第6話

 あれから数日が経った。

 三月ウサギの傷もふさがり、あとは体調の回復を待つだけなのだが、白ウサギの提案で街の散策に出掛ける事になった。

 今日は『鍵』の気配がないから、アリス一人で外出しても問題ない、らしい。

 街の中央部に入ると、人々のにぎやかな声が充満していて、楽しそうな雰囲気が伝わってきた。街に響く愉快ゆかいな音楽や香ばしいパンの香りも、アリスにとっては全てが新鮮だった。


「お嬢さん、お一つどうだい?」

「まぁ!美味しそう!…でも私、お金を持っていないの」

「今日はサービスしとくよ!タダで持ってきな!」

「……いいの?」

「あぁ!今日は特別な日だからね!」

「ありがとう!とても良い香りだったから気になっていたの」


 アリスはパン屋の店員からパンを1つ貰うと、それの入った袋を大切そうに抱えて歩き出した。

 何処どこかで座りながら食べよう。

 きょろきょろと座る場所を探しながら足を進めると、噴水の横にベンチを見つけた。

 思わず急ぎ足になりながら進んで行くと、角から出てきた少年にぶつかる。


「きゃっ」


 アリスは尻餅をついてしまう。

 ぶつかった相手は、アリスの手から離れてしまった紙袋を拾うと、スッと手を差し出してきた。


「ごめんね。大丈夫だった?」

「は、はい」


 アリスは少年の手を取って立ち上がる。フードを目深に被っていたが、それでもわかる整った顔立ちで、アリスは思わず見とれてしまった。

 少年は不思議そうな顔をした後、あ、と声を上げた。


「君、もしかしてアリスかい?」

「え、えぇ。貴方は……?」

「僕は『ハートの女王』。はじめましてだね、アリス」


 ハートの女王と名乗る少年はにこりと笑った。

 アリスは茫然ぼうぜんとする。

 真実、この少年はハートの女王だった。女王は街に出掛ける時は男装するのが常であり、フードで長い髪を隠し、男にならきるのだ。故に、言葉遣いもがらりと変わる。

 アリスは戸惑い気味に女王を見つめた。その表情を見ていた女王は、良いことを思いついたとばかりに両の手のひらを合わせる。


「そうだアリス、これから一緒に街を回らないか?」

「えっ……」


 アリスは驚いた表情で彼女を見上げる。

 三月ウサギの話によると、確かハートの女王は白ウサギの敵ではなかっただろうか。

 アリスが白ウサギの手を取った以上、馴れ馴れしく接して良い相手ではない。

 そんなアリスの心情を察してか、ハートの女王はにこりと笑った。


「大丈夫。"今日は"特別な日だから。アリスを危険にさらすような真似はしない」

「特別な日……?」

「そう。今日は不思議の国に『鍵』がいない。アリスを危険な目にも合わさない。だからこの街の住人は、安心して店を出せるのさ」


 アリスは街を振り返った。

 こんなに賑やかで楽しそうな場所なのに『鍵』がいない日しかこんな日は訪れないという。

『鍵』が戻れば、アリスをめぐる殺し合いに巻き込まれないように、家にこもっておびえてる。今の光景からは想像もつかない事だった。

 全部、アリスのせいでーー。

 すると突然、ハートの女王がアリスの手を掴んだ。

 アリスはびっくりして相手を見返す。そこには、おだやかな表情でアリスを見るハートの女王の姿があった。


「さ、行こう!アリス。早くしないと日が暮れてしまう」

「あ、」


 今度はアリスに有無を言わさず、ハートの女王は街へ向かう。

 繋がれた手はそのままに、2人は街を散策した。

 不思議の国の住人は、今日はお祭りとばかりに騒いでいる。

 ペンキで街を塗り回る人、この世の物とは思えない不思議な食べ物、スーパーボールのように天高く飛んでいく玩具おもちゃなど、アリスには見たこともない不思議な光景ばかりだった。

 2人は時間を忘れて遊び尽くす。

 空は、まもなく夕方に差し掛かろうとしていた。


「あー楽しかった!」


 2人は最初に出会った噴水の前に腰を降ろした。


「私、こんなに遊んだの初めて」


 アリスがそう言うと、ハートの女王は昔を懐かしむように目を細める。


「……僕と前のアリスは、よく一緒に街を走り回ってたんだ」


 それは、アリスの知らないアリスの話。


「彼女は僕に色んな事を教えてくれたし、一緒に居てとても楽しかった。……君とも、今日一緒に過ごせて楽しかった。僕にとって、アリスはとても必要な存在なんだ」


 アリスとハートの女王の目がかち合う。赤い瞳がアリスを捕らえ、離さない。


「だからアリス、僕と一緒に来て欲しい。『ハートの女王』の仲間になれば、僕が必ず君を守るよ」

「…………でも、私……」


 アリスは目を伏せる。

 自分は既に、白ウサギの手を取っている。三月ウサギもアリスのせいで死にかけた。今、ハートの女王の手を掴んでしまったら、その2人の想いを踏みにじってしまう事になるのではないだろうか。

 すると、ハートの女王がアリスの手に自分のそれを重ねた。


「アリス。今ならまだ間に合う。白ウサギは敵と判断した者は誰であろうと殺す恐ろしい奴だ。あいつと一緒に居てはいけない。よく考えて」

「わたし…………私、は……」


 アリスは重ねられた手を見つめた。今日1日過ごしてみて、ハートの女王が危険な人ではないことは、誰に言われるまでもなく分かった。

 ……でも、でも私はーー…。

 アリスはふっと目の前が真っ暗になった。遠くのほうでハートの女王がアリスの名前を何度も呼んでいるのが聞こえる。だがアリスは、そのまま気を失ってしまった。


 * * *


 声、が…する。



「ーー……ス」

「ーーアリス」



「「『不思議の国のアリス』」」

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