうございます。うーん、やっぱ数学は特に味気も色味もなくて、やっぱりとてもやりづらいです」


 味気も色味もない?不思議な感覚だけど、これを掘り下げるともしかしたら、君にとって良い勉強法に繋げられるかも?気になったので、聞いてみることにする。


「あー…あの時は共感覚の話はしてなかったっけ。先輩、もう知ってると思いますが、私は文字や文章、雰囲気から色を感じ取れてしまいます。そしてそこから、よく気持ちが伝わってくるんです。国語や歴史はその文章の色の中から気持ちや意思、目的が読み取れるので、凄く共感しやすいんですけど、数学って数字をって感じで、気持ちもなにも無いじゃないですか。だから凄く共感しにくくて、あんまりうまく覚えられないんです」


 君の理解のスムーズさにひどい偏りがあると思っていたけど、なるほど、そういう考え方をしていたのか。僕がその感覚を咀嚼している間に、君は間を置きながら続ける。


「英語も凄くわかりやすいです。答えは文章の中にほぼ書いてありますし、ので見分けが付きますし。あと言葉には意味があって、喩えや語源があって、歴史や物語があるんです。それらを一つ一つ読み解いていきながら、織りなす世界に浸っていくんです。お姉ちゃんが教えてくれた感覚なんですけど、それが凄く心地いいんです」


 うっとりとしながら、君は話し続ける。


「それに、凄く不思議なことがあってですね。文章を読んでいるうちに、文字から感じられる色とは別の色や景色が感じられることがあるんです。例えば…そうですね。中学の時の教科書にあった物語を読んでいた時にですね。その話は主人公が実家を売り払って引っ越す準備をするっていう、物悲しくて灰色に藍色に塗りつぶれた、とても暗くてじめじめした話だったんですけど。でも主人公が久しく再会したとの思い出を思い出してる時には、それらがぱっと明るくなるんです。深藍はなだの空に月白の丸が大きく大きく浮かんでいて。その下を二人の少年がモグラを追いかけて、白鼠の穂をつけたススキの中を駆けていくんです。でもその情景に浮かぶ色は、私が文字から感じ取っている色とは全然別なんです」


 君が見ている言葉の世界は、こんなにも美しいものだったのかと、僕はひたすらに感心していた。


 同じ教科書を持っていたはずなのに、その話には全く心当たりがない。君は本当に、物語を読むのが好きなんだね。


「はい、とても好きです。自分では見聞き出来ない世界に、連れて行ってくれるので」


 そう、君は真っ直ぐに見つめながら返してくれる。その瞳はあまりに綺麗に透き通って真っ直ぐで。合わせていると気恥ずかしくて、思わず目を逸らせてしまう。


 二の句も継げなくなって、ちょっとばかり気まずくて。他の教科の事も聞いてみる。ええと、残ってるのは理科だっけな。


「理科は…ええと分野によってかなり大きく違いがあったのですけれど、生物は色味に溢れてるので覚えやすかったです。化学と物理は、やっぱり色味が感じられなくて難しかったです。でも、先輩が現実の世界に喩えながら、丁寧に、根気強く教えてくれたから。だから私も、頭の中で想像できるようになって、少し共感できるようになったんです」


 去年の僕、そんなことやってたんだな。あんまり覚えてないしきっと自覚はないけど、グッジョブと言ってあげたい。


 でも数学は現実に根ざした学問ではなく、君の言うとおり数を操って、そして論理が矛盾していないことが正しいとされる。なぜそうなるか、については矛盾が無いと証明されているから、としか言いようがない。


 そんなものをどうやったら君の共感を得られるかを考えているうち、丁寧に折られた蛙がひょんと僕の視界の中に飛び移ってきた。見やれば、君はいたずらっぽく笑っていて、僕の集中もぷつりと音を立てて切れてしまって。ノートの端っこに絵を描いたり、お祈りと称して鶴を折ったりした。


 やがて、学校中にチャイムの音が鳴り響く。「なにやってたんでしょうね、私達」なんて君と笑って、一緒に広げたノート達を片付けた。






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