25  夫婦龍

 食卓を囲んでそうさんが、雲大寺の住職から聞いてきた話を披露した。

「あのあたりの地名の多くは夫婦めおと龍の伝説にるものなんだそうだ」


 その昔、穴山あなやまと呼ばれる地区には夫婦龍が住んでいた。穴山とは夫婦の住む穴があったことに由来する。


 夫の龍はそのころは久喜里くきり川と呼ばれた苦霧くきり川、妻の龍は小母妻おもつ川、今の大松おおまつ川の、それぞれ化身だった。夫婦は仲が良く、二つの川は穏やかで水が枯れることも、氾濫を起こすこともなかった。


 そこへ西の国から一体の雄龍がこの地にやってきた。そして小母妻に恋心を抱き、誘惑した。もちろん久喜里が黙っているはずもない。二体の雄龍の壮絶な戦いが始まった。暗雲が立ち込めて大風が吹き始め、稲光が空を裂いては大雨を降らせた。


「雨が滝のように降った『滝降たきふり』、雨がやむように祈りを捧げたのが『あまごい』、広い畑が湖のようになっちまったのが『広水田ひろみた』、暴風が山を吹き飛ばし風穴を開けたのが『穴吹あなふき』と、あちこちにその大喧嘩おおげんかに由来する地名が残っているんだと」


 西から来た龍は若く美しく、そして久喜里よりずっと大きかった。戦う前から勝負はついていた。それでも久喜里は小母妻を諦められなかった。深く妻を愛していた。


 何日も続く暴風雨に人々が祈りを捧げる。人々は続く嵐の原因なんか知るはずもない。水神、つまり穴山に住まう龍神様の怒りを買ったとしか思えない。なにとぞお怒りをしずめたまえ、と人身御供ひとみごくうを差し出した。


「嫁入り前の美しい娘、きっといつか結ばれるはずの伴侶を夢に見ていただろう。久喜里は娘を、そして人々を哀れんだ。人々は我らに祈るしか手立てがない」


 勝てる見込みのない争いに、人々を巻き込み苦しめている、その事実に久喜里は己を恥じる。そして争う相手の龍を見る。身体が大きく若くそして美しい。小母妻を幸せにできるのは自分ではなくこの雄龍か、と久喜里が迷う。


「ええぃ! 判った。おまえたちの願い、叶えてやろう」


 久喜里は人身御供の娘を抱いて山の中に立て籠もる。人間の娘など欲しくもなかったが退く口実は必要だった。供物を差し出され受け取ったからには、人々の願いを叶えない訳にはいかない。


 それを見ていた小母妻は見捨てられたと世をんで、やはり山に籠ってしまった。小母妻もまた、久喜里を深く愛していたのだ。若く美しく大きな雄龍よりも久喜里を選んでいた。久喜里が籠ったのが夫龍籠おたつこも山、小母妻が籠ったのが妻龍籠めたつこも山と言われている。


 さて、横恋慕の若い龍は小母妻を思いきれない。かと言って一人で暴れても仕方がない。争う相手は山に籠ってしまって、もういない。さらに恋しい相手も山に籠り、引っ張り出すこともできない。おとなしく、小母妻が山から出てくるのを近くで待つことにした。この若い龍が相撲すもう川だと言われている。


「ま、住職の話はこんな感じだ。かなり参考になっただろう?」


 奏さんの話を、それで? それから? と聞いていた隼人が急につまらなそうな顔をする。そして言った。

「面白いお話、もう終わりなの? もっと聞きたい」

って、隼人、おまえ、おとぎ話を聞く幼児かよっ? 目的忘れてないか?


 面白い話ねぇ、と奏さんが苦笑する。


 とっくにカレーを食べ終わり、隼人は福神漬けの小鉢に挿したスプーンをもてあそんでいる。ペロリとやられ、小鉢に戻されたらたまらない。僕は慌ててスプーンを取り上げ、空いた皿を片付けた。


「バンちゃん、コーヒーね。それにプリンも持ってきて」

隼人の声がキッチンに向かう僕を追いかけてくる。


 きっと今日から、隼人は奏さんにコーヒーを頼まない。砂糖は三杯までと昨日言われたからだ。僕なら黙って砂糖を五杯入れると判っている。奏さんやさくに、隼人に甘すぎると言われても僕はそうしてしまう。隼人の嬉しそうな顔が見たい。それに、甘すぎるのは僕じゃなく砂糖だ、なんて屁理屈へりくつを心の中で考える。


 コーヒーとプリンを運ぶころにはみんなリビングに移動していた。隼人はあれきり何も言わないようだ。誰も声を発していない。ただ隼人はそわそわと、どうやら僕を待っていたようだ。


「バンちゃん、早く! 早く座って」

と、自分の隣に座らせようとする。みちるが僕からトレイを受け取り配ってくれた。カップはそれぞれ決まっている。隼人の隣に座ると、隼人が安心した笑顔を見せた。


 そうか、隼人、おまえ、龍神が怖いんだな。そもそもおまえ、水が苦手だよな。いつだったかトリトーンを相手にしたときも物凄ものすごく怖がって、あの時は確か逃げたんだった。巨大ナマズに沼に引き込まれそうになった時は、河童かっぱ九里くのさとさんが助けてくれた。うん、おまえ、泳げないんだよな。空にいる限り無敵でも、地上や水中じゃめっぽう弱い。おまえってそんなヤツだよな。


 満がみんなにプリンを配った。スプーンを貰った隼人が僕を見る。僕はうなずいて、プリンの蓋を外して隼人に渡す。嬉しそうに隼人はプリンを食べ始める。今度のプリンは何も乗っていないプレーンなプリンだった。


 プリンを食べながら、ポツリと隼人が言った。

「日本って龍の国だよね――日本自体が龍の形をしてる」

日本列島のことを言っているのだろう。そう言われればそう見えなくもない。


「ねぇ、龍って何を食べてるの?」

隼人の質問に奏さんはうなり、朔と隼人は首を傾げて見かわしている。つまり、誰も答えられない。知らないのだ。


 沈黙の中、五人でプリンを食べ続ける。いつもならさっさと食べてしまう奏さんも朔も、今日ばかりは少しずつ、ゆっくりとスプーンを口に運んでいる。まるでお通夜のような空気の中で、それでもいつかは食べ終わる。


 スプーンを僕に渡しながら隼人がまた、ポツリと言った。

「龍ってさ、地面の中に住んでるって言うよね。地震を起こすのも龍なんでしょ?」

やはり誰も答えない。そうだ、と知っているのに答えない。


「まぁ、いいや」

隼人がそう言って立ち上がった。


「奏ちゃん、大松湖に行って。あそこの駐車場の山の上にほこらがある。門の外に階段があったから、そこから行けるはずだ。行けなきゃなんとかして。奏ちゃんならできるでしょ」

「ほいほい、隼人の無茶は今に始まったこっちゃねぇ。なんとかするよ――で、行ってどうすればいい?」

奏さんが苦笑する。でも、どことなく嬉しそうだ。隼人が迷いを吹っ切ったからかもしれない。


「出来るだけ立派な果物を買って、祠にお供えして欲しいの。娘を返してくれって願掛がんかけしてね――それでダメならまた考える」


 果物と娘を交換したいってことか。隼人め、随分と娘を安く見積もったもんだ。でも久喜里だって、はなから娘が欲しかったわけじゃない。


「九時まで転寝して、十時時半に出かける。夜のだよ、間違えないでね。行き先は滝降青少年センター駐車場」


 滝降青少年センターは研修施設で、駐車場で車を降りてから少し歩かなければ行けない。駐車場の五百メートルほど手前に数軒の人家はあるが、そこから曲がりくねった一本道を上り駐車場で行き止まりになる。つまり、深夜の時間帯に通る人も車もない。相手の本拠に近いのが気になるが、隼人がそこにすると決めた。誰も異を唱えたりしない。


 行ってくるよ、と奏さんが出かけ、朔と満が自分たちの部屋に戻る。夜に備えて休むのだろう。それは隼人も同じだ。


「バンちゃん、ボクの部屋に来てね。背中、貸して欲しいの」

隼人が心細げに僕を見て言った。

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