第4話 人はそれを初恋と呼ぶ

別段和花を意識した事は無かった。


お互い”姉弟”だと言われて引き合わされた時には、まだ子供だったし。


強いていうなれば、同い年の友達が出来たような感覚だったと思う。


というか、慧にとって和花の存在はどうでも良かった。


父親が勝手に決めて、息子には事後承認で勝手に連れて来た新しい家族。


自分が頼んだわけでも望んだわけでも、ましてや増して欲しがったわけでもない。


にも拘らず、目の前の女の子は、一張羅らしきベルベッドローズのワンピースがえらく不似合いな顰め面でこちらを睨みつけて来た。


そして、母親の後でぼそっと呟いた。


「同じ年・・・?」


さも嫌そうに。


和花の呟きに、気付いた母親が慌てて笑顔で取り繕った。


「あら、年下って訊いたのは母さんの間違いだったみたいねー。慧くんは何月生まれなの?」


「3月」


素っ気なく答えたら、途端和花の顔が輝いた。


「じゃあ、じゃあ、あたしがお姉ちゃんね!」


「ああ、そうか和花ちゃんは4月が誕生日だったね、うん、そうだよ。ふたりは同い年だけど、和花ちゃんの方が先に生まれたからお姉ちゃんだね」


気を良くした父親が精一杯優しく語りかける。


慧はこの日程自分の誕生日を呪った事は無い。


「お姉ちゃんだから!」


憮然と差し出された手を握った瞬間の屈辱感。


ほぼ1年生まれが遅い自分を、その日から和花は”弟”と決めつけた。


腹立たしい事この上なかった。


見ず知らずの、初対面の、貧乏くさい同い年の小娘に“弟”呼ばわりされたのだ。


同じクラスの女子とは雲泥の差だ。


慧は勉強も運動もそつなくこなした。


愛想も良かったし、教師受けも、友達受けも良かった。


父親と二人暮らしだった頃は、慧の成績表や表彰状を誇らしげに見つめて何度も褒めてくれた父親も、娘が出来てからは、とにかく一番に和花を褒めた。


70点のテストを見てよく頑張ったね、と微笑み、運動会の徒競走で三位だった時には今までで一番早く走れたね、と讃えた。


成績表に至っては先生から書かれたクラスのお友達ととても仲良しですの文言を盛大に褒め称え、そんな父を前にして、慧は早々に東雲の家での自分の地位が二位に下がった事を理解した。


滑稽な程妻と娘に擦り寄る父親に嫌気がさしたこともあったが、家庭内不和を生むことなくすくすく成長出来たのは、当時も時折顔を見せてくれていた家政婦と、どこまでも公平だった母親のおかげだ。


香澄は当時から慧も和花も同じように扱ってくれた。


明らかに優秀な成績表を持ち帰った慧を全力で褒めて、前期よりも評価の上がった和花の頑張りも正しく評価して褒めた。


慧は育った環境故か、同世代の子供たちよりもいくらか大人びていた為、クラスの女の子にもよくモテた。


バレンタインには両手いっぱいのチョコレートを持って帰るのが毎年恒例だった。


そんな自分を前にして”下”だと言いきった少女は、彼女が初めてだった。


和花は慧にとって完全に”異色”だったのだ。


父親が、いつからか小さな小料理屋の常連になっていたと知ったのは、結婚話を聞かされるひと月前だ。


母を失くしてから、分家馴染みの家政婦が家事全般を担っていたので不自由は無かった。


父親も仕事に忙しい毎日を送っていたので、まさか再婚するなんて思いもしなかったのだ。


しかも、相手は下町の女将で、子持ちの中年女性。


東雲家にとっても、慧自身にとってもまさに青天の霹靂だった。


自分に、母親が出来るなんて。


いつから、その感情が芽生えたのか、そして、いつ消えたのか、自分でも判らない。


それを確かめるには、あまりにふたりの距離は近くて。


そして、過ごした時間は、生まれた感情を育てるには短すぎた。


僅か6年の結婚生活。


東雲の姓を抜けて、下町の女将に戻ると母親が言いだした時も、不思議には思わなかった。


いつかは、そうなる気がしていた。


おそらく、和花もそうだったんだろう。


顔色ひとつ、変えなかった。


その時は。


「お母さん、お父さんと別れる事になったから」


告げられた離別の言葉。


それは、東雲の家から”母親”がいなくなるという事実。


漸く“親子”じゃない”家族”を手に入れた思春期の自分達には、少なからず衝撃的な一言だったと思う。


それでも、この”嘘みたいな家族生活”がずっとは続かない事を、どこかで、きっと誰もが知っていたのだ。


「来週、この家を出て行くから」


母親の言葉に一番に頷いたのは和花だった。


「分かった、荷物纏める」


「和花、お前はここに残るのよ。出て行くのは、母さんひとり」


「なんっ」


「その事は、お父さんも納得してくれてる。お店が軌道に乗るまで、母さんひとりで和花を学校に行かせてやれる余裕が無いの。昔みたいな生活を送る事になるのよ。和花は東雲の娘としてこれから生きていくの、わかったね」


「嫌だ!」


「聞き分けなさい!」


「お母さん!あたしも行く!学費が無いって言うなら、自分でバイトする!お店も手伝うし、お金が無くてもいい!」


和花と香澄が東雲と結婚するまで、どんな生活をしていたのか、その頃慧は知らなかった。


そもそも志堂分家として、何不自由ない生活を送った事しかない自分には、学費が払えないという現実が理解出来なかった。


「ここでお世話になるの」


”お世話になる”すでに家族ではなくなってしまった彼女の台詞が、ぐさりと胸に刺さった。


東雲夫婦としての生活は順風満帆とはいかなかったが、それでも、穏やかな夫婦生活は子供の目から見れば幸せなものだった。


記憶にある限りいつも両親は笑っていたし、ケンカをしたところなんて見た事も無い。


それ位、両親は極秘裏に離婚の話し合いを勧めていたのだ。


恐らく、二人の高校受験が終わるのを待って切り出したのにも理由がある。


和花を東雲に留めておくためだ。


「聞き分けなさい、和花。母さんは和花を連れていくつもりはないの。泣いても、怒っても、駄目。今回は、言う事聞いて」


「いや!」


「和花」


無言の睨み合いの後、席を立ったのは和花だった。


「お母さんには頼まない」


そうして、彼女は家出した。




☆★☆★




「よいせ・・っと」


ベッドに和花を寝転がらせて、そのままずるずると畳みの上にしゃがみ込む。


慧は和花に布団をかけるのも忘れてしばしそのままぼんやりとしていた。


古びた和室の6畳間は、和花と香澄の寝室だった。


ちらりと横目でベッドを振り返るとのんきに寝息を立てる元姉の無防備な寝顔が見える。


ここまで結構な道のりを運んでやったのだからお礼の一言くらい言ってみせろと思うも、当然寝入った彼女を起こせるはずもなく。


「・・・ったく」


体を起して半身だけ振り返る。


膝下まで引き下ろされた掛け布団を引っ張り上げて、肩まで覆ってやると和花が小さく何かを呟いた。


一緒に暮らしていた頃、こんな無防備な和花を見た事は無い。


いつも慧の前では”しっかり者の姉”であろうと虚勢を張っていたのだろう。


生まれて初めて出来た弟の存在が、どれだけ和花を強くさせたかは想像に難くない。


『慧、大丈夫?』


これが和花の口癖だった。


いつだって弟を優しく気遣う姉の顔をしてみせた和花だったけれど。


慧にはいつだって違った風に見えていた。


怖かったのはいつだって和花で・・・不安だったのは、いつだって和花のほうだった。




☆★☆★




人生初の姉の家出に付き合わされる事になった時もそう。


これから香澄が構える予定の開店前の改装作業中の店の一階で、明りも無い暗闇の中。


「何で来たのよ」


蹲って動かない和花の隣りにしゃがみ込んだ自分が何と答えたのか、今はもう思い出せない。


和花は、顔を上げる事無く右手を差し出してきた。


「さぶいでしょ?あっためてあげる。あんたに風邪引かれると困るから」


いつも通りの上から口調を、いつものように遣り込める気にならなかったのは、彼女の虚勢が透けて見えていたからだ。


震えていたのは和花の方で、一人になりたくない彼女なりの精一杯の言い訳。


多分、この時初めて和花の手を握ったのだ。


華奢で小さな、女の子の掌。


彼女が何を願い何を望み何で笑うのか、急に知りたくなった。


姉でない和花が初めて欲しいと思った。


生まれた感情は、胸を妬き、けれど直ぐに消えた。


彼女が急に泣き出したからだ。


家出したのも女の子に泣かれたのも記憶にある限り初めてだった。


焦りまくった慧がこの時口にした一言は、和花の胸に刻まれて消える事は無かったけれど、記憶に埋もれてしまって、蘇る事もなかった。



☆★☆★



愛しいと思っていたことを、ここで思い出しても仕方ない。


自嘲気味に笑って慧は呟いた。


「今更触れねェよ」

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