第2話 正しい転職のススメ

「はー・・・くたびれたぁ・・・」


受け取ったカフェオレのストローを噛みながら机に突っ伏して、しばしの休憩時間に浸る。


毎月月初に行われる支社会議の直前まで、前月の売り上げ集計やら、次月の予算計画やらで大わらわになるので、ひと時も気が抜けないのだが、支社会議の資料作成が終わると、事務員に出来る事はほぼ皆無なので漸く人心地付けるのだ。


またやって来る月末を乗り切るために、英気を養いつつ最初の一週間は前月の営業の経費精算のチェックで終わる。


が、一課の営業は几帳面な丹羽を筆頭に、みんな領収書を溜め込まずにこまめに入力をしたり、早めに優月へサポートを依頼してくれるので、月初処理で躓く事はまずない。


最難関だった支社会議の資料も緒方の手に渡したので、今日は間違いなく定時退社出来る筈だ。


緒方もそうしろと言っていたし、秒針が天辺に回ると同時に退社してやろうとほくそ笑む。


汗をかいたプラスチック容器を指の腹で撫でたら、違和感を感じた。


見れば、指サックが親指に嵌めっぱなしになっている。


ピンク色のそれを取って、溶けたキャラメルソースを綺麗に混ぜて、カフェオレを吸い上げた。




いつまでも決まらない就職先に半ば諦めモードだった大学生の優月の元に、採用通知を届けてくれた企業は地元の中小企業だった。


電子部品を取り扱う会社は、表向きクリーンに見えていたが、実情は見事なまでのブラック企業。


何とか二年間耐え忍んで、事務経験を積むことにだけ注力して、部署の事務員全員で辞表を叩きつけて退職。


失業保険となけなしの貯金を切り崩して、必死に転職活動をして、やっとたどり着いたのが今の会社だ。


システム、ソフトウェア開発を行う企業は、地元の優良企業である志堂のグループ会社。


手厚い福利厚生で有名なホワイト企業のグループ会社なのだから、今度こそ間違いないと確信が持てた。


実際、以前の会社とは比べ物にならない位福利厚生はしっかりしているし、当然サービス残業なんて皆無。


不景気の煽りを受けて、ここ数年新入社員を採用しておらず、中途採用が殆どの社内の雰囲気は穏やかで、人間関係も悪くない。


一つだけ不満を言うなら、景気が上向きにならない限りは追加事務員の補充は不可なので、課員のサポートを優月一人で行わなければいけないこと位だ。


とはいえ、社会人経験ゼロの人間はいないので、皆自分の事は自分で出来るし、営業メンバーは全員愛想も良くて優しい。


二課の事務員である松尾は、サバサバしていて付き合いやすい性格の女性で、優月が仕事に慣れるまではいつも適格にフォローしてくれていた。


優月が採用されるまでは、営業一課と二課は一つの部署で、専属の事務員は松尾

のみで、経費関係は経理部が吸い上げ対応を行っていたらしい。


事務員が一人増えただけでも十分すぎる快挙だと松尾は話していた。


即戦力を求められて採用されたのだから、何とか社員の力になりたいとひたむきに走って来たこの一年半。


おかげでただでさえ遠のいていた婚期はさらに遠ざかってしまった。


前職が、女性向けアパレルブランドだったので、当然ながら社内には女子社員ばかり。


素敵な出会いに恵まれる事もなく、ひたすら深夜まで仕事に追われる毎日を過ごしていた優月にとって、恋愛ははるか遠い過去の一部になってしまっていた。


完全な畑違いの職種を選んだのは、ほんの少しだけ、異性との出会いがあるかも、と期待しての事なのだが。


優良企業の男性社員は、揃って結婚が早いという事実に気づいたのは、転職して一ヶ月目の事だった。


一課の緒方の右腕である丹羽は結構願望自体が無くて、つい先日適齢期の彼女に結婚をほのめかされて別れたばかり。


それなら、と他の課員に目を向ければ、皆既婚者、もしくは長年付き合っている彼女持ちのオンパレード。


現実とはこんなもんだと開き直って、まずは仕事を覚えて、乱れまくった自分の生活基盤を整える事に集中しているうちに、一年半が過ぎていた。


社内の出会いは完全に諦めて、それなら、社外で誰かの伝手を頼ってまで出会いを探す気力も正直無い。


一緒にブラック企業を退職した同期から、何度か合コンの誘いを受けたけれど、仕事に慣れる事に必死でそれどころではなかった。


恋をしなくても生きていけるが、仕事がなくては生きてはいけない。


毎月の家賃の支払いに水道光熱費、消耗品費に食費。


残業続きでろくに使えていなかった貯金に手を付けた瞬間、これが無くなったら本当に生活困窮者になるという不安に襲われて以来、甘ったるい考えは遠くに追いやった。


幸い、今の会社は定年まで働けるし、育児休暇も取得できる。


もう少しこの生活に余裕が出来たら、次の一歩も探してみたいとは思うけれど、もう恋愛から遠ざかり過ぎてしまって、ときめきなんてとうに忘れた。


頑張ればそれだけ評価はされるし、認めても貰える。


緒方の下で働く事は、決して楽ちんではないけれど、事務員として間違いなく必要とされていて、働きに見合ったお給料が受け取れる、それだけでも十分すぎる位に贅沢だ。


男性社員の割合が7割強の会社なので、前職に比べると言葉遣いの乱暴さには戸惑いを覚えるけれど、緒方の物言いに苛立つことはあっても嫌悪感を抱く事はない。


裏が無いと分かるからだ。


マウンティングと小競り合いの女社会で揉まれて来た優月にとっては何よりそれが信用できるし、有難い。


突き離したような物言いをするけれど、何かあれば率先して部下を守ってくれる。


大雑把なようで、数字のチェックは優月よりも正確で、部下の動きも見てないようで、しっかりと見ている。


気安いようでいて、きちんと線引きして接してくれるところもあって、緒方の依頼を受けた松尾のフォロー通して何度もそれを実感している。


入社初日に一日電話番をさせられて、専門用語と至急の依頼にパニックになった優月に向かって、緒方が


「うち、こんなんだからな。まあ、気合入れ過ぎんな。肩の力抜いて適当位だ」


とあっさり言ってのけた時には、緊張やら不安やらがごちゃ混ぜになって、ついぽろっと本音が出た。


「適当とか言われても無理ですっ!勝手なこと言わないでくださいっ」


涙目で必死に言い返した優月に、


「高階さん最高ね!」


と大笑いしたのは松尾で、フロアに戻って来た営業達が、笑い転げる松尾と涙目の優月を見て困惑顔になったのは未だに飲み会の語り草になっている。


緒方は入社一日目で言い返されると思っていなかったのか、眉を上げて心底楽しそうに笑っていた。


「・・・おまえ・・・言うなぁ」


「課長、女の子にはもーちょっと紳士的に優しく接しなきゃあ」


松尾の笑いながらの小言に、緒方は苦虫を嚙み潰したような顔で言い返した。


「俺は必要のない嘘吐くのは嫌いなんだよ」


不思議とその時、この人は信じて大丈夫だな、と思った。


そしてその確信は一年半経った今も一度も揺らいでいない。


「コーヒー位奢ってやる」


ぶっきらぼうな一言と共に、隣のビルの一階に入っているコーヒーチェーンへ優月を連れて行ってくれて、買ってくれたのが、ホイップとキャラメルソーストッピングの、カフェオレだった。


それ以来、緒方はちょくちょく優月にカフェオレのお土産を持って帰ってくれる。




「あらー緒方さんからのお土産?」


机の上に置きっぱなしのカフェオレのカップを目ざとく見つけて松尾が問いかけてくる。


「ご褒美です」


そのまま応えたら、彼女が声を上げて笑った。


「緒方さんらしいねー。確かに、ご褒美って感じだわ」


「あの人の人使いの荒さには慣れましたから」


あれこれ要求してはくるものの、常にそれ以上のものを自分に課している人なので、文句なんて言えない。


緒方は、絶対に任せた仕事をそのまま放置したりはしない。


定期報告が上がって来る前に、部下に進捗を確認するのはいつもの事だ。


常に課内の状況を把握しておきたい緒方は、どんなに忙しくても部下とのコミュニケーションを疎かにはしないのだ。


そして、一任しても問題なさそうな案件に関してはしっかりと任せてくれるので、必然的に責任感も達成感も育つ。


見守られつつ助けられつつ成長してきた自負があるので、彼のやり方に不満はない。


「あははは。懐かしいねーもう二年目だもんねー。無理言われるようになったのは、高階ちゃんが成長したからだよ」


「・・・そうですかね?」


「そーよー。緒方さん、ほんとに人をよく見てるもん。出来ないことはやらせない。可否判断はちゃんとできてる人だと思う。うちの次長もだから認めてるし・・・それにほら、頑張ったら、ちゃんとご褒美くれるじゃない。嬉しそうに飲んじゃってー」


「これ、好きなんです。奢ってもらえてラッキー」


「そういうとこもね、どーでもいい人とそうでない人の区別しっかり付けてる人だから。高階ちゃんは認めて貰ってるってことよー。胸張っていいわよー。頑張ってるもんね!」


「・・・・ホントですか・・?」


ホップクリームとキャラメルクリームが溶けあって口の中で蕩ける。


二年目にして漸くこの会社の一員になれたということだろうか。


「不安なら、緒方さんに訊いてみればぁ?」


ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべる松尾に、そのうち、なんて返していたくせに。





別に、気になったとかじゃない。


けれど、中途採用だし、これでも一応伝票打ちのスキルと事務処理能力を認められてここに配属になったんだから、それなりに仕事が出来なくては問題だとも思う。


やっと二年目なのだ。


あれこれと色々考えていたら、定時はとっくに過ぎていた。


定時になると同時に松尾は一目散に退社して行った。


帰るつもりだったのだが、伝票整理を中途半端にしておきたくなくて、そのまま残っていると、一課の吉岡がフロアに戻って来た。


緒方のチームでは一番若手の営業で、優月と同い年ということもあって課内では一番気安く話せる相手でもある。


入社初日に彼女自慢をされて軽い舌打ちをしてしまったのはここだけの話だ。


「あれ・・・まだ残ってたの?」


「おかえりなさーい。なんか、始めたら終わらなくなっちゃって・・・」


「今日ぐらい、早く上がればいいのに」


「ですよねー。って、吉岡さんは、帰らないんですか?」


「明日提出期限の見積もりまだなんだ。朝イチで緒方さんにチェックして貰わないといけないから。休憩して、それだけやって上がるつもり・・・あ、煙草切れてる。コンビニ行くけど、なんかいる?」


ポケットを探った吉岡が、財布を手に立ち上がる。


「大丈夫です。ありがとうございます」


「じゃあ、ちょっと行って来るね」


「はい、行ってらっしゃい」


吉岡を見送って再び伝票整理に戻る。


処理内容によって種類の違う伝票を仕分けして、日付順に並べ替えるのは地味で結構面倒な作業だ。


うっかり仕分けミスをすると抜き打ち監査の時に泣く羽目になるのでそこだけは注意が必要になる。


無心になって指を動かしていると、電話が鳴った。


日付順に伝票を並べ替える際中の着信にイラっとしながら受話器を取る。


定時以降は外線電話は留守電に切り替わるようになっているので、掛かってくるのは内線のみだ。


「営業1課でございます」


「なんだ、まだ居たのか」


「課長!?会議は!?」


「さっき終わったとこだ。残業か?」


「あ・・・ミスして居残りじゃないですよ!伝票整理してたんです!」


なんとなく、必死になって言い訳してしまう自分が悲しい。


と、緒方が受話器の向こう側で小さく笑った。


「何も言ってないだろ」


「だって・・・いっつも、すぐ何かあったか?って訊くから」


これは優月が電話に出る時の緒方の癖のようなものだ。


日中の殆どを外で過ごす緒方は、支店内の優月の動きが分からないので、まず最初に仕事で困っていないかの確認をしてくる。


それがいつしか定番になって、最近では優月の方が先に何も起こってませんという事もしばしばだった。


「ははっ。そうか。悪い悪い。ここ最近入力ミスもないもんなぁ」


打ち出した伝票は、担当事務印、担当営業印、課長承認印が揃って初めてファイリング出来る。


伝票処理でミスをすると、押して貰う伝票の枚数が増えるし、修正箇所の説明が必要になるので慣れるまでは何度も胃が痛い思いをした。


「イヤミですか?」


「いや?褒めてるんだよ」


穏やかな声音からは、心底緒方が優月を褒めている事が伝わって来る。


面映ゆい気持ちのまま、残業のテンションでつい浮かんだ疑問を口にしてしまった。


「・・・褒められた気がしないんですけど・・・あ・・・あの・・・課長・・・?」


さっきの松尾との会話が蘇る。


今日までの頑張りを一番認めてほしいのは、電話の向こうにいるこの人だけだと思った。


「なんだ?やっぱりなんかトラブルあったんだろ?」


「そうじゃなくて・・・・」


「どうした?」


「あたし・・・成長しました?」


「なんで急に」


「ちょ・・ちょっと気になったんです。役に・・立つようになったかなって・・」


ドキドキする。


まるで合格発表を待つ受験生のような気持ちだ。


ぎゅっと目を瞑った優月の耳に聞こえてきたのは。


「お前は良くやってるよ」


いつになく優しい緒方の声。


「ホ・・・ホントですか!?」


「俺が嘘吐いたことあるか?」


「・・ないです」


「じゃあ信じてもいいんじゃないのか?」


「・・・ハイ」


「なんだ、自信無くしたのか?」


「違います・・・課長がそう言うなら信じます」


口にしたらどうしようもなく恥しくなって、見られているわけでもないのに俯いてしまう。


転職してからの一年半、ここでやってきたことの意味は・・・あの人の中にある気がした。

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