第9話 正しい飲み会のススメ
「高階ちゃーん、行くよね。コレ」
バインダーに挟まれた回覧をトントンと指差して松尾が最終確認をしてくる。
”営業企画部部長の送別会”
今月で定年退職する田中部長は、このフロアにもちょくちょく顔を出していたので、入社して1年半の優月も顔くらいは知っている。
「あーハイ、行きまーす」
この会社の特色で、他部署でも送別会はほぼ全員参加なのだ。
とくに断る理由も無いし、飲食代は経費なので有難く出席させていただく事にする。
「じゃあ、出席に丸して上に戻しておくわね」
「あ、いいですよ。私、社内便持っていくからついでに持っていきます。総括取ってるのって、どなたですか?」
いくら頼れる先輩でも足に使うわけにはいかない。
バインダーを受け取って問い返せば。
「営業企画の工藤君。えーっと・・・ひょろっとしたメガネの男の子なんだけど・・・わかるかしら?」
男性社員が特に多い営業部、営業企画部は、似た雰囲気の人間も多い。
スーツと眼鏡だけだとほぼ特定不可なのだが、ひょろっとした、という特徴であたりを付ける事が出来た。
何度か見たことのある線の細い男性社員を思い出す。
「あー・・・なんとなく分かります、ダイジョブです」
「じゃあ、よろしくねー」
「了解しましたぁ」
提出予定の経費伝票を急いで纏めて、緒方のもとへ決裁を貰いに行く。
経理部に送る前に直属の上司の承認印を押して貰う必要があるのだ。
緒方が不在の際には、処理を溜めない為に、こっそりハンコを預かって出しておくのだが、在席中はそうはいかない。
営業から戻ったばかりの彼が煙草を吸うために席を外す前に急いで捕まえる。
「課長、お疲れ様です」
「おーどうした?」
上着を脱いだ緒方が振り返って優月を見た。
意図せずばっちり目が合って、それだけで思わず背中がのけ反りそうになる。
意識するなと願えば願うほど、鼓動が速くなるのはどうしてだろう。
お願いだから、どうか赤くなってませんようにと祈りながら、書類を差し出す。
社内の人間を好きになると、しょっちゅう顔を見る事が出来るが、その分心臓に負担を掛ける回数が激増する。
ここ数日で初めて知った事だ。
世の中の大人女子は一体全体どうやって片思いを続けているのだろうか。
「こないだの茶封筒とお祝儀袋の伝票上げたんで承認印お願いします」
「あーハイハイ。秋田電工の分な」
「そうです」
頷く優月の手から伝票を引き抜いて緒方が、ふと視線を止めた。
伝票の数字に間違いでもあっただろうかと一瞬不安になる。
と、彼が急に顔を上げた。
「送別会行くのか?」
「え。あ、ハイ」
まさかの送別会の話題に、ぎゅうっと固まった心臓が一気に緩む。
飲み会はタダだから行った方が得だと最初の歓迎会で優月に教えたのは他ならぬ彼なのだ。
それなのに、緒方きたら複雑そうな顔で優月の顔をまじまじと見つめてくる。
他意はないと分かっていても妙に意識してしまう。
至って普通の返事だけを返したつもりだが、いつもよりメイクが可笑しいのだろうか?それとも髪型か?と次々疑問と不安が押し寄せて来る。
途方に暮れて眉根を寄せると、緒方がようやっと口を開いた。
「まー・・いいけど」
不承不承といった承諾に、あれ?と違和感を覚えた。
「いいけどって・・・ナンですか?」
「あーいや、こっちの話」
「は?」
「いいから、ほら。持っていけ伝票」
「ちょっとー言いかけてやめるのナシですよ!気になるじゃないですか」
飲み会に参加する事に上司の承認が必要になったのか?いや、そんなわけがない。
言い募る優月に向かって、犬でも追い払うようにしっしと手を振って緒方が顔を背ける。
「あーうるさい、うるさい。ほら、早く行け」
ますますもって怪しすぎる。
何か含むところがあるのだろうが、緒方がそう簡単に口を割らない事はこの一年半で実証されている。
どんなに食い下がっても、ダメと言ったらダメなのだ。
仕方なく諦めて、課長席に背を向けて歩き出す。
「あー・・・高階」
数歩進んだところで急に呼び止められて、弾かれるように振り向いた。
奇跡的に気が変わったのかもしれない。
と、困ったような顔をした彼と目があった。
「・・・・なんですか?」
「怒るなよ」
急に宥められる理由が分からない。
肩透かしを食らった優月は思い切り唇を尖らせてやる。
「怒ってませんー」
「・・・・あーはいはい。わかった」
優月の冷たい視線を受けたまま緒方は続けた。
「松尾さんも来るんだろ?」
「え・・・あ、はい。行かれるそうですけど」
どうしてここで松尾の名前が出て来るのだろう。
訝し気に首を傾げた優月の中で、一つの仮説が浮かんだ。
え!?まさか・・・もしかして!?
緒方は既婚者の松尾に片思いでもしているのだろうか。
社歴は松尾の方が長いけれど、同い年の二人は、昔はよく飲みに行っていたらしい。
今より規模が小さい会社だった頃は、経理も営業事務も纏めて松尾が面倒を見ており、緒方も随分頼りにして来たと聞かされていた。
降り積もっていく疑惑と不安に押し潰される直前、緒方が短く付け加えた。
「とりあえず、彼女にくっついとけ」
「は・・・ハイ」
彼女の虫除けになれ、という事だろうか。
★★★★★★
乾杯の音頭の後、一応役職順という形で作られていたテーブルの座席は綺麗にごちゃまぜになった。
下っ端はお酌に走って、上司たちは懇意のメンバーで集まっている。
かくいう優月も例外ではなく、一通り先輩や上司、他部署の皆々様にお酌とご挨拶をして回った。
扱いはまだまだ新人同様なのだ。
ビール片手にぐるっと会場を一周する。
「あ、高階さん」
途中で中ほどのテーブルから声がかかった。
見ると、田中部長の所属する営業企画部のメンバーが集まっている。
優月が出欠表を渡しに行った、今回の幹事を任されている工藤もいた。
どうやら彼に呼ばれたらしい。
「幹事、お疲れ様です」
ビール瓶を差し出すと、すぐに彼が笑顔でグラスを持ち上げた。
180センチ弱ある緒方よりわずかに高い身長で、厚みは緒方の三分の二程しかないひょろりとした彼に、勝手にアルコールは弱いという印象を抱いていた。
どうやらいける口のようだ。
「あーどうも」
工藤以外の社員を放置するわけにもいかず、同席していた2人の男性社員にもビールを注ぐ。
営業企画の社員とは仕事で直接関わりあいになる事がない。
定例会議で緒方たち営業とは同席するようだが、事務員は不参加なので、こうした飲み会でなくては話す機会もほとんどないのだ。
見た目の雰囲気から、何となく同じ年代かな?位の予想は付いた。
「高階さんって去年入社なんだね」
「そうです。中途採用で入ったんで」
「じゃあ、同期居ないよね?飲み会とかもあんまりないんじゃないの?」
工藤の右隣に座る男性社員がビールを飲みながら尋ねてくる。
彼の言う通り、飲み会と言えば部署の飲み会くらいだ。
同じ年に入社した新入社員とは、さすがに話が合わない。
ましてやこの不景気。新卒、中途採用合わせて同期と呼べる人は7人しかいない。
当然所属部署も違うし、初期研修以降顔も見たことが無い。
「ない・・・ですねェ」
前職は、深夜残業が当然のブラック企業だったので飲み会は歓迎会の一度キリだった。
普通の企業の飲み会をあまり知らない優月にとっては、部署の飲み会で十分だ。
「今度、俺たちの同期の飲み会に来ればいいよ」
「え・・」
「年も近いメンバーばっかだし。気の合うやつも見つかるかもしれないし」
同期の飲み会。
たしかに、以前の会社なら休日出勤の後、女の子同士で飲みに行く事は多かった。
溜まりまくった愚痴を吐き出し合って、肩を叩き合ってもうちょっと頑張ろうと励まし合う会だった。
「は・・」
思わず頷きかけたら、突然離れた場所から名前を呼ばれた。
「高階ー」
緒方の声だ。
「は、はい!」
「ビール無くなったんだ、取ってきてくれ。すぐな」
空っぽらしきビール瓶を揺らして急げと指示を出して来る。
いつもの飲み会なら、自分で進んで店員に声を掛けるのだが、今日は勝手が違うようだ。
優月は慌てて営業企画のメンバーに軽く頭を下げる。
「すぐ行きますー!じゃあ、失礼します」
言われた通り会場の後ろに設置されているドリンクコーナーから、瓶ビールを一本取って、緒方の元へ届ける。
“松尾さんにくっついておけ”
ふいに浮かんだ彼からの指示に、酔いのせいか泣きそうになる。
なんで松尾さんなのよ!
松尾は優月にとって無くてはならない頼れる先輩だ。
仕事は出来るし、愛想も良くて面倒見も良い。
何度か作って貰った手作り弁当は、手が込んでいて愛情たっぷりでとても美味しかった。
机に飾ってある二人の息子との家族写真を見る眼差しは柔らかな母のそれで、それを見る度、結婚ていいなと思える。
好きにならないわけがない。
けれど、彼女は既婚者なのだ。
苦虫でも噛み潰したような顔で、優月に松尾の虫除けを指示する位、彼ははひそかに彼女恋をしているのだ。
最初から相手にして貰えるなんて思っていない。
叶わないのなんて分かっていた。
それでも、好きという気持ちに罪はない。
実らなくても、好きなものは好きなのだ。
名前を呼ばれて嬉しかった、ただそれだけでいい。
「はーい、お待たせしましたぁ」
「遅い」
珍しく不機嫌な声で返されて思わず凹みそうになる。
「すいませんねェ」
「松尾さんにくっついとけって言っただろ」
「・・・・いま田中部長のとこに挨拶に行かれてるんですー」
「お前、営業企画に知り合いなんかいたのか?」
唐突な質問に、優月は目を丸くした。
「いないですけど・・」
「そうか」
素っ気なく言って優月の入れたビール(悲しいかな7:3じゃない)を口にする緒方の横顔は至っていつも通りだ。
なんとなく黙ったら、向こうから挨拶を終えた松尾が戻ってきた。
緒方の命令を実行すべくすぐさま立ち上がろうとする。
「高階」
「はい」
立派に使命を全うして見せます、と意気込んで返事をすれば。
「いいから座っとけ」
想いきり出鼻をくじかれた。
全く以て意味が分からない。
怪訝な顔をする優月の横で、丹羽が笑いながら小さく言った。
「ビール、まだテーブルにあったのに」
見れば汗かいたビール瓶がちゃんと目の前に用意されている。
なんで・・・?
疑問が浮かんだ瞬間に、すかさず緒方が優月の目の前にビール瓶を差し出した。
「お前も飲めよ。たまには注いでやる」
「あ・・はい。イタダキマス」
グラスに注がれるビールと同じように、優月の中で疑問符がいっぱいになりつつあった。
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