第22話

 アリスは先程よりも強く、その言葉を繰り返した。まるで、自分自身にも言い聞かせているかのように。


「私は、貴方を憎んでなんかいない」


 これは全て、私のせいで起きた事だから。

 私がアリスでなければ、両親が死ぬ事はなかった。私が箱を開けなければ、皆が傷つく事も、イカれ帽子屋が死ぬ事もなかった。

『これを開けちゃだめだよ』

 白ウサギの言葉が頭を過る。

 アリスはぐっと口を引き結んだ。

 …………ちゃんと、開けちゃだめって、言われてたのに……っ。

 不思議の国の住人は元々、それほど長く現実世界に居ることが出来ないのだろう。だから白ウサギは『鍵』を箱の中に封じ、時が経って自然と体が消滅するのを待っていた。

 それを解き放ってしまったのは自分自身。

 だからこそ、私には『鍵』を解放した責任がある。


「……私は、貴方を不思議の国に戻します」

「なに……?」


 突然の発言に『鍵』は眉をひそめる。


「……何を言って……」

「貴方は、自分の為に力は使えないと白ウサギから聞いた。でも私が貴方と一緒に不思議の国へ帰ればそれも問題ないはず」


 アリスの意図が分からない『鍵』は困惑気味に口を開く。


「君、自分が何言ってるか分かってる?僕に叶えられる願いは一人につき1回までだ。僕と一緒に不思議の国に帰れば、君は二度と、元居た世界には帰れなくなるんだよ?」


 アリスは言葉を一度飲み込むと、苦しげに呟く。


「………………分かってる」


 アリスは胸の前で両手をぎゅっと握り締める。それは彼女の頑なな意志を表していた。


「それでも、私は貴方を不思議の国へ返します。貴方は、……不思議の国にとってなくてはならない人だと思うから。……それに……」


 アリスはそこで一端言葉を区切ると、少しだけ口端こうたんを上げた。


「"二度と"帰れなくなる訳じゃないもの」

「……………………」


『鍵』は反応を示さない。それが、答えでもあった。


「そうでなければ、自分のために力を使う事が出来ない貴方が、現実世界と不思議の国を行きできる事の説明がつかないから」

「…………なるほどね……」


『鍵』はアリスの言葉の意味を正確に理解すると、アリスに向けて意地の悪い笑みを浮かべた。


「でも、もし仮にそれを見つけたとしても、現実世界に帰れる保証はないよ」

「……分かってるわ。それでも、私はそれを見つけ出す」

「……………………」


 揺らぐ事のないアリスの瞳を見て、『鍵』はふっと微笑んだ。

 そして、前と同じ事を口にする。



「……じゃあ、契約成立だね、アリス」


 すっと『鍵』の表情が引き締まった。

 それはまさしく、不思議の国を統べる者の顔で。


「ーーではアリス、最後になんじの願いを聞こう」


 そんな『鍵』の姿を見て、アリスは胸のしこりが取れた気がした。

 目の前の青年に対して一つ頷く。


「……私と貴方の2人を、不思議の国へ返して」

「ーーーー……良いだろう」



 ぱちん、と『鍵』が指を鳴らす。瞬間、アリスと『鍵』の体を光が包み込んだ。

 徐々に体が薄くなっていく中、アリスは自分の意識が遠のき始めているのを感じていた。

 がくんと膝がくだけて倒れそうになるアリスの体を『鍵』が支える。

 完全に意識がなくなったアリスを『鍵』は静かに見下ろした。


「……君みたいなアリスには初めて会ったよ」


 独り言のように言いながら、アリスの頬に触れる。


「……僕を不思議の国に返してくれるれいもある。…………これは僕からのなさけだ」


 そう言いながら『鍵』は自分の顔をアリスに近付け、耳元でささやく。



「ーーーーよく聞け、アリス」



 気を失ったアリスが、起きても覚えていられるように。ゆっくりと、『鍵』は言葉を発していく。


「ーーーー……」


 最後の言葉が言い終わると同時に、アリスの瞳が震える。

 そのまま『鍵』とアリスの2人は光の中に溶けていった。



 * * *



 気が付くと、アリスは白ウサギの穴の中にある部屋で眠っていた。

 目が覚めたアリスが三月ウサギ達に問いかけると、『鍵』がアリスをここまで連れてきてくれたとの事だった。それから約2週間眠り続けていたらしい。

 2週間ぶりに目覚めたアリスは体が本調子ではなく、体力が戻るまで1週間かかってしまった。

 そんなわけで、久しぶりに外に出たアリスは、3週間ぶりの夜空をあおいでいる。


「……綺麗な空だなぁ」


 夜空に散りばめられた星々を背景に、少しだけ小高くなっている丘の上から、不思議の国の街をゆっくりと見渡す。

 いつまでも覚えていられるように、しっかりと記憶に刻み込む。

 そんなアリスの隣に、そっと寄り添う影が一つ。


「…………こんな所に居たんだ」

「……うん。ちょっと……」


 そのまま腰を降ろした三月ウサギは、アリスと同じように不思議の国を見渡す。

 もう戦いは終わりにするという『鍵』の宣言により、死の恐怖から解放された不思議の国の住人達は夜にも関わらずにぎわい散らかしていた。街から少し離れた丘からは家々の光だけが確認出来る。

 それでも、不思議の国の妙な緊張感がなくなった夜の街が、三月ウサギ達の気持ちも暖かくしていた。

 本来、不思議の国はこんな暖かくて楽しい街だったのだから。

 三月ウサギは無意識に微笑んで、そっと悲しげに目を伏せた。


「…………アリスは、さ」

「……?」

「本当に不思議の国を出ていくの……?」

「……ーーうん」


 頷いて、アリスは胸元にある小さな物を握り締めた。

『もう一つの世界』に行く前には無かった代物。ネックレス状に首から下げられたそれは、何処かの扉の"カギ"のようだった。



『ーーーーよく聞け、アリス』



 夢の中で聞いた『鍵』の声。

 現実かさだかではなかったその言葉が、この代物を見た途端に確信に変わった。

『鍵』が残した最後の希望。

 この蜘蛛の糸を拒否する理由はアリスには、ない。


「私、現実世界に戻るよ」


 彼女は正面から三月ウサギを見る。彼も、静かな瞳でアリスを見つめていた。

 ……寂しくないわけではない。

 だって、この世界が好きだ。不思議の国の住人が大好き。

 でも、私は……アリスは本来、"不思議の国の本当の住人" ではないのだーー。



 アリスは瞳を震わせた。


「『アリス』は、不思議の国に来るべきじゃなかったんだよ」


 きっと、そう。最初から、全てが間違っていたのだ。


「だから、……。全部、私の夢だった事にしないと……この国も、私も、先に進めないから」


 三月ウサギは目を伏せる。

 だがその瞳はなぜか、その言葉に納得しているようにも見えた。


「…………そっか。うん、……そうだよね」


 彼はすくっと立ち上がると、わざと明るめの声を出してアリスに手を差し出した。


「そろそろ戻ろう、アリス。白ウサギもきっと心配してる」

「…………うん」


 アリスはその手に自分のそれを重ねる。

 そっと触れた指先は、思ったよりも少しだけ冷たかったーー。

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