第16話

 ……分かってる。

 チャシャ猫の全てが理解出来る訳ではないけれど。

 その孤独こどく感は、私も知っている。

 両親が死んで、どうしようもない寂しさと不安に毎日襲われていた。でも、私には街の人達がいたから、寂しくても元気で暮らして来れた。

 白ウサギにも仲間がいる。

 でも、チャシャ猫にはきっと、誰もいなかったのだろう。

 この何処までも闇が広がる死の森で、たった一人で苦しみに耐えて来たんだ。



 ……私に、出来ること。

 今、やらなければならないこと。

 もう……分かっているから。


「チャシャ猫!」

「ん?」


 アリスの声にチャシャ猫が応じるのとほぼ同時に、チャシャ猫の頬をアリスの放った矢がかすめる。

 チャシャ猫の頬から血がすぅっと流れた。


「………………」


 アリスは別の矢を構えながら、チャシャ猫に向かって叫んだ。


「私、不思議の国を変えたい。元の、皆が幸せに暮らしていた頃へ戻したい。それに、貴方にも幸せになって欲しいから。そのために必要な事なら、私!……もう、ここから逃げないよ……っ」

「ーーーー……」


 チャシャ猫は無言だった。

 手で自分の頬に触れ、その血を見つめる。


 ーーすると突然、嬉しそうに笑った。

 その笑顔の不気味さに、アリスの体がビクッと震える。

 刹那、


「ーー残念だったね、アリス」


 アリスの瞳が凍りついた。

 先程まで木の枝の上に居たはずのチャシャ猫が目の前に立っている。


「っ!!」


 ーーーー……一瞬、何が起きたのか理解出来なかった。

 アリスの腹部にはナイフが刺さっている。

 あまりに一瞬の事で、アリスは瞬きすらも出来ない。


「……君じゃ俺は殺せない」


 チャシャ猫はじっとアリスの瞳を見つめながら小さく微笑んだ。


「……ね?」


 そのままナイフを引き抜くと、次にそこを思いっ切り蹴る。


「……うっ……!」


 アリスは数メートル後ろに蹴り飛ばされ、木のみきにぶつかった衝撃で血反吐ちへどを吐いた。


「……っ、ごほっゴホッ!!」


 立ち上がろうとするが、痛みで頭がくらくらして上手く視線が合わない。

 ーーーー強すぎる。

 アリスは、自分とのけた違いの実力に絶望を覚えた。

 前に戦った時に自分が死ななかったのが不思議なくらいだ。

 ぐっ、と地面の土を引っ掻く。

 そんな様子を、チャシャ猫は嘲笑あざわらうかのように見つめた。


「……っ、」


 アリスは無理に立ち上がろうと体に力を込めた。

 その時、


「「僕らに掴まって、アリス」」


 アリスがぼんやりとした視界で声の主を探ると、アリスの左右に2つの姿が映る。

 アリスは不思議そうにその名を呼んだ。


「ダム……と、ディー?」


 鏡の国にいるはずの双子は起き上がるのを助けるように腕を自分達の肩にまわしながら微笑んだ。


「…………何で……」

「僕ら、アリスの役に立ちたくて来たんだよ」

「だって、アリスは僕らの友達だもん」


 はっと、アリスは前を向いた。

 視界がハッキリとしてきて、自分とチャシャ猫をさえぎるように立っている人物に気付く。

 アリスの瞳が再びぼやけた。


「白、ウサギ……」


 アリスの瞳から雫が溢れ出す。

 何で、白ウサギが居るだけでこんなに安心するんだろう。

 いつも、いつも……。

 アリスは顔を歪めた。


「ーーーー……ありがとう」


 白ウサギの耳がピクリと動いた。しかし、振り向く事はない。


「……アリス」


 アリスは涙を拭いて白ウサギを見直す。

 チャシャ猫が何も仕掛けて来ないので、白ウサギも注意はそちらに置きながらもアリスを振り返った。


「お前はそいつらと『鍵』を探しに行け」

「え、でも……っ」


 確かに、ここに自分が居ても足手まといにしかならないかもしれない。

 でも、この状況下で優先すべきは『鍵』ではなくチャシャ猫だ。

 そこを離れるなんて……。

 アリスがさらに言葉を発しようとしたが、それを白ウサギが目で制する。


「『鍵』が原因であるにしろ無いにしろ、お前がこの国から出るには『鍵』を見つける必要がある」

「それは……そうかもしれないけど、今はそんなことしてる場合じゃ……」

「それに、」


 白ウサギがアリスの言葉を遮る。


「『鍵』の居る空間へはこの森の扉を開ける事でしか入れない。そしてそれは……チャシャ猫の意志がなければあらわれる事はない」


 そこまで聞いた時、アリスは目を見開いた。白ウサギがこれから何をするつもりなのか、気付いてしまったから。

 自分を元の世界へ戻せるのは『鍵』だけ。

 だが『鍵』は今、もう一つの世界に居る。

 鏡の国に繋がる扉やこの森の中にある多くの扉は、元々この国にあったものだから、チャシャ猫が死んでも消えたりはしない。しかし、そこに繋がる扉は不思議の国に元々あったものではなく、チャシャ猫がみずから造ったもの。

 つまり、チャシャ猫が死ねばその扉は消え、次のチャシャ猫が産まれたとしても、その扉の記憶を失ってしまうため、二度と出現する事は出来ない。

 今を逃せば、永遠に元の世界へは帰れなくなる……と、白ウサギは言おうとしているのだ。


「……………っ……」


 それでもなお、渋ってそこから動こうとしないアリスを見て、白ウサギは口を開く。


「ーーーーお前は」


 急に口調を変えた白ウサギに、アリスははっとして現実に引き戻される。

 白ウサギは目を細めた。


「……お前は、お前を待っている奴の所に帰ればいい」


 アリスの瞳が大きく揺れた。

 待っている人……。

 現実の世界で、自分を待ってくれている人達のもとへ。


「……『アリス』は、不思議の国にいるべきじゃない」


 アリスは目を伏せる。

 それは、自分も以前から感じていた事だった。

 アリスが来たからこの国がおかしくなった……と、『鍵』が言っていた言葉も、間違いではないから。

 ……でも。

 アリスは拳を握り締める。


「………………分かった。でも、…………それには従えない」

「何……?」


 いぶかしげな顔をする白ウサギに対し、アリスは俯いたままだ。


「だって、さっきチャシャ猫に言ったばかりだもの。"私はもう、ここから逃げない"って。だから、私はここにいるわ」

「お前っ!」


 白ウサギが声を荒げた。

 アリスはビクッとなるが、勇気を振り絞って白ウサギを見返す。


「私、『鍵』とも約束した。この国の原因を解決するって。だからそれまでは、たとえ現実世界に帰れなくなったとしても、ここから離れたくないっ」


 アリスの真剣な瞳が白ウサギを射抜いぬく。白ウサギはアリスのその強い意志に負けてか、小さくため息をついた。

 そのままチャシャ猫に向き直る。


「勝手にしろ。ただし、命の保証はしない」

「……分かってる」


 アリスも弓矢を構え直し、チャシャ猫のほうに矢の先端を向ける。

 チャシャ猫は、退屈そうにあくびをしていた手をピタリと止め、白ウサギを見た。

 カシャっと剣を構え直し、白ウサギはチャシャ猫をしっかりと見据える。

 ……あの時の自分には出来なかった事を。


「チャシャ猫」

「何?」

「……今度はちゃんと、お前を殺してやるよ」

「……………………」


 チャシャ猫の顔は見えない。

 だが、うっすらと彼が笑ったのが分かった。


 ーーーー心から、嬉しそうに。



「そっか。楽しみだなぁ」


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