僕と彼女の心象風景。

げっと

真白な君ははにかみ屋

「あ、先輩。お疲れ様です」


 僕が美術部室に入って間もなく、愛おしい声が響いてきた。声の主はなにやら美術道具の整理をしているようで、マスクをつけたまま、ぱたぱたとせわしなく歩き回っている。


「今日は先生に、道具の整理を任されてるんです。なので、ちょっとほこりっぽくなっちゃってるかもですね」


 彼女は先輩方のいなくなった美術部に残った唯一の部員であり、そして僕の彼女でもある。普段の君は内気なほうで、少し手が触れ合っただけでも顔を紅潮させるようなはにかみ屋さん。


 でもキャンバスに向かい合ってしまえばよく見せる照れたような表情はどこへやら。真白のキャンバスに真剣に向かい合い、一心不乱に色を乗せる。


 しかし今日は、道具の整理をしなければならないらしいので、キャンバスに向かい合う時間はなさそうで。君のもう片方の顔はお預け。どこかほっと胸を撫で下ろしながら、僕は荷物を置いて君の元へと急ぐ。


「見てくださいよ、先輩。ほら、このハケ、もうのがびですよ。ニスでも塗ってたんですかねー」


 そう言って君は、固くなったハケを掌の上で嬉しそうに弾ませている。なのでちょっと気になって聞いてみる。ずいぶんと楽しげに見えるけど、今日の気分はどんな感じって。


「うーん、灰がかった紫ラベンダーモーブって感じですかね?先輩が来るまでは鈍色にびいろだったんですけれど、先輩を見たらちょっと白くなって、なんだか紫が混ざってきたような感じです」


 …モーブはよくわかんないけど、ちょっと暗めで紫かな?そんなことを逡巡するうちに、君ははっとして、みるみるうちに頬を赤らめ俯いてしまった。そういえば君、僕と話をする時には、様々なもの、特に感情を色で表す癖があるよね。


特別なことのない「白」。

モヤモヤやストレスを感じた「黒」。

興奮したり、恥ずかしかったりする「赤」。

元気で気力に満ちた「橙」。

嬉しさや喜び、たまに警戒心が現れる「黃」。

安らぎや落ち着きの「緑」。

自由な気分の「空」。

失望や焦りの「青」。

憂いや哀しみの「藍」。


そして「紫」は…悪戯心。


「紫は私もよくわからなかったんですけど、先輩と出会って気付いたんです。例えば男の子が女の子にかまってほしくて、ついちょっかいをだしたくなるような。そんな気持ちが、私にとっては紫色だったんです」


 顔を真紅に染め上げながら、それでもまっすぐに見つめながら話してくれたことを思い出した。言い終わった直後、とても堪らなくなって、僕の胸元に顔を埋めて隠してたけど。


「あわわ、先輩。あのその、えっと。そういうんじゃなくって。なんというかほんのの出来心というか、なんというか…わー。忘れてください…」


 あの時と同じように顔を真赤に染めながら、君はてれてれと視線を逸らせている。そんな君が、たまらなく愛おしい。頭を一つなでながら、灰色の気分だったことを尋ねてみる。


「だって!今日は真っ白のキャンバスを先輩と一緒に空色に埋めるつもりだったんですよ!私、いつもよりもうっきうきしてたんですから!それなのに、先生が、先生が…」


 なるほど。とてもモチベーションが高まっていたところを、先生の手伝いで潰されたことがとても不満だったのね。じゃあなるべく早くに片付けて、ちょっとでもキャンバスを染めようか。と頭をなでながら言ってあげると。


「あ、はい。頑張りましょう!っていつまで撫でりこしてるんですか!もう…」


 なんて言いながら桜色の頬を膨らませていた。手を君の頭からどけて、一緒に道具を片付けていく。


「先生が来てから、先輩には重たい彫像とかを運んでもらうことになると思います。それまでは…うーん、ここにある道具の整理ですかね。さっきのハケみたいに、状態が酷くてもう使い物にならないものをこっちの袋にまとめていってください」


 そう言って、君は脇にあるビニル袋を指さした。しばらくもくもくと道具を整理していると、君が何かを話したげに口を開く。


「流石に美術室ですねー。筆がたくさんあるー。あ。これ、なんかちょっと面白そう。柔らかくていい手触り…先輩、ちょこっと、手のひら。貸してもらえます?」


 僕は右手を上に開いて差し出してみた。彼女は右手で僕の手の甲をとり、左手に持った筆で僕の手の平を撫で始めた。


 柔らかくて、とてもサラサラした感触が手のひらの上を走っている。そして手の甲には、彼女の小さな手のひらの熱がありありと感じられる。とてもとても、くすぐったい。


「ね、面白いでしょうこの筆。水いっぱい吸うんだろうなー。いっぱいの水に少し青…コバルトあたりが良いかな。を垂らして、一面に広げたら映えるんだろうなー…」


 などと、僕の手を握りながらうっとりとしている。


「あれ?どうしたんです先輩。きょとんとしてしまって。え、手ですか?手」


 言いかけた直後に気付いたらしく、にわかに彼女の顔が発火した。それでも彼女は落ち着きはらって、僕の手を離そうとはしない。


「あー、わ。わー、わー…あの、このまま握ってててもいいですか。…このままで良いんです。これ以上は私、ちょっと…」


 君がいいのならそれでいいんだけど、どれだけ握ってくれていても。心のなかでそうちて、彼女の小さくやわらかな手に、しばらくされるがままにされていた。


 片付けが終わる頃には、空はすっかり夕に焼かれていた。下校を促すチャイムが鳴り響き、僕たちは帰路につく。


「あはは…すっかり暗くなっちゃいましたね。すみません。私ちょっと、楽しみ過ぎちゃいました」


 そう言う君は僕の後ろにぴたりとついて、うつむき加減に言っている。せっかく一緒に帰ってるのにな、なんて思った僕は、彼女の肩に腕をやって、隣にくるよう抱き寄せる。君は顔を酷く紅潮させて、カチカチに固まって動かない。君が楽しんだ分、僕も楽しませてもらってるんだよ、なんて言ってみたら。


「先輩は、ずるいです。そういうとこ。人の気も知らないで。ばか」


 なんて怒ってしまって。それでも僕の隣から離れたがらない君の背中に手をやって、茜色に染まる帰り道を二人並んで歩いていた。

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