第3話 彼と彼のお気に入り
通話が終わった後も携帯を握りしめたままの緒方を見て、同行していた部下の丹羽が怪訝な顔になった。
煙草をふかしている時以外は常に思考を動かしている上司が、携帯を握りしめたままぼんやりしているなんて、異常事態だ。
「緒方さん・・?電話、切れてません?」
「・・・え・・・あ・・・ああ・・」
「誰が出たんですか?」
「・・高階だ」
「あれ・・・まだ帰って無かったんだ。何かあったんですかね?」
「みたいだな・・」
「え、この時間にトラブルですか?」
とっくに終業時間は過ぎているので、今からリカバリーに動くのはなかなかに厳しい。
大型顧客からのクレームでない事を祈りつつ、上司にこの後の動きを相談しようと視線を向けるも、まだ緒方の焦点は定まっていない。
「緒方さん?」
「ああ、いや。トラブルじゃないから、大丈夫だ」
支社会議は終わったし、あとはいつもの懇親会を残すのみ。
毎月殆ど代わり映えしない顔ぶれで定番の店に向かうので、気が抜けても仕方がないが、普段の彼らしくない。
仕事とプライべートはきっちり区別するタイプである事は、入社当時からの部下である丹羽が誰より一番知っている。
それになにより。
斜め前の上司の顔を見やって、丹羽は気まずくなって視線を逸らした。
どう見てもこれは、仕事場の部下に電話を掛けた後の顔ではない。
「どうかしました・・?」
「・・・なにが?」
「えらく嬉しそうだなと思って」
「・・・俺が?」
「他に誰がいます?」
喫煙フロアにはほかに誰もいない。
ぐるっと視線を巡らせた緒方は短くなった煙草を灰皿に押し付けた。
細い紫煙が立ち上って、すぐに空気清浄機に吸い込まれていく。
何とも分かりやすい緒方の反応を見てしまった以上、黙っているわけにはいかない。
「高階に、告白でもされました?」
「・・そんなわけあるか。いくつ年が離れてると思ってる」
あまりに突拍子もない発言に、驚くより呆れた顔で緒方は返した。
「部下の成長を実感したんだよ」
「へー・・・大事に育てましたもんね。1年」
「当たり前だ。追加人員の許可下ろすのにどんだけ根回ししたと思ってる」
営業・メンテナンスを一括して対応していた部署が飽和状態になり、営業メインとメンテナンスサポートメインで二課体制にしようと上役達が動き始めた時点では、事務員は松尾一人、経理関係は経理部に投げる予定になっていた。
経費精算のチェックが細かい事で有名な経理部長と折り合いの悪い緒方が、一課専任の事務員の増員を申請して、承認が降りるまでに半年かかった。
面接には緒方も立ち会い、これならという人間を選定した。
それが高階優月だ。
営業部長、人事部長、支社長への徹底した根回しで増員した事務員なので、当然入社後半年なんかで退社されては困る。
その為、叩けば埃が出まくるブラック企業を前職に持つ優月を採用した。
支店の事務員は仕事量も多く、サポート業務は多岐に渡る。
それらをこなしていけそうで、この会社に根付いてくれそうな人物。
自分の人選に間違いなかったと確信が持てたのは入社して三か月が経ったころ。
今ではすっかり営業一課の頼れる事務員に成長してくれた。
よく気も利くし、課内のメンバーとも上手くコミュニケーションを取っている。
半年が過ぎた頃には、緒方の軽口にも言い返す余裕が出て来て、そのあたりから一気にミスが減った。
大切に育てて来た可愛い部下の一人だ。
「でも」
「・・・なんだ、まだあるのか?」
うんざり気味の顔を丹羽に向けると、咥え煙草のままで彼が灰皿に灰を落として笑う。
「高階って・・・今年27でしょ?今時10歳差なんて珍しくもないでしょ。世の中には親子ほど年離れてたって、結婚してる夫婦はいますから」
「あのなぁ・・・そもそも、俺が部下をそういう目で見てたら可笑しいだろう?」
あくまで上司と部下として今日まで接してきたのだ。
当然、これからもその関係は続いていく。
「・・・・・なるほど」
未だ不納得な表情で、けれど返事だけは穏やかに丹羽が返した。
そして、紫煙を吐き出しながら付け加える。
「そういう理由を付けて、自分の気持ちをセーブしてきたわけですか」
性悪な笑みを浮かべた部下の痛烈な一言に、緒方は瞠目して言葉を失くした。
★★★★★★
だ・・・だれかあたしに薬をちょうだい!!動悸、息切れ、気つけに効く薬!
よろよろしながら支店を出て、帰路に着く。
全く回らない頭でも、足は勝手に駅の方向へ進んでくれるから助かった。
今、頭を埋め尽くしているのは緒方との一連のやり取りだ。
事務員として自分の評価を確かめるのは決して悪い事ではない。
どうせボーナス査定が始まれば、否が応でも面談で評価を突きつけられるのだから。
だから、これはあくまで部下としての正しい質問だ。
うん、そうだ、間違いない。
通り過ぎるサラリーマンが怪訝な顔をこちらを見て来るけれど、そんな事には気づかずに、誰にともなくこくこく頷いて、胸に手を当ててみる。
あの電話の直後から一気に速くなった鼓動には、きっと深い意味なんて無い筈だ。
ただ、単に緒方に認められたいと思った、それだけだ。
あの人に、認められるような大人の女になりたいって、それだけだ。
まだまだ全然ダメだけど。
それでも、1歩前に進めた気がする。
よし、よくやったと自分を褒めて、また明日から事務員として頑張ろう。
ぐっと拳を握ってみるけれど、やっぱりまだ跳ねる鼓動は治まらない。
何とも言えない高揚感は一体どれくらいぶりだろう。
この気持ちを突き詰めていくと、マズイ気がする。
今目指しているのは、どんな時でも、怯まない、強い女。
この気持ちを追いかける前に、やるべきことはもっとある。
「よしっ・・・」
決めたら早かった。
気合い入れるべくすぐ目の前のコンビニへと向かう。
と、店の手前で携帯が鳴った。
着信画面に映し出された名前は高校からの友達、有坂由奈だ。
優月と同じく平日勤務の彼女とは、仕事帰りや休日にお茶をしたり、飲みに行ったり、仕事の愚痴を言い合う仲だった。
「はいはーい」
「はいはーいじゃない!!なんなの!?さっきの意味不明メールは!?何事かと思ったわよっ!」
「えー・・・・あーなんか送ったっけ?」
「あんたねー!!テンパるたびに不可解な行動に出る癖いーかげんに直しなさいっ!」
「・・・すいませーん・・・」
親友である由奈にヘルプメールを送るのはいつものこと。
テヘっと軽く謝ってみたが怒りは解けないようだった。
ブラック企業で働いていた頃は、ひたすら仕事の愚痴をお経の様に書き連ねたメールを酔った勢いで送ったり、飲みに行った先で、もう辛いと泣き崩れたりと、お世話になりっぱなしの相手である。
無意識のうちにいつもの癖で由奈にメールを送信していたらしい。
「ホールケーキでも買って遊びに来るなら許すけど」
「いや、ホールケーキは言い過ぎだろ。手ぶらでいいよ、高階」
その後ろから、高校時代からの恋人である大貫の声がする。
結婚を前提に去年から同棲をスタートした幸せカップルは、優月の理想でもある。
「いいのよ、散々愚痴と悩みを聞かされてきたんだから」
「うう・・その通りです・・近いうちにケーキを差し入れします」
「約束ね。で、仕事順調だと思ったら、次は恋かー」
電話の向こうから聞こえて来た聞き慣れない単語に耳を疑う。
一体どんなメールを送ったのだろう。
「やっと転職して1年たって落ち着いたと思ったら、今度はなに?年上の上司に惚れたって?」
「はーいー!?」
「なに驚いてんのよ。あのメールそういう意味でしょ」
「え・・・え?ええええ?」
「うちの上司に初めて認めて貰えたんだけど!なんか動悸やばくて倒れるかもしれない、ってこの文面だけ見たら、間違いなくそうでしょうが」
「え・・いや・・・間違いなく・・・そう、では・・まだ、ない」
「まだない、って何なの?ちょっといいなって思ってるって事でしょ」
「ちょっといいな、というか、ほんとに頼りになるし、仕事できる人だから憧れと言うかなんというか・・」
「前の上司が最悪だったもんね、で、その上司どんな人?」
「どんなって・・・あ、先に言っとくけど好きじゃないから!好きにはならないから!」
「はいはい、前置きはもういいってば。好きにならないって言ってる時点で気があるって言ってるも同然でしょ」
「同然じゃない!私が目指すものは立派な事務員!それ以上でも以下でもないの。それに・・課長が求めてるのは、出来る部下だし・・」
一年半一緒に仕事をしていれば、自分がどういう風に見られているかなんて、痛いくらい分かる。
緒方は優月の10歳も年上だし、どう見ても恋愛対象にはなりえない。
彼にしてみれば、自分が採用した手のかかる直属の部下を必死に育てている最中という感じだろう。
「そんなの分かんないよー?」
「分かるよ。1年半ちゃんと見てたから分かる。そうなの」
万一この気持ちを突き詰めて、優月が緒方を意識し始めたら、まず間違いなく緒方は優月と距離を置く。
そう、確信できる。
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