《一部 協奏曲(コンチェルト)第666番~悪魔~》・3

「ドーケ様」


 クルスは主人のいなくなった家で、本当の主人の名前を呼んだ。クルスはドーケの力によって生まれたのだから、主人はドーケである。それをドーケがフラウに譲ったようなものだった。


「フフフ、クルスよ。どうした?」

「これは何でしょうか、自分の中で力が足りなくなっている気がするのです」

「それは空腹なのだろう。何かを喰わねばならん」

「何を食べたらいいのでしょう。あの下等ロボットのように電気を食べればいいのですか?」

「違う」

 

 ドーケは嗤う。


「キサマは人を喰うんだ」

「人ですか?」

「オマエは魔力で生きている。人も少しではあるが魔力を持っている。それを喰え」

「分かりました」

 

 クルスは隣の家を見た。

 その目の赤さは、本当に燃えているようだった。

 獲物を見る目だと、ドーケは思った。

 そして、ニヤリと静かに笑った。

 ぬいぐるみの口が真っ赤な柘榴のように裂けた。

 

 

 

        * * *

 

 

「ハハハ、隣のばあさんに無視されたか。そいつは面白い」


 帰りにまた立ち寄ったカフェで、ジェイスは大笑いした。カフェのマスターが「悩みならジェイスが聞いてくれる」と、悩み相談を引き受けていることを説明してくれたからだ。マスターは髭面でとっつき難そうな風貌をしているが、悩みや気分の落ち込みを過敏に判断できる気の効く男だ。だから、会うのが二回目のフラウであっても、彼の気分が落ち込んでいるということが分かる。

 しかし、彼は美味いコーヒーを淹れることと、人間の疲れを判断する以外に能のない男だと思っている。自分の領分じゃないとジェイスに相談すればいいと言うだけであって、自分の能力の限界を知っているのだった。

 ジェイスは逆に癒すしかできない。疲れとココロの凝りをほぐすだけ。


 ジェイスは早速彼に何があったのかを聞き、笑った。

 フラウは笑われたのが以外で、つられて笑いそうだった。それを堪えて反論する。

ちょっと強がってみた。


「いや、笑い事じゃないんですが」

「ハハハ、スマン。でもな、フラウ、ここじゃあ余所者はほとんど来ない。だから、警戒されて当然さ」

「そうなんですか」

「ああ、ここに来るのは変わり者か、犯罪者くらいだろ?」

 

 笑えないジョークだ。犯罪者には兵器製造という意味で片足を突っ込んでいるし、どっちにしろ変わり者と言われている。それほどここに来るものがいないと言いたいのだと思うのだが、あまり笑えない話だった。

 フラウが苦笑いすると。


「おっと、スマン。口がすべった。まあ、気にするなよ。それほどばあさんに気があるなら、贈り物でもしたらどうだ」

「気なんてないです」


 フラウは真面目に反論する。あんなおばあさんに恋心はない。もっと年齢が近い方がいい。


「ハハハ、ジョークだよ。まあ、贈り物するなら、向かいのミカルにでもあげなさい」

「どういうことです?」

「まあ、気にするな。そのうちわかるさ」


 彼は意味ありげになのか、それとも本心なのか分からないが、また「ハハハ」と笑った。

 何だかわからない。

 でも、彼の張りのある笑い声を聞くと元気になる気がする。

 つられてフラウも「ハハハ」と笑う。

 

 ジェイスの曲を何曲か聞いてカフェを出ると、昨日はよく見えなかったミカルが外で店番していた。幼い顔立ちに、張りのある白い肌。頬は薄い桃色に染まり、金色の肩まである髪がサラサラと風に揺れた。花柄の丈の短いドレス。少し型の古い物で、それが彼女の純粋さを現していた。


 店からは風に乗って花の香りが流れてくる。それは彼女の香りのように思える。彼女の白い手が花を一輪ずつ丁寧に、優しく摘まんでお客に手渡すと、彼女の優しさが垣間見える。指は繊細なガラス細工の様で、スカートの下から見える細い脚には白いハイソックスが履かれている。白いソックスが足の細さを際立たせ、今にも折れそうなほどだ。また彼女の顔は雪のように白く、うすく桃色に染まった頬や紅い唇が映える。

 それが美しくて、美しくて――

 フラウはそれにちょっとでも手を触れたいと思う。繊細な美術品に、至高の芸術品に、完璧で精錬された美しいものに、それに手を触れたい。自分の物にしたいという欲が生まれる。

 欲。そんな言葉で片付けたくはないが、それに近い。

 彼女の隣にいたい、彼女の手を取りたい、彼女の唇に触れたい。

 苦しいほど。

 彼女を胸に抱きたいと思うのだ。

 ああ、熱い。

 彼は悶える。

 胸が熱い。

 これは何だ。彼女に対するこの思いは何だ。

 今までこんなことはなかった。

 多分というか、薄々分かった。これが恋だ。これが世にいう恋なのだ。

 恋に落ちた。

 一目惚れとは恥ずかしいが、それでも彼女がどうしても好きでたまらなくなった。

 

 

「ゲト、花を買おう」

「花ですか? 『マスター』にしては珍しいですね」

「そんなことは良い。花を買おう」


 フラウは高鳴る気持ちを押さえて、ミカルの前に歩を進める。

 手足が揃いギシギシと軋む音がしそうな歩き方、それは傍から見ればおかしいとしか思われない歩き方。


「すみません」


 声が裏返る。


「花が欲しいんですが」

「何の御花ですか?」

「君の好きな花を……」

「困りました、お花はどれも好きなんです。ちょっとお時間いただきますけど、よろしいですか」

「は、はい」


 その彼女の姿もだが、その声、そのやり取りの一つひとつが可愛くて、フラウは真っ赤になった。

 ミカルは少し悩んで、綺麗な花の何本かを包んで美しい花束を作った。

 美しい花を、美しいバランスで、美しさを包み込む。


「はい、どうぞ」


 それからの記憶は彼には無い。彼の記憶では、いつの間にか家に着いていて花を眺めていたところから始まる。

 ゲトが言うには、彼は花束を持ち、その場から全力疾走したのだった。ゲトがお金を払い、フラウを追いかけた。ゲトが見つけたのは、自分の家の前で花束にキスする『マスター』の姿だった。それを何とか家に入れて椅子に座らせ、花束は花瓶に移した。


 

「ミカル……はあ……ミカル」


 名前と溜息を連続でぼやき続けるフラウ。

 ココロの中はミカルのことばかり、それしか入っていないようなココロ。

 ミカル色のココロ。

 フラウはキッチンの椅子に腰かけて、ミカルの好きな花を集めた花束を笑顔で見つめている。時折切なくなっては溜息を吐き、嬉しくなっては笑いを繰り返している。

 彼の心にはミカルしかない。それだけしかない。

 ここが何処で、誰が見ていようと、彼には目の前の花を見ていればいいのだ。そこに彼女のココロが詰まっていると思っている。だから、フラウに見えているのはただの花束じゃない。彼女のココロだった。彼女のココロの端を知っている。そう思うだけで楽しいのだ。

 でも、それは自分だけだろうかと心配になる。他にもこんな花束を買っている男はいないだろうかとそう心配になった。でも、ここに彼女のココロがある。それはまるで何もかも包み込むような優しさだと思うのだ。自分以外も飲み込む優しさに触れ、感動する。

 でも、でも、でも、と考えは繰り返され、ループする。

 永遠に止まらないループであった。


 

 ドーケはゲトに聞く。


「なんであんなに気持ち悪い状態になったんだ?」


 昨日、喧嘩したとは思えないほどの距離間でひそひそと話す。

 しかし、場合が場合である。フラウの気持ち悪い姿はとても正視に堪えない。目も当てられない。そういうことで手を組まざるを得ないのだった。


「花屋の娘さんに恋をしたらしくて」

「花屋の娘ね。男が好きそうなシチュエーションだな。で、オマエ的には綺麗だと思ったのか」

「私が見ても、とても美しい方でした」

「ほう、ソイツを結ばせてやれば……」

 と聞こえない声でドーケは言い、そしてフフフと声を漏らした。


  

 花瓶を見つめて、ウフフと笑うフラウ。

 そこにドーケが近づいていく。ぬいぐるみは、キッチンの机(テーブル)に飛び乗った。


「おい、博士よ」

「ミカル……」

「駄目だ、聞こえてないな。これで正気に戻ればいいが」


 ドーケは無い指をパチンと鳴らす。すると、フラウの鼻先で小さな爆発が起きる。


「うわ!」

「おい、正気に戻ったか、博士?」

「ああ、すっかり目が覚めたよ。ああ、前髪が焦げた」


 フラウは紅い前髪を気にした。

 彼女の前でみっともなくないかと気にしながら、下した前髪を手櫛で整えた。


「正気じゃないと、娘はおとせないさ」


 ドーケはフフフと笑う。そして、ドーケはくるりと一回転する。その手には美しい宝石の数々が抱えられていた。


「これをあげたら一発さ」

「贈り物か。しかし、いきなり宝石か? やはり最初は花とか……」

「馬鹿か。花屋の娘に花を上げてどうする」

「それもそうか。じゃあ、どれが良いかな」

「全部やっちまえよ」

「それは駄目だ。慎み深そうな彼女は、全部は受け取ってくれないだろう」


 彼が本気で考えてそう言うのを聞いて、ドーケはおかしくて笑う。


「慎み深いねぇ。オマエの妄想だろ」

「ウルサイ! 彼女は上品だからな、これにするよ」


 彼女に似合いそうな、白いユリのブローチ。それに彼女の選んだ花束の中にもユリは入っていたから、彼女の好きな花でもあるそれを選んだ。


「さあ、行こう」

「今回は、俺も行くよ」

「その格好でか?」

「人にくらい化けられるよ」


 ぬいぐるみはくるりと中で一回転すると、彼は人の姿に化けた。フラウよりも幼い男の子に。彼はフラウの弟ということにするらしい。幼く可愛げのある姿が、この悪魔は好きなようだ。

 


 

        * * *


 

  むかしむかし、あるところに天使がいました。

  天使は地上の娘に恋をしました。

  天使は恋をしてはいけません。

  でも、彼女のことが好きでたまりません。

  だから、天使は掟を破りました。

  彼女には天使との子どもが生まれました。

  その天使は、神によって天界を追放され地獄に落ちました。


  その子はやがて生まれました。片羽根の生えた子どもでした。

 

 

         * * *

 

 店ではミカルが店番をし、主人である老婆は店の奥で休んでいた。老婆は随分と前から身体を壊し、体力も衰えてしまっていた。だから、最近は店をほとんどミカルに任せっぱなしにしている。


 そこにフラウ、ゲト、ドーケが到着したのだが、先客がいた。

 銀色に近い金髪に白い片羽根。フラウよりも少し大人びたような背丈に、顔立ち。教会に住む半天使・エルトだった。彼は黒い修道服を着て、首には十字架を提げている。エルトはミカルの兄貴分であった。天使の父と人間の母を持つ彼は、普通の人並みに成長する。今年で十七になる彼は、少し大人びて見えた。

 エルトは、ポンとミカルの頭をなでる。

 そんなところを見てしまったフラウは「ミカルに男がいる」と勘違いしてしまった。首から提げた十字架と修道服ということを考えればそんなことはないのだが、恋をしてしまった男にそんな判断力はなかった。

 ただ頭をなでたりするのは、彼氏だという短絡的な思考だった。

 ミカルに彼氏がいるんだ、と

 自分の出る幕なんてないんだ、と。

 そう思って、目からは涙が溢れる。

 フラウは踵を返し、逃げ出した。そんなところに突っ込む勇気はない。

 彼は大声で泣きだし、駆け出した。


「やれやれ」


 ドーケは困ったような顔をしたが、タマシイの為と思ってエルトに近づいた。


 

 テケテケと可愛く踊りながら、ミカルに近づいていくドーケ。そのさまは悪魔ではなく、可愛げのあるキューピッドのようだった。恋を成就させようという目的もキューピッドそのもので、まるで天使だった。


「どうも、おねえさん」

「どうしたの、ぼく?」

「ボクは、昨日お花を買った人の弟なの?」

「昨日の? ああ! 私の好きな花束を買った人かな」

「そう、んでね、その人がこれをおねえさんにって」


 ドーケは可愛らしく話しながら、白百合のブローチ差し出した。それは美しく光り、誰をも魅了する代物。そういうことに疎そうなミカルも、「まあ、キレイ」と喜んだ。

 しかし、エルトは言う。


「それをその子に返せ」

「どうしてですか?」

「男からのプレゼントだぞ。どうせ、下心があるに決まっている。それに、このガキはいけ好かない」


 ドーケは嘘泣きをした。「えーん」と可愛く。


「もう、泣いちゃったじゃないですか。エルト兄さんは、率直すぎます」

「オレは半分天使だからな。真実を言って当然――スマン」


 とエルトは言葉を切り、謝った。

 ミカルは悲しげに微笑み、「いいえ、大丈夫」と答えた。

 エルトは結局、それをドーケに押し付けて去っていった。ドーケはそれをまたミカルに差し出したが、「ごめんね、兄さんがああ言うから」と受け取ってくれなかった。

 


 ドーケは家に帰り、ブローチを投げ捨てるとリビングのソファにドッカと座った。


「ちっ、あの馬鹿が」


 苦々しいとばかりに顔をゆがめるドーケ。まだ子供の姿のままなので、その憎しみに満ちた顔が不釣り合いに見える。


「本能的に嫌いやがって。半天使には分からないように気配を消したのに」


 ドーケは手を伸ばして、ブローチを指さした。すると、ブローチは紫色の炎を上げて燃えた。燃え尽きても、床に敷かれた絨毯には焦げ一つない。


「ところで、どこに行った?」


 ドーケはぬいぐるみに姿を変えて、フラウを探した。

 彼は自分のベッドで、枕を濡らしていた。ドーケはそのベッドに飛び乗って、布団を剥がした。


「馬鹿だな、フラウ。オマエの頭は機械か」

「ああ、ボクはロボット以下だよ。死ぬしかない、死のう。一応、毒は持ってきてあるのさ、ハハハ、飲んで死のう。死ぬしかない」

「いいか、説明しよう。あの男は、ミカルの兄貴分だ。エルトという忌々しい半天使さ」

「彼氏とかじゃないのか?」


 彼の顔は急に明るくなった。まるで花が開くように、華やいだ。


「ああ、そうだよ。彼氏の方が良かったのか?」


 フラウはブンブンと首を横に振って、ふう、と深い息を一つ吐いた。

再びやる気を見せたようだ。


 

 

      * * *



 

「メンドクセーから、オマエ、さっさと食事に誘え」


 ドーケは適当な作戦をフラウに与え、自分は先にレストランで待っていると出掛けてしまった。ただ自分が食べたいだけだろとフラウは思ったが、口にはせずただ自分の頭の中でイメージトレーニングを重ねていた。

 ポジティブに。ポジティブに。


 花屋の前まで来ると、自分の顔を叩いて気合いを入れて店の前に向かった。花屋のフレッシュな香り。若々しい草木の香り。それにミカルの美しい声。それは天使の声のように響く。

 フラウは意を決して、ミカルに「あの」と声を掛けた。

 その声を、男の声がかき消した。


「オマエか」と。


 その声は、エルトのものであった。

 エルトの怒気の籠った低い声。それは天使と思えぬ、男そのものの声。その声に、フラウは戦意を一気に削がれ、声の主を恐れた。


「見るからに貧弱、そこそこ頭脳には自信があるタイプ、しかし自身がなく敵前逃亡するような人間だろ?」

「……」

「キサマのような人間に妹はやれん」


 花屋の人ごみの中、ミカルにはけして見えない位置でエルトは剣を抜いた。

 銀色に輝く剣。退魔の剣。

 刀身は、本当に純銀でできている。


「去れ」

「――」

「二度と妹へ近づくな、弟を恋の道具にする下種が」


 剣をしまい、エルトは悠然として帰る。

 そして敗者であるフラウもまた帰る。

 負けた。何も言い返せなかった。それは彼のプライドを深く傷付けてしまった。

 器の大きさ。格の違い。そんなものをエルトはわざわざ見せつけた。自分の方が上である、そんな小さな男に妹はやれないとばかりに。ありったけの覇気を剣で見せつけた。

 そして、それは彼を簡単に圧し折った。

 彼は負けたのだ。

 正確には彼が負けたと思わなければ、負けたことにはならないのだ。でも、彼は負けたと思ってしまった。それは男としての本能である。どこまでも泥臭く、這いつくばってでも戦えばよかった。しかし、男という動物ゆえに、彼は負けた。

 悔しい。

 悔しい。

 負けたことが悔しいのではない。

 男としてのプライドが泣いていた。

 何も出来ず、帰ってきたことが悔しい。

 彼女に気持ちを伝えることすらできず、エルトには負け、トボトボと来た道を戻った。

 それがどれだけ無残か。

 それがどれだけ無様か。

 それはどれだけ深い傷か。

 それはどれだけ痛いのか。

 

「痛いよ――ミカル」

 

 彼の眼からは涙が零れ、手に持った杯に落ちた。

 

「ごめん――みんな」

 

 彼は家で、毒を煽った。

 

 

        * * *

 


 それを一番に発見したのは、ドーケである。彼は契約者の命が危機に瀕しているのを感じ取り、飛び帰ってきたのだった。

 彼が発見したとき、フラウの身体には完全に毒が回っていた。すぐにでも彼は死んでしまうところだった。ドーケが全身全霊を持って魔術で毒を抜き取り、魔女の秘薬をもって手当しなければ、彼はこの世にはいない。


 フラウはそれでも一週間、生死の境をさまよい続けた。

 自殺者は、自殺者の行くべきところへ行く。だが、彼は悪魔と契約していたから地獄へ落ちねばならない。地獄行きか、自殺者の行くべきところか、彼は地底界の裁判を受けることになる。

 サタンやら、地底の首領たちが六日間の議論を重ねた結果、やはり彼は地獄で永遠の苦しみを味わうべきだろうという結論に達したところで、彼は悪魔の手によって地上へ引きずり上げられたのだった。

 永遠なる地獄をみる寸前のところで、彼は悪魔に救われたのだった。

 

 フラウが目を覚ますと、ゲトとクルスが覗きこんでいた。


「ああ、地上なのか。ボクは助かったのか?」

「ええ、そうです。悔しいですが、ドーケの手で」


 ゲトは彼を指し示した。人差し指だけではなく、しっかりと指全てでそれはゲトなりに彼を認めたことを示していた。それは主人を助けてもらった敬意であった。

 とうの本人は、力を使い疲れたのだろう。ベッドの向こうに置かれたロッキングチェアーで眠っていた。


「すまない、ドーケ」


 フラウはココロの底から、彼に感謝した。

 彼が助けてくれるとは思ってもみなかった。タマシイにそこまで命を込める悪魔ではないと。彼は神に勝つことにそこまで力を注がないと。彼が一匹の羊に全力で手を掛けはしないと。そう思っていたのに。

 彼は違った。

 彼は一匹の迷える子羊の為に、全力を尽くした。それはまるで――


「悪魔らしくないけど――ありがとう」


  

 

     * * *

 

 

 トン、トン。

 ドアが鳴らされる。


「すまない、ゲト。先に行って出てもらえるか。クルス、すまないが連れて行って欲しい。身体がまだ言うことを利かないんだ」

『承知しました』

 

 フラウが下に降りると、玄関先には老警官の姿があった。その顔はとても疲れているようだった。皺の深く刻まれた顔が、その皺のせい以上に暗く見える。


「どうしました、警察の方のようですが?」

「いえ、最近ですね。隣の偏屈な婆さんを見なくなったという連絡が入りましてね。それで隣に行ってみたんですが、いないんですよ。それに他にも何人か行方不明でして」

「それは大変ですね」

「何か知りませんかね?」

「いえ、分かりません。何分越てきたばかりですし。もしかして、余所者だから疑われているんですか?」

「そういうわけでは……」

 

 そう言葉を濁したが、どうやらそう言うことらしかった。


「兎に角、ボク等は何も知りません」

「そうですか、分かりました」


 と老警官は去っていった。

 そのとき、フラウは彼に聞くべきだったのだ。赤い目を持った彼に。その爛々と燃える目の理由を。そのとき、彼に問いただすべきだったのだ。それをしなかったのは毒で身体が自由にならなかったからじゃない。その答えを聞くのが怖(こわ)かったのだ。彼を信用していたからだ。

 信じていることを裏切られるのは辛い、痛い、怖い。

 だから、信じる。

 辛くないように。

 痛くないように。

 怖くないように。

 祈りながら、信じる。

 

 

   《一部 協奏曲(コンチェルト)第666番~悪魔~・了》

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