第5話 人はそれを挨拶と呼ぶ

「えー!慧が送ってくれたの?」


朝6時に叩き起こされて、無理やり開店前の店のカウンターで差し出された朝ご飯を食べながら、和花は仕込み中の母親の背中に尋ねた。


香澄と二人暮らしだった頃から、朝食は和食と決まっている。


4人家族になった一時期は、朝ご飯がトーストになった事もあったけれど、二人暮らしに戻ってからは、出汁の利いた味噌汁と、白ご飯に戻った。


休日の朝や、トーストが食べたいときは、和花が自分で作るようにしている。


もうずいぶん見慣れた割烹着姿だ。


和花の知る限り、洋装の母親は数えるほどしか見た事が無い。


参観日も三者面談もいつも着物でやって来る母は、何処にいたってすぐに見つけられた。


「送ってくれたの?じゃあ無いでしょうにこの馬鹿娘が。あんたって子は・・お酒飲んで潰れて帰れなくなるなんてねェ、社会人のする事じゃないよ、ほんっとに」


「ごめんなさーい」


相変わらず絶妙なだし加減の卵焼きを頬張りながらサラリと謝っておく。


酔い潰れたとしてもどうせ相手は慧だ。


後でゴメンとメールでもしておけば良いだろうと思う。


が、振り向いた香澄は呆れ顔を向けて来た。


「和花、お酒弱いって自覚あったのかい?」


「弱い―?まあ、強くは無いだろうけど。そんなに外で飲まないし、別に問題ないでしょう?」


「開き直るんじゃないよ。飲めないなら、慧と一緒でも飲むのはやめな。はしたない」


「はしたない!?」


久しぶりに聞いた単語に和花が目を剥いた。


だって相手は勝手知ったる元弟なのに。


「もう家族じゃないんだから」


現在進行形の事実を告げられて、まあ確かに、とちょっとばつが悪くなって味噌汁を啜った。


二日酔いを気遣ってしじみの味噌汁だ。


「そんなの知ってる」


「知ってても分かってないんだろうに」


「なんでよ」


「他所で誰と出掛けても、一度だってあんなふうに酔い潰れて帰って来た事なかったじゃない。あんたが気を許してる証拠なの。けど、母さんは東雲の家を捨てだんだよ。和花は、もう東雲の娘じゃない。母さんの娘なんだから、慧とも大人としてきちんと付き合いなさい」


「はぁーい・・・」


おざなりに返事をして、香澄がキュウリを刻む様をぼんやり眺める。


香澄が東雲を捨てて有村に戻ってから、東雲からの一切の援助を断っていた事を知っている。


母が望んだ離別は家族の“終わり”だった。


和花と香澄は家族から母娘に戻って、東雲は”他人”になった。


和花は、慧と自分の距離感を未だに正確に掴めずにいる。


友達でも家族でも無い距離。


心地よいと思っていた中途半端な距離は、香澄には酷く不安定なものに映ったらしい。


「これから本社で顔を合わせるんだからちゃんとしておくんだよ。東雲の方に迷惑かけるような事するんじゃないよ」


念を押すように言われて、和花は辟易しながら何度目かの返事を返した。


「迷惑かけたりしないわよー」


ついでとばかりに付け加えた一言を耳ざとく聞き付けた香澄が思い切り顔を顰めた。




★★★★★★★★★★★



「有村の事は、色々聞いてるから。分かんない事は何でも訊いたらいいからな。俺か、今から紹介する松見に」


「ハイ、ありがとうございます」


北村課長に連れられて初めて商品部のフロアに足を踏み入れた。


北村は中年の男性だが、店長が話していた通り、物分かりの良さそうな好人物でほっとした。


新しい上司としては百点満点の点数をつけておく。


「おーい、松見―。新人来たぞー」


「今日からこちらでお世話になります。販売部から異動してきました、有村和花です。よろしくお願いいたします」


「こちらこそ、よろしくお願いします。相良暮羽です。旧姓松見何で、課長はそっちで呼ぶんですよー分かりにくくてごめんなさい。有村さん、あたし達同い年なんですよー。だから、なんでも気兼ねなく聞いてねー」


朝礼の後で紹介された、相良暮羽と挨拶を交わす。


これから、3か月は暮羽に付きっきりで仕事を覚える事になるのだ。


気さくな雰囲気の先輩で良かったと肩を撫で下ろす。


これで先輩が怖いお局様だったら、今度こそ香澄に叱られる事覚悟の上で、東雲の父親に泣きついて再異動を依頼したかもしれない。


「お願いしますー」


「あたし、同じ部署で同期って初めてだから嬉しくって・・・本社って全然来た事ないんだっけ?」


「あ、ハイ。会議位でしか。基本販売部の人間としか関わって来なかったんで・・・」


雇っておいてもらって言うのもなんだが、本社は志堂の魔窟だと思っていた。


極力親族には会いたくないし、絶対に役員フロアには行かない。


「そっかー。じゃあ、後で本社の各部署に案内するねー。後、営業関係とはかなり密に付き合う事になるから、営業部の人の顔は早めに覚えておいた方がいいかも」


「分かりました」


「そんな緊張しないで大丈夫だから!ちょっとずつ、仕事も覚えて行ってくれたらいいし・・えーっと、なにか先に訊いておきたい事ある?」


販売部門とは異なる商品管理システムにログインしながら暮羽が問いかけて来る。


和花は今一番気になっている事を真っ先に口にした。


「あのう・・・一個だけいいですか?」


「勿論!」


「営業関係って・・・国際部の方もよく出入りされているんですか?」


和花が気にしているのは、慧の動向だ。


極力仕事場で会いたくないし関わりたくない。


向こうも同じ気持ちだろうが、万一ばったり会った時にオロオロしないように、商品部と国際部の関わりについて知っておきたかった。


けれど、和花の質問を暮羽は別の角度から捕えたようだった。


急に目を輝かせて身を乗り出して来る。


「国際部?うん。海外向け展開も最近多いから、結構あるよー。あ、もしかして、有村さんも彼目当てなの?この間の辞令発表から、女子社員の間ですっごい話題なのよ。ちょっと前まで、営業部の大久保君がアイドル扱いだったんだけど彼女出来て落ち着いちゃったから、今はマーケティング部の夏目さんと、システム室の平良さんとかが人気みたい」


「すいません、人事の事とか全然分かんなくって・・」


「あれ、そうなのー?でも、きっと有村さんも会ったらトキメクと思うけどなぁ」


「はぁ・・・でも、あたしトキメキとか別に仕事に求めてないですから。イケメンが来ても腑抜けにならない自信があります!」


こうして異動になった以上は、しっかり仕事をして父親に恩返しをしつつ、母親を安心させることが目下の目標である。


潔い程はっきりと言い切った和花に、暮羽がそれなら安心ねと微笑んだ。


「あ、そういうスタンスの人付き合い易くて好きよーあたし。何だか昔っから男前が知り合いに多くって辟易してるとこあったから・・・」


会話の途中でふいに暮羽が視線をフロアの入り口に向けた。


そして大きな声を上げる。


「東雲くん!」


「!!」


「早くからごめん。昨日相良さんが頼んでた16インチのチョーカー上がってる?」


「うん!あ、有村さん」


「は、はい!?」


「ちょうど良かった。紹介するね。今話してた話題の彼だよ」


小声で付け加えて、暮羽が笑顔を向ける。


和花は固まるしかない。


「東雲くん、あのね、彼女が今日から・・・」


フロアの入り口に向かいながら暮羽が和花を紹介しようとする。


が、その声を遮るように和花が勢いよく頭を下げた。


余計な事を言われてなるものか。


「はじめまして、有村和花ですっ。今日から異動で商品部に配属されましたっ」


が、慧の反応が無い。


恐る恐る顔を上げると、目の前に眉間に皺を寄せた元弟の顔があった。


そして、数瞬の後指が伸びて来る。


指の腹が頬に触れる感触。


「っ!!」


隣りで暮羽が息を飲む気配がした。


「なーにを言ってんだ、お前は」


両頬が左右に思いっきり引っ張られる。


「ちょ・・・し、東雲くん!?」


あろう事か本社で今注目度NO.1の男が、異動したての新人のほっぺを遠慮なく引っ張っている。


目の前で繰り広げられるあり得ない惨状に仰天した暮羽が、慧を止めようと声を上げた。


「っひゃいっ!」


「うるせえよ」


聞こえて来た意地悪な発言にカチンと来た和花が思いっきり慧の腕をひっ叩く。


「何すんのよ!」


「それはこっちのセリフだ」


睨み合う二人の間で、一人現状を理解していない暮羽が目を白黒させている。


「え・・えーっと?東雲くん、彼女を知ってるの?」


その質問には答えずに慧が真っ直ぐ和花を見下ろした。


「・・・何て答えて欲しい?」


何て?答えは決まっている、”他人”だ。


今の二人を繋ぐものはなにもない。


友達、兄弟、知人。


家族じゃない”名前”なんて考えた事も無かった。

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