第13話

 ーーそれは10年ほど前の話。

 白ウサギは『鍵』を止めるため、アリスの様子を探りに人間世界にやって来た。

 耳と尻尾しっぽ巧妙こうみょうに隠し、人間にまぎれ込む。

 着いたのは街外れの山奥。本当に人が住んでいるのかも不思議なその場所に、ぽつんと一軒家が建っていた。

 白ウサギがその家に近付こうとした、その時。


「!!」


『鍵』が白ウサギの行動に気付いた。

 急な異空間からの攻撃に対処しきれず、白ウサギは数十メートルほど後ろに飛ばされる。

 体を回転させて木の幹に足を着け、衝撃を受け流し、ストンと地面に着地した。

 ぐらりと視界が歪む。

 見れば左腕に、ナイフが深々と刺さっていた。

 白ウサギはそれを引き抜くと、その場に片膝をつく。


「……ちっ」


 毒が塗られてる。立ち上がろうとしても、体に力が入らなかった。


「……どうしたの?」


 急に横から声が聞こえた。

 白ウサギは瞳だけを動かすと、五、六歳程度の少女がそこに立っていた。


「うで、ケガしてるの?」


 アリスが傷口に手を伸ばす。白ウサギは警戒したように一歩引いた。いや、今彼の体は動かないので、正確には少しだけ身を後ろに引いた程度だったが。


「……触るな」


 少女は驚いたように白ウサギを見つめた。きゅっと口元を引き結ぶ。自分の髪の毛を束ねていた布を取ると、白ウサギの腕に巻き付けた。


「……おい」


 白ウサギの語気ごきが低くなる。それでも少女はそれを止めなかった。


「………………」


 全て巻き終えると、少女は少し怒ったような表情をして、上目遣いに白ウサギを見た。


「ケガはそのままにしておくと、もっと悪くなっちゃうんだってお母さんが言ってた。だから、ちゃんと手当てしないとダメなんだよ?」

「…………」

「あ、あとこれ!」


 そう言うと、アリスはカバンから瓶を取り出した。


「よく森にヘビが出るの。咬まれた時用のおくすり!」

「…………お前」


 少女は白ウサギを見てキョトンとしたあと、今度はにっこりと笑った。


「私ね、アリスって言うの」


 何となく、予想がついていた答えだった。白ウサギが体を動かせない事に気付いたのか、アリスから瓶のふたを開けると、その薬を少しずつ彼の口に流し込んでいく。

 しばらくして、体が軽くなっていく感覚があった。

 白ウサギはまだ力が入りにくい手をぎこちなく伸ばし、アリスのクリーム色の髪にふわりと手を置いた。


「ーーーーアリス」


 アリスは白ウサギを見た。


「……ありがとう」


 彼が初めて見せた笑顔に、アリスは嬉しそうに笑い返した。


「あなた、お名前は?」

「…………俺は……」


 ふと、遠くから少女を呼ぶ声が聞こえた。


「あ、お母さんだ!」


 その瞬間、少女はぱたぱたと両親のほうへと走っていく。


「アリス、帰りましょう」

「うん!あのね、今ね!」


 そしてアリスが後ろを振り返ると、白ウサギの姿はそこにはもうなく、今まで存在しなかった不思議な大きな穴が、そこにぽっかりといているだけだったーー。





「ーーーーあ」

「思い出しタ?」

「……うん。少し…」


 白ウサギに会ったかどうかは覚えていないけれど、その穴の事だけはハッキリと覚えている。

 その翌日に両親が死んで、自分もそのショックで倒れた。そのせいで思い出せないのだろうか。

 眠りネズミはテーブルに置いてあった眼鏡を手に取る。


「そして君が不思議の国へ来ると分かっタ時、白ウサギはハートの王に言っタんだー」


『今回のアリスは俺がもらう。ーーアリスは殺させない』


「だからネ、協力してあげることにしタの~。白ウサギの仲間は僕らの仲間さ♪」


 ……前から思っていた。

 この国の住人の、白ウサギに対する信頼は相当なものだ。

 皆、白ウサギの持つ何かにかれている。

 ……眠りネズミは眼鏡をかける。


「白ウサギは決して僕らに嘘をつかない」


 ドクン……と小さくアリスの鼓動こどうが鳴った。

 眠りネズミの透き通ったあわみどり色の瞳がアリスを見つめる。


「助けると言ったら必ず助けてくれる。死なないと言ったら絶対に死なない。だから、"アリスがこの国を変える"って白ウサギが言ったのなら、必ずそうなるって信じられる」


 眠りネズミは綺麗な顔立ちをしていた。その瞳からは何処までも白ウサギを信じている純粋さが見てとれる。


 ーーーーたぶん、そう。

 白ウサギはこの不思議の国の事を誰よりも想っている。『鍵』にだって負けないくらい。

 だからこそ、白ウサギに信頼を傾けている仲間がこんなにいる。

 敵でさえも、むやみに手が出せないのは、そういう理由。

『お前、アリスだろ?』

 ……私も初めて会った時から感じていた。

 だから、白ウサギかハートの女王、どちらか選べとチャシャ猫に言われた時、真っ先に頭に浮かんだのは、白ウサギの顔だった。

 この国を変えたい。

 そう思ったのと同じくらい、白ウサギも私を信じてくれているから。

 ーーだから私は今、ここにいる。


「私も……白ウサギの言ったように、この国は変えられるって信じてる」


 眠りネズミはふっと笑った。

 そしてアリスの手を己の両手で包み込む。


「ーーじゃあ、僕からもヒントをあげよう」

「ヒ、ント…?」

「そう。……白ウサギはたぶん、この戦いの原因を知っている」


 ドクン、と再び心臓がねた。

 眠りネズミはさらに距離を詰める。


「じゃあ、アリスに問題。……なぜ、僕はこんな森の中央に住んでいると思う?」

「それは……」


 アリスは思考をめぐらせる。

 そして、ここに来る前に白ウサギ達が言っていた事に思い至った。


「……人間が嫌いだから?」


 眠りネズミは目を細める。


「それも一理いちりある。でも本当の理由は他にあるんだ。それはね……ーー」


 眠りネズミはアリスを引き寄せ、アリスの耳に自分の顔を近付けた。



「ーーーー猫が嫌いだからだよ」

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