第8話 正しい自覚のススメ

認めたくない。


不毛な片思いなんて嫌だ。


ズルズルハマって抜け出せなくなる。


相手は社内の・・・よりによって上司だなんて。


あの人が、自分をどんな目で見てるのかなんて、誰より自分が一番よく分かってる。


結果なんて目に見えている。


頼れる部下にはなれたって、それ以上は望めない。


片思いが辛くなって逃げ出したくなったってそうはいかない。


この不況でやっと見つけた会社なのだ。


また貯金を切り崩す生活に戻るわけにはいかない。


就職氷河期に奇跡的に採用して貰えた有難い会社を二年で退社したなんて実家の親が知ったら卒倒するに違いない。


そのうえ、二社目の会社も上司に不毛な恋をして玉砕して退職・・なんて。


キツイ、きつすぎる。


でも、惹かれていると自覚した心はきゅんきゅん鳴って恋だよ、と訴えて来る。


彼と交わした他愛無い会話を思い出すだけで、胸は弾んで震えるのだ。


だから・・・



☆★☆★


一晩のうちに一体どんな変化があったというのか。


鏡の前でいそいそ化粧をする自分に向かって問いかける。


今朝は数か月ぶりに目覚ましアラームよりも15分も早く目が覚めてしまった。


それならといつもとは違う服の組み合わせを考えて、化粧にもいつもの倍の時間を掛けている。


マスカラに至っては休日でもないのに、ロングタイプとボリュームタイプ2本使いで完璧に睫毛をコーティングした。


選んだ香水はいつもより甘め。


昨夜は丁寧にネイルを落として、久しぶりに気合い入れてフレンチにしてみたり。


頭はぼんやりしているくせに、身体は勝手に動くのだ。


念入りに毛先だけコテで巻いた後で、改めてオフィス仕様の自分と鏡の中でご対面。


どう見たって今日の夜何か予定がある女にしか見えない。


「・・・自分が怖い・・」


いくら何でも変化しすぎだろうと思うのに、アイシャドウパレットを選ぶ手は止まらない。


パール入りのアイシャドーをせっせとぼかしながら、鏡に映る今日着ていく洋服をチラッと確かめる。


今朝クローゼットを開けて、じっくり悩んだコーディネート。


いつもの”ま、これでいっか”な無難なオフィスカジュアルから一変。


カバンまでセットで変えたくなって、結局余所行きコーディネートが出来上がってしまった。


単純すぎる自分の思考回路が恨めしい。


けれど。


なんとなく・・・昨日よりずっと、朝が来るのが、待ち遠しかった。


そんなふわふわした気持ちの変化は随分と久しぶりで、戸惑うけれど、嬉しくもある。


枯れ果てていた乙女回路が目を覚ましていく感覚はいったいいつぶりだろうか。


いつもは仕事の邪魔にならないシンプルなピアスばかり選ぶけれど、今日はぶら下がりのピアスを選んだ。


急にメイクボックスの中に詰め込まれているアイシャドウパレットがどれも味気なく思えて来て、新しい色見が欲しくなった。


会社にも、仕事にも、自分を馴染ませる事ばかりして来たけれど、もう少し自分を主張する色を身に着けたいなと思ったのだ。


リップスティックは、控え目の桜ピンク。


血色が良くなるとそれだけで明るく見える。


緩みまくっている頬を軽く叩いて今日は仕事だと気負いを入れ直す。


毛先だけ巻いた髪に、軽くスプレーを振って、そのまま行こうか、バレッダで止めようかまた姿見の前で一考する。


自宅に出るまでにこんなに時間が掛かったのは、この部屋を借りてから初めてかもしれない。


心が浮き立つ感覚は、身体にまで影響を与えるのだ。


家を出る時点で、今日はいい日になると確信してしまう。



★★★★★★


順調に午前中の仕事を終えて、遅れる事無くランチに入れた。


丁寧に化粧直しをして、ウキウキしながら昼休憩を終えて席に戻ると、松尾が嬉しそうに話しかけてきた。


「高階ちゃん、今日雰囲気もメイク違うー」


気になるオーラ全開でこちらを見てくる。


探偵さながらの洞察力だ。


「ほんとですかー?」


「うん。なんか、目がきらきらしてる」


「・・・・」


うっかり恋してるんです、と言いそうになった自分が怖い。


きゅっと唇を引き結んで、すぐに適切な話題を引っ張り出した。


「マスカラ、新しいのに変えたんですよー。長さも出て、ボリュームもあるやつに」


「ふーん・・・・それだけ?」


「そ・・・それだけです。これまでちょっと手、抜き過ぎてたかなって・・・」


どうせ目ぼしい年頃の男性社員は売約済みだし、仕事だけするんだから最低限のメイクでいっか、なんて思っていた去年の自分を呪いたい。


ポロっと零した一言をすかさず聞きとって松尾がにやっと微笑む。


「手、抜けなくなったんだぁ?」


「・・・い・・・一応女の子ですからっ」


「綺麗になって見せたい人でもできた?」


「・・・いませんよー」


「えー?ほんとにー?女の子が綺麗になりたくなる時は、大抵素敵な出会いがあった時なんだけどなぁー?」


「自分に余裕が持てた時ってのもあると思います!」


これは嘘ではない。


緒方の事を意識する余裕が出来たのだ。


仕事を覚える事に必死だったこの一年半、他の事にかまける余裕なんてこれっぽちも無かった。


「あーまーね、それも一理あるわよねぇ・・でもさー」


そう簡単には逃がしませんよと目線で訴えて来る松尾から、必死に目を逸らす事数秒。


タイミング良く外線電話が鳴り出した。


これまでの最速で受話器を持ち上げると、諦めた顔で松尾が仕事に戻っていった。


女子の変化には、女子が一番敏感に反応する。


同性だからすぐに分かるのだ。


雰囲気や、仕草や、着る服、髪型、メイク。


隠そうとしたって無駄なのだ。


頭では分かっているけれど、やっぱり良く知る彼女に上司好きになっちゃいましたなんて口が裂けても言えない。


こうして客観的に自分を確かめてみると、これまで本当に最低限の手間しか掛けて来ていなかったのだと思い知らされる。


ネイルは週に1回直せばいいほう。


ペディキュアに至っては2週間以上平気でも放置。


メイクはいつもオフィス使用で統一。


出かける予定がある日以外は、コーディネートも特に気にしない。


ふと足元に視線を向ければ、随分くたびれて来た仕事用のパンプスが目に入った。


お使いを頼まれたりもするので、動きやすさ重視のローヒールと、雨の日用の7センチヒール、会議に出席する時のよそ行き用、と三足を使い回して来た。


プライベート用の靴に至ってはスニーカーとヒール、サンダルが一足ずつ。


ここ数年靴は新調していない。


出かける相手がいなかったせいだ。


途端部屋のクローゼットの中身まで気になり始める。


最後にちゃんとしたお出かけ着を買ったのは、三年前だ。


昨今叫ばれている女子力の低下はほぼすべて優月の現状に当て嵌まる。


ボーっと眺めてるだけだった雑誌ももっとちゃんとチェックしよう。


お弁当も、冷凍食品ばっかりじゃなくて、お肌に良い野菜も沢山入れて、バランスも見た目も可愛いものに変えよう。


ヨーグルトと出来あいのものと、実家からの支援物資ばかりが詰め込まれた冷蔵庫を思い出して優月は苦い顔でメモを引っ張り出す。


”野菜”


ひとまずこれと・・あと、シャンプーのストックと・・洗剤も無かったんだなぁ・・・いいにおいの柔軟剤とか欲しいし・・


次々に必要なものが思い浮かんで、買い物リストがあっという間に増えていく。


まず、インスタントのご飯は禁止して、今日は帰ったら煮物を作ろう。


食事の基本は和食からだ。


書きながら一人でこくこく頷いていたらいきなり視界が暗くなった。


「えらくキラキラしい蝶々だなぁ」


背中でそんな声がして、優月は慌てて振り返る。


もうすでに自分の顔が火照っている自覚があった。


「なにしてんですか!!」


髪を留めていたバレッダが外されて、緒方の手に移っている。


「いやー遠目から見たら、なんか気になってな」


そう言って、バレッダを持ったまままじまじとそれを眺める緒方。


男性には縁のないそれが珍しく見えたのだろうか。


零れた髪を手で直しつつ、優月は思いっきり言い返す。


いつもの遠慮なしの口調を思い出しながら。


「せめて声掛けてくださいよ!」


いきなりバレッダ外すとか・・・こっちの心臓が持たないから!


「かけようとしたんだけど、お前がなんかやったら深刻そうな顔してたから」


「か・・考え事してたんですー」


「まーた余計なこと考えてたんじゃないだろうな?」


「・・・よ・・余計なことってなんですか・・」


何だか急に気まずくなって、手元のメモ用紙を慌てて裏返す。


「いや・・・別に・・・気にしてないならいい」


ちょっと間を置いてそう言った緒方が、蝶のバレッダの羽を閉じたり開いたりして遊び始めた。


優月の側に留まったままの彼の顔を見上げて、その理由にやっとたどり着く。


昨日のコンビニのことだ。


その直後に緒方への気持ちを自覚した優月にとって、コンビニの彼は今となってはただの通行人の一人にすぎない。


どうやら緒方は、優月がその事をまだ引きずっていると勘違いしたようだ。


そういう誤解だけは絶対して欲しくない。


「ホッとしてます!・・・あたし、ああいうの苦手だしっ」


「あー・・・だろうなぁ」


納得したように言われて、それはそれで何だか腹が立つ。


「・・・なんですかそれ」


「いや・・ま、そのままの意味」


「・・・どーせ、上手くあしらえませんでしたよ。年甲斐もなくオタオタしちゃったし」


「そう拗ねるな」


苦笑いで緒方が優月の頭をぽんと叩いた。


心臓は跳ねたし、嬉しいけれど、やっぱり癖で反射的に言い返す。


「拗ねてません!」


「そうかー?」


「そうです!・・・で、何の御用ですか?」


優月の質問に、緒方が快活に笑って見せた。


「用事は無いぞー。コレが気になっただけ」


「・・・・あ・・そーなんですか」


高階(あたし)が気になっただけ。


勝手に脳内変換してくれる乙女回路の高性能が憎い。


勝手に自惚れて、勝手に凹むことになるのに。


掌に落ちて来たバレッダを受け止めたら、胸の奥がきゅうんと鳴った。


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