第3話

 影は、アリスの動きが止まったのを感じて眉を寄せる。

 気配があるからそこに居るのは分かるが、全く動こうとしないのは何故なぜか。


「……あれー、もう降参?」

「…………」


 返事がない。

 もう口も利けないほど動けないのか。

 そう結論付けて、影は深いため息を吐いた。


「……なら、もう良いよ。ーー死にな、アリス」


 高く手を振り上げる。その指が下へと振り下ろされるのと同時に、針の雨がアリスのいる方へと降りそそいだ。

 影はにやりと笑った。だが、その笑みは途中で停止する。彼の視線が己の手の平へと動いた。

 ……まるで手応えがない。

 影はアリスがいた場所をじっと見た。すると、先程まであったアリスの気配がない。

 ーーーー何処どこだ?

 影は目だけで辺りを見渡した。

 次の瞬間。


「………………」


 自分の足が動かない事に気付いて下を向く。すると微かに、地面から空気の音が流れ込んでくるのを感じた。


「………………穴……?」


 そしてその言葉を合図に、ひょっこりとアリスが穴から顔を出す。


「なんで穴なんか……」


 ーー白ウサギの仕業か。

 影は光る目をアリスに向けた。


「……やられたね。この森の生物はみんな殺したと思ってたのに」


 アリスはにこりと笑って穴から抜けると、スカートに付いた土を払い落とす。


「さっき、貴方が言ってた『どちらを選ぶか』って話だけど……私はたぶん、白ウサギを選ぶと思う」


 白ウサギは『殺されたくなければ鍵を探せ』と言った。

 ならば何故殺されるのか、何故鍵を探すのか、その理由を知りたい。


此処ここを出て、なんで殺されるのか知らなきゃいけない。それを知るまでは死ぬわけにはいかないの。だから……」


 アリスは目の前にいる影を真っ直ぐに見つめる。初めてまともに顔を見たその影は、癖毛を跳ねさせている真っ黒な髪の少年だった。


「だから、『チャシャ猫』!私をこの森の出口まで案内して!!」


 チャシャ猫と呼ばれたその影は、その名を否定する事なく、ふっと笑った。


「……ははっ」


 そして次に、面白くて仕方がないとばかりに笑い出す。


「あはははハハっ!良いよ、良いよ、案内してあげるっ。俺、面白い子だぁーい好きっ♪」


 チャシャ猫は一通り笑った後、目に溜まった涙を拭いてアリスの後ろへ跳んだ。

 そしてそのままアリスを肩越しに見やる。


「ーーついておいで、アリス」


 アリスは内心ほっとしながらチャシャ猫の後に続いた。

 足があまり上手く動かないアリスを気遣ってか、チャシャ猫はゆっくりと進んでくれる。

 ただ、後ろは一度も振り向かなかった。

 その背を見ながら、アリスは口を開く。


「チャシャ猫」

「ん?なーにー?」

「貴方は女王の仲間なの?」

「………………」


 チャシャ猫は一瞬無言になる。


「さあ?どうだろうね」


 笑いをふくんだ声ではぐらかすチャシャ猫に、アリスは何も言えなくなった。

 それから2人とも無言のまま、この真っ黒な森を歩く。

 チャシャ猫の導くままに進んで行くと、木々の間からわずかな光が見えてきた。


「……こんなに早く出口に」


 アリスがぽつりと呟くと、チャシャ猫は初めてアリスを振り返る。


「この森はね、俺が望まないと出口への道が現れないんだ。だから、二度と抜け出せない死の森だって言われてる」


 チャシャ猫の言葉でようやくこの森の構造を理解する。

 たぶん、出口だけでなく、チャシャ猫が望めば別の場所へのルートも導き出せるのだろう。

 チャシャ猫は森の木の幹にある、可笑おかしな扉に手をかけた。


「さあ、アリス。ここが出口だよ」


 扉を開くとまぶしい光が一気に差し込んで来て、アリスは思わず目を閉じる。瞳が光に慣れるまで開けたり閉じたりを繰り返し、ようやく目を開けると、そこには今まで見たこともない景色が広がっていた。


「ここが不思議の国……」


 白ウサギの穴に落ちてからすぐにこの森に飛ばされたから、まともに不思議の国を見る機会などなかったし、それに元々アリスは、自然の多い街で育ったから、こんなに沢山の建物が並んでいる光景を見るのは初めてだった。

 ここは森の出口だから建物まではまだ遠いが、上から眺める不思議の国の景色は最高だった。


「綺麗な国ね」


 感動しながら街の様子を眺めるアリスを、チャシャ猫は横目で見る。そして軽く手を叩いた。


「さ、アリス。俺の案内はここまでだから、あとは自分で……おわっと!」


 チャシャ猫は急に話を止め、上空に跳び上がった。驚いたアリスが横を見ると、先程までチャシャ猫がいた場所を銃弾が通り過ぎる。

 息をする暇もなく次々と撃たれる弾丸だんがんをチャシャ猫はことごとくかわした。

 アリスの後ろに着地し、その肩に手を置く。


三月ざんがつぅ。これはひどいんじゃないの?」

「アリスから離れろ、チャシャ猫」


 するとチャシャ猫は、ぱっとアリスから手を離す。


「俺、三月のそういう所好きだけど、俺、無実じゃん?アリスは殺してないし、ここまで連れてきてあげたんだからさっ」

「…………アリスを助けた?チャシャ猫が?」


 本当かと、三月ウサギはアリスに視線で問いかける。

 アリスは一つ頷いた。


「本当だよ。私がチャシャ猫に頼んだの。お願いだから、チャシャ猫を責めないで」


 その言葉に、チャシャ猫は笑みを深くした。

 三月ウサギはチャシャ猫を睨み付ける。


「チャシャ猫が『裏切り』……?」


 三月ウサギの発言に、チャシャ猫は目をぱちくりさせた。


「俺、誰も裏切るつもりなんか無いよ?だって俺は、面白い子の味方なんだから」


 そう言って笑うチャシャ猫の考えなど、三月ウサギには理解する事など出来なかった。

 はぁ……とため息をついて銃口を下に降ろす。その動作を眺めて、チャシャ猫は目を細めた。


「……相変わらず優しいね、三月。でも、俺は三月のそういう所……大っ嫌い」


 三月ウサギは無言でチャシャ猫を見上げる。だがチャシャ猫は、すでにこちらに背を向けており、三月ウサギの視線に気付かないまま、ひらひらと手を振った。


「んじゃ、俺は女王様にご報告に行かなきゃいけないから。まったねーアリス!」


 チャシャ猫の残像が見えなくなると、三月ウサギはアリスにゆっくりと近付いた。


「大丈夫だった?アリス」


 次に瞳が下に動く。


「右足を痛めてるみたいだけど、チャシャ猫の仕業だね」

「う、うん。さっきからあまり上手く動かなくて……。でも、どうして分かったの?」


 アリスが問うと、三月ウサギは何とも言えない表情になった。


「こんな事するのはチャシャ猫くらいだから。あいつは人をいたぶるのが大好きで……」


 そう言いながら三月ウサギは布を千切って出血している箇所かしょに巻きつけた。

 そのままアリスの手を取ると、それを自分の肩に回す。


「白ウサギの穴に案内するよ。ここからだと少し遠いんだけど我慢してね」

「あの……貴方は……?」


 不安そうなアリスを見て、三月ウサギは安心させるように微笑んだ。


「僕は三月ざんがつウサギ。白ウサギの仲間だよ」

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