空を灰に埋める、もう一人の君

 美術室に入ると君は既にいて、曇天の広がる窓際に一人。二つ並べた椅子の片方に腰掛け、キャンバスに向かい合っている。


 やばい。僕は直感して、君に気付かれていないことを祈りながら荷物を置きに部室へ向かう。部室を出るとその直後に、君は右手に持ったパレットで隣に空いた席をこんこんと叩く。


 あえて気付かないフリをして、僕はスケッチブックと鉛筆を手に、君とは正反対の位置にある彫刻の正面に座り込む。でももう一度コンコンとパレットが椅子を叩く音がしたので、僕は観念して、君の隣に空いた席についた。


 次の瞬間に、君はあまりに容赦なく僕の肩に頭を預ける。そして普段の君からは想像もできないほどに甘くとろけるような声色で、君は僕に話しかける。


「お疲れさま。遅かったね、ダーリン」


 ダメだ。すでにスイッチが入ってしまっている。分かっていつつも、もう、諦めるより他はない。


「今日はねー、曇り空を描いてるの。今日の空は色味が重たくてあまり好きじゃないんだけどね。でも空を眺めてたらね、びびーっときて、空灰色スカイグレイを使いたくなったの」


 頭をもたげて僕の首筋に這わせながら、ぺたぺたと絵筆にはらめた灰色をキャンバスにのせていく。


 美術部から先輩方がいなくなって、二人きりの部活になってからというもの、君は絵を描くときには甘え放題にべたべたと引っ付きたがるようになった。でも描き終わると毎回顔を酷く発火させて爆発寸前になるのだから、やめたほうが良いのに、って思うんだけど。そういうことじゃないらしい。


 右手のパレットに目をやると、ふんだんに盛られた黒を除いて、殆ど絵の具の乗っていないことに気付く。今日は色味がないんだね、と聞いてみると。


「うーん?色味がない?…シアンがかってるのもマゼンタっぽいのも、ライラックっぽいのまで、たくさんあるのに?」


 どうやら君の目には、とても多くの色が見えているらしい。でもやっぱり、僕には分からない。


「あー、そっか。わざと灰っぽい色ばっか使ってるから、ダーリンにはこれがモノクロームに見えてるんだ。昔から私、モノクロームの写真や絵を見ても、って言われるのが、よく分からなかったんだよね。緑とか青とか紫とかあるじゃんってずっと思ってたし。なんで色が無いって言うのかなーってずっと思ってた」


 僕の肩に殆どの体重を預けながら、僕の鼻先をくすぐりながら君は言う。一応部活動なので僕も鉛筆を右手に模写をしていたのだけれど、ここまで体重を預けられると、とても集中出来たものじゃない。


「それにモノクロームを見るたびにね、私。灰色系統の色ってこんなんだっけーって思うんだ。いつもはね、あー灰色系統の色だなーくらいで終わっちゃうんたけど、モノクロームになるとね、突然みんなとってもきらきらーって、色々に輝きだすんだよ。不思議だよー。だからね、仮に白とか黒、灰色系統の色ばっかだったとしても、色味がないなんて嘘だって思うんだー」


 そううっとりと教えてくれる君はとても蠱惑こわく的で。そしてまた描きだされる色彩の美しさにもまた、見惚れて鉛筆を持つ手が止まってしまう。モノクロに色味がないなんて、やっぱり勘違いなのだろうか。


「一度、見てみたいな。そんな色彩を、ダーリンと一緒に」


 君は唇を耳元いっぱいにまで近づいて、そんなことを囁いた。絵を描いている時の君は妙に積極的で、僕のほうがどぎまぎとしてしまう。


 僕の手が止まったのを確かめた君は、とばかりに僕の膝の上にするりと乗ってくる。そしてちゃっかりイーゼルを僕と君の前に滑り移してきて、そしてまた何事もなかったかのようにまたぺたぺたとキャンバスに色を乗せていく。あの、先生。僕、作業出来ないんですけど。


「んー、何?きこえませーん」


 キャンバスに色を乗せながら、ちらりと見やることなく君は言う。僕はもうすっかりあきらめて、鉛筆とスケッチブックを近くの机に放り出した。視線を戻すと、君はやはり何事もなかったようにパレットの上で灰色をこねている。君はよく「人の気も知らないで」って怒るけど、その言葉、そっくりそのまま返してあげたい。


「んー…なんか違うなあ。ダーリン、スケッチブック、借して?」


 机に放ったスケッチブックは、思っているよりも遠くに投げ出されていて、膝に君を乗せたままの僕じゃ、ちょっと手が届かない。だから君を退けて立ち上がろうとすると、君は強く僕の方にしがみついて拒んでくる。


「え、ダーリンどこ行くの?スケッチブックに手が届かない?…あー、うん。じゃあいいや」


 と言って右手の甲に灰色を乗せようとしかけた君を止めて、諭すように言って聞かせる。色がうまいこと出せないんじゃないの?それを乗せるのは真っ白なキャンバスでしょ?なら青みがかった君の肌より、真白に近いスケッチブックのがいいよって。


「うーん…確かにそうかも。でもいつでもこういられるわけでもないしなあ」


 などとうんうん唸っている君の隙を見て、脱出することに成功する。そしてスケッチブックを持ってきて君に手渡す。代わりに、とてもフキゲンで複雑そうな表情と、不満げな声色の「ありがとう」を受け取った。


 パレットの灰をこねて、ああでもないこうでもないと言いながらスケッチブックに乗せていく君を後目に、僕は君のとなりに戻る。すると、まるで頭突きでもかますかのような勢いで君は、僕の肩にぶつかってきた。


 バランスを崩した君が、僕の膝になだれ込んでくる。ウェストミンスターの鐘が響く。部活動の終わりを促す鐘の音だ。絵を描ける時間は、キャンバスに色を乗せられる時間はもう終わり。それらは僕の膝の上に崩れ落ちた君にもちゃんと届いたらしく、下を向いた耳にまで血潮が登り、にわかに紅く染まっていく。


「あのー…先輩。いつものことですけど、わすれてください…」


 恥ずかしさあまりに蹲って動けない君に代わって、パレットを、絵筆をてきぱきと片付ける。そして君の顔を埋めた紅が引いていくのを待ってから、二人並んで下駄箱へ向かった。


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