第21話

 あれは10年前のある夏の日。

 不思議な穴を見つけた次の日の事だった。その時誰かに出会った気がするが、その記憶は頭の中からすっぽりと消えていた。まるで少年が初めから"この世界"に存在しなかったかのように。

 けれどアリスはあまりその事を気にめていなかった。今日は単身赴任している父が久々に帰ってくるので、一緒に森に出掛けられるとあって嬉しさがまさり、昨日の出来事など些細ささいな事に思えたからだ。

 そういうわけで、アリスは森で両親との散歩を思いっ切り満喫していた。野花で冠を作ったり、葉っぱで笛を吹いたり。自然とたわむれているこの瞬間が一番幸せだった。

 アリスは無邪気に遊んだ。

 ……この幸せが嘘のように一瞬で消え去ってしまうとは思いもしないで。



「ーーーー……リス、逃げてっ!!」

「早く、行きなさい!!」


 両親の、耳をつんざくような悲鳴がアリスの脳天を打った。

 だがアリスは首を横に降るだけでそこから動こうとしない。

 肩や足、腹部が真っ赤な血で染まった両親を、おびえた目で見つめながらアリスは涙声で訴える。


「い、やぁ…………っ。いっしょにいる、い、いっしょに、おうち、帰るもんっ……!!」


 見知らぬ青年が両親の前に立っている。その青年の素顔は逆行でよく見えないが、真夏日なのにも関わらずフードを被っているのが印象的だった。

 青年の手に宿る短剣が父の首を引き裂く。血飛沫が飛び散り、声も出せずに父の肢体したいは地面に転がった。こちらに向けられた目はうつろで、もう絶命している事を物語っていた。

 アリスはひっ、と息を飲む。

 母はギラリと光る眼光を青年に向けたまま、アリスを庇うように立ち塞がった。


「……アリスは、渡さないわ……っ」

「……………………」


 青年は暫く無言だったが、母親の顔をじっと見つめると、何かを思い出したのか、あぁと呟きながら面倒臭そうに頭を掻いた。


「そういえば、前のアリスに君みたいな友達が居たっけなぁ?こんなに邪魔だって分かってたら、あの時に殺しておくんだった……」


 そう言いながら青年は短剣をひらめかすと彼女の喉笛に突き刺した。

 喘ぎ声を溢しながら、それでも抵抗しようとする彼女の胸部を、今度は容赦なく掻き切る。

 反動で地面に倒れ込んだ彼女は、喉をやられて息しか漏れない声を必死に絞り出しながら、最後の力で愛する娘へ手を伸ばす。


「…………ア、リ…………ス…………っ」

「お……母…………さん?」


 少女は怯えたように母を呼ぶ。

 自分に向かって伸ばされた母の指は全く別の人の指のようで。

 まだ五歳になったばかりの幼い少女には、ただそれを見ている事しか出来なかった。

 母の指が自分の頬に触れる。その手があまりにも冷たくて、アリスは顔を強張らせた。だが母はそこで力尽き、その顔を見ることなく地面に崩れ落ちる。

 アリスは脱力感に襲われ地面にぺたりと座り込んだ。その目は倒れている父と母に向けられている。

 フードを被った青年がアリスに向かって手を伸ばした。返り血を浴びた手が自分に伸びてくるのを、アリスはただただぼんやりと見ている事しか出来なかった。

 その指先がアリスに触れようとした、その時…ーー。


「ーーーー……く……っ、」

 青年がくやしげに顔を歪めると、眩いばかりの光が青年を包み込んだ。

 アリスはあまりの光に目を閉じる。次の瞬間にぽとっ、と何かが地面に落ちる音がしてアリスが目を開けると、そこには小さな箱が不自然に転がっていた。


「……………………」


 何が起きたか分からず呆然ぼうぜんと立ち尽くすアリスの耳に、かさり、と何が動く音が響く。

 段々とこちらに近づいてくるその音を聞いても、アリスはその場から動こうとはしなかった。かさり、という音が自分の前で立ち止まると、ようやくアリスは顔を上げた。

 黙って自分を見つめてくるその少年の顔に見覚えがあったアリスは、思わず瞳を揺らす。

 泣きそうな顔で自分を見てくるアリスに、少年は無言で手を伸ばし、ふわりとアリスの頭を撫でた。そして悲しそうに目を伏せる。


「……ーーーー間に合わなくて、ごめん」


 その赤い瞳の少年、白ウサギの心からの言葉に、アリスは耐えられなくなって顔を歪めた。


「………………さ、ん……っ。お、母さんっ、お父さん……っ、」


 今まで堪えてきたものが溢れ出し、泣きじゃくるアリスを自分に引き寄せて、白ウサギは落ち着かせるように何度も何度もアリスの頭を撫でた。


「………………ごめん……。間に合わなくて、ごめん……」


 そして、何度も何度も、ごめんと繰り返し呟き続けた。



 * * *



 アリスがようやく泣き止んだ頃、白ウサギはスッと立ち上がると地面に転がっていた箱を拾い上げる。

 そしてアリスにその箱が見えるように少しだけ振り返った。


「……これは、誰にも見つからない所に隠しておくから。だから、この箱をもし見つけても、絶対にこれを開けちゃだめだよ」


 アリスはいまいち状況が理解出来ていなかったが、目の前の少年の真剣な瞳に、黙ったまま一つ頷く。

 すると少年の表情が少しだけ柔らかくなった。


「……………………あ、…………」


 アリスは何か言おうと口を開いたが、それを聞くことなく白ウサギはきびすを返して歩き出す。

 その背を見つめながら、アリスは妙な疲労感と安心感に襲われ、そのまま意識を断った。

 アリスが眠る夏の森に、暖かな風がすぅっと通りすぎていった。



 * * *



 あの時の自分には理解出来なかった事が、今ならば理解出来る。

 一度目に白ウサギと会った時の記憶がアリスの中に残らなかったのはきっと、白ウサギがこの国の者ではなかったから。本来この世に存在しない者が存在していると知ると、世界の運命が大きく狂い出してしまう。

 だから無意識に記憶から消し去るようになっていたのだ。母が『鍵』を見て私を守ろうとしたのは、母の中で封じられた記憶が『鍵』を見た事で再びよみがえったからだろう。



 母と父は、私を守って死んだ。

 ーー私が『アリス』だったから。

 だから…………。



 ーー『君は、僕を憎んでいるんだろう?』



 その問いの、答えは……ーーーー。



「      いいえ      」

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