絶対不可避恋愛

宇月朋花

第1話 正しい仕事のススメ

フロアに響き渡る着信音。


低音は内線、高音なら外線。


慣れるまでは聞き分けが難しかったけれど、今ではすっかり慣れてすぐに反応できる。


聴こえる音色は低音なので、社内からの電話だ。


20分程前からコピー機とフロアの端にある長机の前を行ったり来たりしていた優月はファイリングの手を止めた。


出来れば後1分だけ待って貰えると物凄く助かるのだが、そうもいかない。


中途半端なまま放り出したファイルを端に置くと、こっちの気も知らずガションガション定期的に紙を吐き出すコピー機の側を離れて、小走りで一番近いデスクの受話器を持ち上げる。


「営業1課で・・」


「俺だ」


名乗りを思いきり妨げられて優月は聞こえて来た声の持ち主を思い浮かべた。


社内電話で俺呼ばわりする男は一人しかいない。


入社したばかりの頃は突っ込みたくて仕方無かったけれど、2年目になるともう慣れたものだ。


「課長、お疲れ様です。何か御用ですか?」


「用事があるから掛けたに決まってんだろ」


呆れ口調で返されて、思わずムっとなる。


この人のこの物言いにも慣れたつもりだったけれど、忙しい時に絡まれるとイラっとしてしまうのはどうしようもない。


軽口を返せるようになったのは入社して半年が過ぎた頃だった。


「大変失礼いたしましたぁ」


「なんだ絡んできといて逆切れすんなよ」


忍び笑いと共に返って来た一言に、頭の中で思い浮かべた上司の顔を盛大に睨みつける。


「してませんっ!ってか絡んでませんっ」


突然の大声に、一瞬にしてフロアに残っている事務員数名の視線が一気に優月に突き刺さる。


営業メンバーが全員外出で本当に良かった。


「図星指されて怒鳴り返すなんて・・・お前もまだまだだなぁ」


呆れたような口調で言われてますます眉間の皺は濃くなる。


「・・・御用件は?」


「今朝、頼んどいた支社会議の資料出来てるか?」


「ちょうどコピー終わるとこです。この電話が後一分遅ければタイミングばっちりでしたね!」


静かになったコピー機を振り返って答える。


後はこれを順番通りファイリングしていけば完成だ。


「15分後にビルの前に車付けるから、持って降りて来てくれ」


「・・・は・・?」


「じゃあ、頼んだぞ」


完全に一方通行の通話を終えて、向こうから電話が切られる。


受話器を握ったままの優月は呆然と呟く。


「ちょっとーぉ・・・」


今から15分でコピー並べ替えて冊子作りとかあり得ないから!


「どしたのー?高階ちゃん・・・あ・・・まーた緒方さんかぁ」


2課の先輩事務員の松尾が顔面蒼白の優月の顔を見て苦笑する。


優月にこういう顔をさせるのは、直属の上司である緒方課長ただ一人だと分かっているのだ。


「15分で会議資料束ねろって・・」


「あらら・・・10分じゃなくて良かったねー」


「10分なんて無理ですー!!」


泣き言を言っている間に間もなく30秒が経過している。


手を動かせ、手を!!


大急ぎでコピー機から資料を引っ張り出して、長机に並べる。


最初に表紙だけは印刷して後は、そこに資料を重ねていくだけだ。


「手伝おっか?」


人の良い笑みを浮かべてフォローを申し出てくれた松尾に感謝の眼差しを返して、首を振る。


「いえ、大丈夫です!やってみせます!」


ガッツポーズ見せた優月に、松尾がニヤっと笑う。


「おっカッコいいじゃん。まあ、無理ならいいなねー」


「ありがとうございます!私、ミーティングスペース籠るんで、電話お願いします!」


部数が結構あるので、広い場所を確保して作業をする方が効率が良い。


新しいファイルをむんずと掴んで、資料の束を小脇に抱える。


「がんばれー」


松尾の声を背中に受けて、フロアを出ると、すぐさま駆け出した。


廊下に出てすぐ右端にある3つ並んだミーティングスペース。


奥からふたつは使用中だったけれど、幸い手前の5人用スペースが空いていた。


パーティションで仕切られたスペースは、休憩や、簡単な打ち合わせに自由に使えるようになっている。


早速空きスペースに飛び込んで、善は急げと書類の束を仕分けする。


1分1秒が惜しい。


緒方はこの後得意先を1件回ってそのまま支社会議に向かう予定になっていた。


本来なら、支社会議の前に資料を取りに戻る予定にしていたのだが、急な予定変更でもあったのだろう。


営業一課を取り仕切る緒方は、二課の課長とは違い、椅子に座って決裁をするだけの責任者では無かった。


課長昇進の際にいくつかの顧客は部下に引き継いだが、今でも緒方が受け持っている顧客はいくつもあり、緒方でなくては取引の継続が難しい顧客も多く存在する。


直接携帯にアポが入る事もしょっちゅうなので、彼の一日のスケジュールを完全に把握するのは事務員である優月でも難しいのだ。


彼が部署の中で一番多くの仕事を捌きつつ、一番の売り上げを上げている事を知っているので、こうして無理な依頼が入っても、やるしかない、と思ってしまう。


緒方の憎い所は、絶対に不可能な依頼は投げて来ないところだ。


腕時計の時間を確認しながら、ひたすら手を動かして、ページ漏れが無いかを確認しつつ手早くファイリング作業を終える。


何とか全ての作業を終えると、出来上がったばかりのそれを抱えて、再びミーティングスペースを飛び出した。


すれ違う人に驚かれない程度の駆け足でエレベーターホールへと向かい、イライラしながらエレベーターを待って、ビルのエントランスを飛び出す。


当たりを見回しても、緒方が本日使用しているシルバーの社用車はまだ見えない。


どうやら間に合ったようだ。


勝ち誇った笑みで優月はガッツポースを繰り出す。


ひと試合終えた後のサッカー選手のような、達成感と高揚感でいっぱいになる。


念のため、茶封筒に入った資料の数を数えていると、クラクションの音が聞こえた。


顔を上げると同時に見慣れた車が路肩に止まる。


優月は駆け出すと、勢いよく助手席のドアを引っ張り開けた。


「すんごい頑張ったんですけど!」


ずいっと差し出した茶封筒を受けとって、緒方が目を丸くした。


「・・・やるなぁ」


「なんですか・・・その意外そうなカオ・・」


「いやー5分は待つつもりだったから」


「・・・失礼な!!あたしを誰だと思ってんですかっ!」


「入社2年目の営業事務員」


そーゆーことじゃなくて!!・・・いや、合ってますけど!!


「この1年、課長に遠慮なくこき使われて来ましたからね!」


「ひどい言い草だな」


「だって事実ですもん。鬼課長」


「本人目の前にしてそれ言うか?」


呆れ顔で言った緒方が、眉を顰めながら助手席に乗せてあった紙袋を持ち上げる。


それは、優月がよく行くコーヒーチェーンのものだった。


受け取った資料の代わりに紙袋を優月に握らせると、緒方が不意に相好を崩した。


「ご褒美だ。偉かったな」


”ご褒美”その響きがあまりにもぴったりすぎて思わず笑ってしまう。


「カフェオレですか?」


中を覗くと、透明の蓋の内側に生クリームが浮かべてあるのが見えた。


「お前の好きなキャラメル入りのカフェオレ。だろ?」


「・・・・ハイ」


こういうところがあるから、無理を言われても嫌いになれない。


2、3回一緒にお茶をしただけの部下の好みを覚えているのは、営業職なら当然なのだろうか。


何だかもうとにかく色々と狡い。


しおらしく頷いた優月を見て、緒方が可笑しそうにつぶやいた。


「大人しい高階は気味悪いな」


「・・・あたし、基本お淑やかですけど」


一体どんなイメージを抱かれているのかと、思わず不貞腐れそうになる。


「ああ、そうか」


心底どうでも良さそうに呟いた緒方が、この後もう一件得意先回るから、とスケジュールの追加を口にした。


市内にある老舗洋靴店は、緒方が新人の頃から取引のある会社だ。


社長は二代目の息子に代わったが、変わらない付き合いが続いており、つい先日も新店舗への売り上げシステム導入で顔を出したばかりだった。


「トラブルですか?」


思わず心配になって尋ねれば、即座に違うと否定されてホッとする。


「会長が店舗視察に行くから顔出せって連絡が来てな」


「・・・それ、足になれってことですよね」


「まあ、そうとも言うな。俺も支社会議終わったらそのまま帰るから、今日は定時でとっとと逃げろ」


支社会議の後は、必ずと言っていい程飲み会になる。


恐らく車は支社に置いて帰って、明日にでも取りに戻るのだろう。


「明日の朝は」


「直行のスケジュール入れておきますね。お気をつけて。コーヒーいただきまーす」


先手を打った優月を見返して、緒方がひょいと眉を上げた後柔らかく笑った。






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