第3話 人はそれを泥酔と呼ぶ

まさかこうも和花が酔うとは思わなかった。


慧が店にやって来るまでビール一杯しか飲んでいないと言っていたけれど、本当かどうかあやしいところだ。


和室のテーブルにくったりと頬を載せて夢心地の和花を見下ろして、慧は盛大に溜息を吐いた。


「なぁ、お前何杯飲んだ?」


「はーいー?飲んでないよー?」


「飲んでただろ、さんざん飲んだだろ?」


「さんざんってなんだー!?ぜんっぜん足んないー!飲めるもんー!ビール!もっとビール頂戴ー!」


「もう無いよ、つか、俺に背負って帰れって?」


「歩けます―!なんならいますぐ歩いてやろっか?余裕よー!さービール持ってこーい!!」


「お前ね・・・ほんっといい加減にしろよ」


フラフラとグラスを持ち上げた和花の手から慌てて空っぽのそれを抜きとる。


そして、部屋に備え付けの内線を鳴らした。


離れの個室がメインの料亭ならではの設備だ。


わざわざ仲居を呼ばずともあれこれ依頼できるのはこういう時物凄く助かる。


すぐに出た受付に、タクシーを呼ぶように依頼する。


「和花、お前酔わないよな?」


「車好き―ぃ」


「そうじゃなくて、あーもういいから。とりあえず水飲んどけ」


「水ー?」


「気分悪くなると困るから、後、トイレは?」


「へーきー」


「こっからお前の家まで結構あるぞ?」


「んー・・・」


すっかり酔い潰れてしまった和花を横目に、脱いでいた上着に袖を通す。


こんなに酒癖悪かったっけ?


日本を離れる前に最後に一緒に飲んだのはいつだったっけかと記憶を遡る。


俺の海外勤務が決まって、その報告を和花にして・・・


そうだ、あの時もコイツは盛大に怒って、どうして辞令の示唆があった時点で教えなかったのか?とさんざん詰られて、酔い潰れたのだ。


思えば二人で、長時間飲んだのはあれが初めてだった。


その前は、和花が志堂に入社する事が決まった時。


けれど、あの時は両親が一緒だったので和花は殆ど酒を口にしなかった。


緩めたネクタイを締め直して、和花の頭をそっと撫でる。


「なぁ、和花」


慧の呼びかけに和花は返事をしない。


すでに夢うつつのようだ。


呆れ顔のままで慧が続けた。


「お前、会社の飲み会どーしてたんだよ?」


社会人になってから早数年。


店舗の飲み会の度にこんな失態を侵していたのだろうか?


想像してぞっとする。


元弟(物凄く不本意だが)として情けない事この上ない。


この体たらくを晒す癖に姉だと息巻くのだから本当に手に負えないのだ、彼女は。


個室からタクシーまでほぼ歩けないであろう和花をどうやって運ぼうか考えて、慧はげっそりと肩を落とした。



★★★★★★★★★★★




「香澄さーん」


「ごめんなさいねー今日はもう店じまい・・・」


引き戸を開けて店の中に顔を覗かせた客の顔を見て、カウンターの奥で女将が目を丸くした。


「・・・おや、珍しいお客だこと」


慧が引き戸の向こうから苦笑いする。


「ご無沙汰してすみません」


相変わらずな母の態度にほっとしたように笑顔を浮かべるものの、慧は一向に店の中に足を踏み入れようとしない。


割烹着の袖を撒くって香澄が笑う。


火を落としたばかりのコンロに視線を送った。


ちょうど、慧の好きな煮物が残っていた。


「あんたなら追い返すわけにいかないねェ。突っ立ってないで、入っておいで」


「いや、違うんだ」


「なにが?」


「和花が潰れたから送ってきたんだよ」


「あらま、あの子が?」


目を丸くした香澄を見て、慧が畳みかけるように問い返す。


「あれ?前にもあったでしょ?」


「一度も酔い潰れた事なんて無いわよ」


「え?」


「寝たままなの?」


「あ、ああ。タクシー乗ってからぐっすり」


「そう・・・珍しいねェ。飲み会行ってもビール1杯で満足するような子なのに。なんかあったのかしらね・・・」


「目が覚めたら訊いてやってよ。上、運んでいい?」


「ああ、悪いね。一人で連れて上がれる?」


「そこまでヤワじゃないよ」


笑って見せて、慧がタクシーに戻る。


店から出て来た香澄が和花の上着とバックを受け取った。


揺すり起こされた和花が目を擦りつつ薄暗い車内を見回す。


「ここ何処ーお?」


「何処って、お前の家だよ。ほら、おぶってやるから、腕かけて」


「お前ん家って、あんたの家でもあるでしょー」


酔ったせいで記憶がごっちゃになっているらしい。


もう二人の帰る家は分かたれてしまったのだと、訂正するべきか悩む。


”ここは俺の家じゃない”


笑って否定しようとしたが、和花の顔を見た途端何も言えなくなってしまった。


あまりにも安心しきった顔をしていたから。


今ここでそれを言ったら、必ず泣く。


どうしてだか、確信出来た。


和花の泣き顔なんて、一緒にいた数年で2回しか見た事が無い。


涙を堪える場面なら、何度も見て来たけれど。


迷った挙句無言を通す事にした慧に負ぶわれて和花がタクシーを降りる。


「やれやれ、あんたそんなに飲んだの?」


「あーおかーさんだー。お母さんただいまー」


「どうやら相当飲んだみたいだね」


いい歳の大人なんだから、お酒の量は弁えなさい、と香澄が良いどれ娘に溜息を吐いた。



★★★★★★★★★★★




「面倒かけて悪かったね」


やたらめったら絡もうとする和花を宥めて何とかベッドに押し込めて、慧が1階の店舗に戻った頃には、0時を回っていた。


店の後片付けを終えた香澄が、温かいお茶を入れてカウンターに載せる。


「ありがとう・・・しっかし、和花って酒弱かったの?」


すっかりくたびれたネクタイを再び直しながら尋ねると、香澄が首を傾げた。


「さぁねェ。あの子、店手伝ってても殆ど飲まないから」


「ふたりで飲んだりしないの?」


「梅酒ちょっと飲む事はあるけど・・・そうねェ、あの子とふたりでじっくり飲んだ事なんていっぺんも無かったかしらね」


どういう経緯で東雲の後妻になったのかは大まかに父親から説明を受けたが、どういう理由で東雲の後妻を止めたかは、直接聞いたことは無い。


が、聞かずともわかる。


東雲を離れた後の母娘二人での暮らしぶりがどんなものかも、思春期を終える頃には理解していた。


温かい湯飲みを引き寄せながら、出来るだけ明るく尋ねる。


「・・・店、大変なんじゃないの?」


「好きで始めた事だからねェ・・・慧」


「なに?」


「あんた達、ずっと連絡取ってたの?」


「ずっとって?」


「お父さんと別れてからよ」


「ああ・・・ごくたまに?」


「そう・・・」


「別に隠してた訳じゃないから。言うきっかけが無かったってだけで」


「分かってるわよ、あんたも損な性分だねェ。両方の親に気配りして、未だにお姉ちゃんの心配ばっかりして」


「・・・別に心配はしてねェよ」


「そう?」


「アレも大人だし。ちゃんと良い距離保ってるよ」


自嘲気味に笑った慧を見つめて、香澄が寂しそうに目を細める。


慧と和花の距離を勝手に近づけて、勝手に引き離した。


”大人の都合”その一言で。


彼女がいつもどこか罪悪感を持って子供たちに接している事を、ずっと前から知っている。


「・・・母さんが、あんたの気持ちをもっとちゃんと汲んでやれた」


痛い所を突かれて、遮るように口を開いていた。


「香澄さん。違うから。よくある、思春期の一時的な感情だって。和花を好きだったのは、ずっと昔の事だよ。好きだったかどうかも、分かんない位昔の事だから。俺は、今付き合ってる人居るし。ちゃんと、幸せにやってるから」


「・・・そう・・・」


「むしろ、あの時ちゃんと叱ってくれた香澄さんに感謝してる。俺がちゃんと”姉弟”でいられたのは、香澄さんのおかげだよ」


告げられた言葉が、14歳の自分の胸にどれほど深く突き刺さったか。


忘れたわけじゃない。


けれど、大人になった今なら理解出来る。


他人同士の二人が出会って”家族”になろうと必死に戦っていた事。


彼女が守ろうとした、たった一人の娘の未来の事も。

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