第2話

 アリスが次に目覚めた先は、見覚えのない森の中だった。

 自分の姿すら見えないほど真っ暗な場所を、アリスは手探りで立ち上がる。辺りには葉と土の匂いしかせず、聞こえるのはおのれが生み出す呼吸音のみ。虫一匹の声すらも聞こえない。川があればそれを辿たどって森の外に抜けれるかもしれないのに…。

 ーーさて、どうする…。

 アリスは思考を巡らせた。

 早くこの森を出なければいけないと直感が訴えてくる。

 壮大な空間を支配する完全な闇。日の光すらも届かず、空気も、ーー重い。


 ーーー見られ、てる。

 アリスの体に緊張が走る。

 急に辺りの木々がざわめくのを感じた。

 森全体が凍りつくような、冷たい殺意が背後にのし掛かる。

 誰か…後ろに、いる。

 そう感じた瞬間、底知れぬ恐怖がアリスを襲った。

 振り向かなければならないと思うのに、全然体が動かない。


「ーーねぇ、アリス」


 ぞわっ…と背筋に怖気おぞけが走った。背後の人物が発した言葉はたったの二言だけなのに、それがアリスを縛りつけて離さない。

 アリスはつとめて深呼吸した。ゆっくり、深く、心を落ち着かせるように。

 そして、そのままゆっくりと後ろを振り返った。

 上だ。恐らく木の枝の上。そこに気配がある。

 そこに、いる。

 それは分かる。だが、闇に包まれているこの森では、はっきりとその顔を見ることは出来なかった。ただ、瞳だけが妙に光って見えた。


「……」


 じわじわと冷や汗が体にまとわりつくのを感じながら、後ろに下がって距離を取る。それを"見ながら"その影は、可笑しそうににやりと笑った。


「ーーやあ、アリス。不思議の国へようこそ」




 これより少し前。一人の少年が白ウサギの穴を訪れた。

 白ウサギと比べるといくらか幼そうな少年で、薄緑色の髪が特徴的だ。


「ねぇ、白ウサギ。あのアリス、『死の森』に飛ばして大丈夫なの?…あそこはあいつの縄張なわばりなのに」


 少年の問いに、白ウサギは相変わらずの無表情で答える。


「……賭けてみる」

「えっ?」

「あいつをどうにかして生きて帰って来れたら……俺はあのアリスを認めるよ」


 その答えに少年は微笑んだ。


「……うん。僕は白ウサギがそう思うならそれに従うよ」


 白ウサギはソファーに座りながら少年を見上げた。


「三月ウサギ」

「うん?」

「アリスが俺らを選んだら……」


 最後までは言わなかった。だが三月ウサギはその意味を正確に理解する。そして一つ頷いた。


「良いよ。アリスは僕が連れ帰って来る」


 三月ウサギはくるりと回って扉を目指した。白ウサギはその背を見送る。

 アリスは一体、どちらを選ぶかなーー…。


 * * *


「不思議の国……?」

「そ、ここは不思議の国。んで、この森は別名『死の森』って言われてて、一度迷い込むと二度と抜け出せない。俺の縄張りの森なんだー」


 その影は淡々と答える。声からしてアリスとさほど年齢的に変わらないと予想出来た。


「それで?君は、この森にわざわざ俺に殺されに来たのかな?それとも、俺らの仲間になりに来たの?」

「……どういうこと……?」


 この国に来てから、理解出来ない事ばっかりだ。

 殺される?仲間になる?

 意味が分からない。

 その影は、アリスの戸惑いを含んだ声を聞いて、心底不思議そうだった。


「……あっれー?もしかして、白ウサギに何も聞いて無いの?おっかしーなぁ?」


 白ウサギ。


『殺されたくなけらば鍵を探せーー』


 そう言われたきり何も聞いていない。白ウサギとこの影が仲間なのかもしれない。でも、だとしたら……。

 それきり黙ってしまったアリスを見て、影は目を細める。そして、品定しなさだめをするかのようにその目が上下に動いた。


「……ふぅーん。じゃあ、俺が教えてあげる。これでも一応、この不思議の国の案内役なんだっ」


 影が言うには、次の通りだ。

 この国は不思議の国の住人によって「白ウサギ側」か「ハートの女王側」の2つに別れている。アリスはそのどちらかを選び、選ばれたほうはアリスを守る。しかし反対に、選ばれなかったほうはアリスの敵となり、アリスを殺しにやって来る。

 なぜ、アリスを殺すのか。

 アリスは影に問いかけた。すると影は、両の手の平を上に向けて、分からないといった仕草しぐさをする。


「俺、そういう難しいことはよく分かんないんだよね。俺らはただ、『鍵』の言う通りに動いてるだけ」

「…………鍵……」


 白ウサギも言っていた。きっとこの国から出るにはその鍵が必要なんだ。


「……でもねぇ、ーーアリス」


 ふと、影の声色が変わった。急にぴりぴりと肌を刺すような緊張が辺りに走る。


「俺、アリスを殺せるの、ずっと楽しみにしてたんだぁー。だからさぁ……俺がここで殺してあげるね?」

「っ!!…っ、は…」


 刹那、とてつもない衝撃がアリスを襲った。衝撃に堪えきれず、片膝を地面に付ける。


「……っ、……」


 アリスはその一つを体から引き抜く。それは針のようだった。

 引き抜いた箇所から血がどろりと流れ落ちる。

 これ……ただの針じゃない。


「あはっ♪気がついた?それね、俺が獲物を仕留める為に特別に作った針なんだー♪」


 アリスはぐっと唇を噛み締めた。指の感覚で、針の先が微妙に曲がっているのが分かる。つまり、無理に引き抜けば、それだけ傷が大きくなるのだ、

 ……アリスは立ち上がった。

 ここに居たら危険だ。早く、逃げないと…。

 木々の揺れる音がして、その影の口が三日月形に動いた。


「逃げても無駄だよーアリス。ここは、俺の森だって言ったでしょ?」




 アリスは森の中を何処までも走った。それなのに、影の気配がすぐ後ろにあるのを肌で感じる。影がわざと、そう示しているのだ。


「逃げなよ、もっと」


 影はアリスに対する攻撃を止めようとはせず、じわじわとアリスをなぶりながら言葉を発した。


「針に毒を塗ろうかとも考えたんだけど、そんなにすぐに死んじゃったらつまらないじゃん。俺、アリス殺すの初めてなんだから、もっともっと楽しませてよ」


 アリスは影の言葉を聞きながら、言いようもない吐き気に襲われた。

 言葉通り、すぐに殺す気はないのだろうが、先程受けた攻撃で右足の骨が上手く動かない。

 恐らく、しびれをもよおすものを針に塗っているのだろう。

 しかも、あの影は相当なり手だ。

 この視界の悪さで、人間の急所を正確に狙ってくる。

 それに加え、この森の構造がアリスを防戦一方にしているのだ。

 どんなに気配を消そうとしても、あちこちに落ちているれ木の枝が、歩くたびにパキッと音を立てる。これでは自分がここに居ると相手に伝えているようなものだし、かといって此処ここを動かずにいれば確実に殺される。

 アリスは思考を巡らせた。

 何か、方法があるはず。私は……ここで死ぬわけにはいかないんだから。


「ーーーー……」


 アリスはふと、空気の音を感じて下を見た。

 地面に顔を近づけて目をらし、聴覚も研ぎ澄ませる。

 ……聞こえる。

 手を地面につけ、目を閉じる。

 一か八か、この作戦に賭けてみるしかない。

 アリスは拳を握り締め、決意を込めて瞳を開けた。

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