《二部 ワルプルギスの円舞曲(ワルツ)》・1
ココロは痛めると、凹む。
傷付く。
割れる。
まるで柔らかい物質でできているかのように、崩れやすい粘土のように、薄いガラスのように、堅く鋭い言葉のナイフや強烈な出来事という名の鈍器で叩かれ、切られると形は酷く歪むのだ。減ったり、切り取られたりして形は不格好になる。
それは醜いことではない。
それは格好悪いことじゃない。
でも、正しいことじゃない。
いつか、ココロは治る。絶対に、治る。
すり減ったら、すり減った分以上に治る。切られたら、切られた分以上に治る。それがココロだ。ココロはすり減って、増え、大きくなるんだ。
もちろんフラウのココロもそうだ。
彼を癒したのは音楽だった。おしゃべりだった。コーヒーだった。
町に一軒だけあるカフェ。そこでハープを弾く老人ジェイスは、ハープとおしゃべりで多くの人を元気づけてきた。この町のほとんどの人が、彼に元気を貰いながら仕事をしているんだろう。
今日だって数人しかいないカフェで、彼の周りにだけ人が集まっている。それは彼の演奏が一流であることの証であり、音楽を糧にこの町の人は生きているのだった。
店のマスターは、フラウがゲッソリとした顔で店に入るとスッとコーヒーを出し、それの側に角砂糖とブランデーを持ってきた。角砂糖をスプーンに載せて、ブランデーを垂らす。マスターはそれに火を点けてアルコールを飛ばし、砂糖が燃えないギリギリのところで砂糖をコーヒーに入れた。
何も言わずニコッと笑って、彼はカウンターへと戻っていった。
コーヒーに口を付ける。
ブランデーの甘く、どこか爽やかな果実の香り。熟成した樽の木の香り。
それらがコーヒーの香りに上品に溶け込んでいた。誰も無理やり前に出ようとせず、ただ優雅に並んでたたずんでいるのだ。
それをフラウは感動して飲み干した。
ブランデーの香りで、ジェイスは曲調を変えた。少し悲しげな曲を、明るくテンポの良い曲へと急に変えたのだった。誰も文句は言わない、ただそれを聞いている。元気が湧くようにポカポカしてくる。ブランデーのアルコールもあるだろうが、ジェイスの曲もまるで温かい風に包まれるようだった。
涸れてひび割れた土に、水が音を立てて染み込むように。
寒くて凍りそうな掌に、焚火の熱がゆっくりと温めるように。
フラウのココロをコーヒーが潤し、音楽が温める。
曲が終わると、人々はぞろぞろと出て行ってしまった。店に残ったのは、フラウだけ。ジェイスはニコッと、フラウに笑いかけて近くに座った。
「よう、久しぶりだな。元気なさそうだな」
「まだ二週間もこの町にいないのに、いろいろありすぎたんだ」
「疲れているし、ココロも痛んでそうだな」
「うん……」
「まあ、いいんだ。ここはメンタルセラピーもやっているからな。マスターは疲れてそうな人には必ずブランデーの入ったコーヒーを出す。そして、その香りを他のヤツが嗅いだら、すぐさま出ていくのがここのルールだ。そして、そのコーヒーを飲んだヤツだけ、オレのワンマンショーを聞けるんだ」
そう言って、彼はハープに戻った。そして、
ポンポン♪
ポロン♪
と弦をはじいていく。その滑らかな指先。そして初めて聞く彼の歌。
音楽の女神は、それを何と言うだろう。
音楽の天才は、それに楽器を下すだろう。
音楽の伯楽は、それに賞賛を贈るだろう。
音楽の神がいるなら、それはここにあり。
ジェイスの声は、まさに神の楽器であった。その声は偉大で、荘厳で、艶があり、張りがあり、それでも柔らかく包み込む。神器であった。
その声に、フラウは涙した。
その声に、町の人々も窓の外に集まって感涙するのだ。まるで、この世の奇跡がここにあるかのように。
奇跡は何回も、何回もその声を震わせた。フラウのココロに火を点すように。
温まる。潤う。治る。治る。ココロが治っていくのを感じた。満たされるのを感じた。それはたとえば、夜の小人が知らぬ間に靴を作ってくれるおとぎ話。それは幻想の話。造られた奇跡でしかない。しかし、ここにあるのはまぐれもない現実の奇跡。
ココロはどういうものか。
ココロは水ではないか。フラウはそう思うのだ。
温かくなり、冷たくなり、凍っては割れ、熱くなりすぎては消え、しかし、それはいつの間にか元に戻っている。そんな水ではないか。今ココロは少し暖かい水に戻った。冷たい手を温めるのにちょうどいいくらいの温かさに。そう思うのだった。
何分たっただろう。彼は夢を見た。
寝ていたのではなく、現実の世界で夢を見た。
遠く天界の話。
天使が白い羽根で宙を舞う、神は御社に静かに座っていた。神はいつもニコニコとジェイスのように微笑んでいる。白い雲の上の、天使の世界。幸せな国。そこには天使が大勢いて、皆が白い服で身体を覆い、白い羽根を大きく伸ばしている。
そこにはミカルがいた。彼女の背には白い羽根が生え、嬉しそうに飛びまわる。
「フラウさん、ありがとう」
彼女はそうフラウに笑いかける。そのフラウも天使になっていて、自分の白い羽根を使って飛び、彼女の近くに寄り添うのだった。
いつまでもそんな空想のような世界を彼は見た。夢のような、現実のような、夢うつつという言葉そのものを彼は見たのだった。
ポンと肩が叩かれ、フラウは気がついた。マスターはニコニコと肩に手を置いて、ジェイスの音楽を聞いている。そして言う。
「この世には、苦しいことがある。それと同時に、楽しいことがある。それはバランス良く置かれている。ここに奇跡がある、また苦しいことがあったら来なさい」
そう言ってお代を彼は受け取らなかった。
ココロはちゃんと増えていて、それはここにきて初めて身に染みて感じた、優しさだった。
* * *
帝国――戦好きの王様がいました。戦うのが好きで、殺すのが好きで、奪うのが好きでした。戦をしては、人を殺します。戦をしては、領地や宝を奪います。またたく間に彼の国は大きくなりました。大きくなった国を、彼は奪った宝を売って、作り変えました。工場は兵器や機械兵を作るよう命じられ、優秀な研究者は国の為に働かされ、その他の人々には身分が作られました。
人は醜くなりました。ココロが醜くなりました。王様な皇帝となり、何から何まで自分の為に尽くすようにさせるのです。教育も、洗脳する為の武器となりました。
人々はおかしくなりました。まるで機械のように従うのですから。
フラウの父は、洗脳と言うものに疑問を持ち、殺されました。一生懸命尽くしてきた帝国に裏切られた瞬間でした。彼の父は、大勢の前で処刑され、笑いものにされ、侮辱されました。それ以来、フラウ自身も帝国へ疑問を持ち続けます。上辺では帝国の為に尽くし、ココロの中では父への敬意と、帝国への反逆心が燃えていました。
父の机の中からヘブン行きのチケットを見つけたのは、父も母も殺された後、ゲトを作り、彼だけが友達であった三か月前のことです。チケットは三人分あり、父は家族で逃げようとしていたのだとわかりました。父はこう思ったのだとフラウは考えました。この国には自分の意見は通らない、だからせめて家族を守ろうと。フラウはそう考えて国を逃げ出したのでした。天国と言う名の町へ。
そして、今この瞬間、帝国から二人の追手が放たれた。
猟犬のような二人だった。
* * *
家にはゲトとクルス、それにドーケが留守を預かっていた。ゲトとクルスは家の掃除をしていたが、彼らの連携はうまく取れていない。
同じ箇所を二回掃除したり、同じ部屋ではち合ったりするのだった。
そのたびに彼らは口喧嘩を繰り返して、家の掃除は一向に進まない。掃除の他にもほかにもやらねばならないことがいくつもあるというのに。
ゲトは喧嘩の原因がクルスにあると思い込み、クルスはゲトにあると思う。はたから見ればどちらも悪いで片付くことが、彼らには通じない。彼らは機械だ。ロボットと機械生命体の違いこそあれど、自分に備わった論理で動くという点で共通している。それは「HT」の違いによるものだった。
フラウのいた帝国でもそんなことが多々あった。
「HT」と「HT」の連携不足。脳という柔軟な組織で整理するのと、機械という論理回路での整理は圧倒的な格差がある。組織という柔軟性は、機械では取り入れられなかったのだった。
たとえば、一つの事柄について人間同士で意見が割れたとする。そういう時に人は意見をまとめようとする。しかし、機械は違う。機械はそれを譲ろうとしない。自分が正しいと思うからだ。それは当たり前のように争いを生む。
水と油。
それは永遠に交わらないのだろう。
クルスはゲトを下等な機械でしかないと思っている。ゲトのことを、家にあるレンジ、洗濯機、掃除機などと同一視しているのだ。彼はゲトが掃除機を掛けているのを見て笑うのだ。家電が家電を使っているとしか思えないから。
ゲトはクルスを嫌っているが、仲間であると思っている。差別なんてしない。マスターの為ではない。彼がそうココロに決めていたのだった。
だから、彼はクルスの部屋だろうが掃除をする。
差別なく、侮蔑なく、軽蔑なく。
彼の部屋は、整然としていた。掃除する必要がないほど片付けられていた。それでも彼は掃除機を掛けて、気になるところを拭き掃除し、最後にクローゼットを開けてしまった。
ガラガラ
ゴロゴロ
それは不思議な野球ボール大の半透明の球。うすい虹色に輝き、ゆらゆらと中でゆれている。
何だろうと、ゲトは手に取った。
手に、取ってしまった。
ゆらゆらとしたものに何か映った気がして、ゲトは顔を近づけた。
初めは小さく見えていたが、顔を近づけるとそれも近づいてくる。初めは自分の顔が映っているのかと思ったが、それは機械の顔ではない。
人間のような肌色だ、そう思ってそれを見続けた。
どんどん近付いてくるそれは、顔。
人の顔。
お婆さんの顔。
そして、それにゲトは気付いた。
いなくなった隣のお婆さんだと。
悲鳴を上げようとした瞬間だった――
グシャリ
クルスの拳がゲトの頭部を潰した。
悲鳴を上げさせない為に、自分の悪行を知られない為に、彼を破壊する道を選んだのだった。ゲトは彼の思惑通り破壊され、死んだ。彼の拳は彼の頭脳も、HTも破壊したから。
ゲトが見てしまったものは、タマシイだった。
人のタマシイ。
人のタマシイは、クルスにとってはラムネのビー玉、フライドチキンの骨、食べられる物に含まれた食べられない物だった。タマシイを、命を持つクルスの身体にもう一つの命は入らない。だから、それだけは残すしかない。それならば捨てればいいのだが、彼は取って置くことにしたのだ。
自分の糧になってくれたという記念碑として。
自分の身体の一部になってくれた感謝でもある。
それは命を食べる者として壊れているとしか思えない驕り。食物への侮辱である。
彼の食べる物が何であれ、彼は傲慢な態度を崩さないのだろう。それは自分が生命体いとして優れているとの思いこみ。自分の上に立つ者などいないとでも言うように。一匹の獅子がそこにいた。
そこにドーケが入ってきた。
室内の惨状を見て、彼は駈けだした。彼は瞬時に計算した。フラウがこの現場を見たときのショックとそれに対する絶望をマイナスとし、自分の利益をプラスとし、その結果を集計した。彼の手から擦り抜けていく、フラウのタマシイ。
それは駄目だと考えた。この場をドーケは彼に見せないことにして、自分は時間稼ぎを考えた。そして、外を見た。西の空は赤く燃え始めている、東の空は青から黒へと色を変えつつある。
ドーケは月を見た。今宵は新月。
「そうだ」と彼はぬいぐるみが裂けるようにニヤリと笑った。
紅色の口が不気味に、暗い廊下に浮かんだ。
フラウが家に付く頃、ドーケは家の前で待っていた。家の中を見せないように、彼を外に連れ出すことにしたのだ。今宵は新月であった。
『悪魔の宴(サバト)』の夜である。
そして、今宵は特別な宴の日、「ワルプルギスの夜」である。
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