第3話 神の住処
目を覚ますと、そこは薄闇の中だった。
はっと身を起こせば、またズキリと足首が痛んだ。
そうだ、足を挫いたのであった。ラストゥから逃げる途中で――
徐々に目が慣れ、シーラは辺りを見渡した。
広い洞窟の中だった。彼女はどうやら草を敷いた寝床のようなものの上に横たわっていたらしい。特に拘束はされておらず、光の差し込む入口も見える。
ラストゥの住処、なのだろうか。あの殺戮神ならば死屍が折り重なり腐臭漂う魔窟に住んでいそうなものだが、微かに血の臭いこそするものの、そこには死体どころか骨の一欠片さえ見当たらなかった。
ラストゥはどこへ行ったのだろう。気配は感じる。あの呼吸音も聞こえる。しかし姿が見えない。外だろうか?
洞窟から出ることはできそうだが、足が挫けている上に村まではかなりある、到底逃げ切れはしない。諦めのついた彼女は、下手に動くより大人しくしていた方がよい気がして、じっと待つことにした。
果たして光を遮り、ラストゥは帰ってきた。片手に何か持っている。棍棒か?
彼は徐にのそのそと歩み寄って来ると、手にしたものをシーラに差し出した。
それは人の足だった。
またしても彼女は悲鳴を上げた。切断された足――だけならば百歩譲ってまだよい、しかしラストゥは、それを彼女の口に押し込もうとしたのだから!
言葉にならない叫びを上げながら、シーラは必死に押し返した。長きにわたる格闘の末に、怪物は漸く諦めて再び出ていった。
肉から飛び散った血を浴びて半ば呆然としながら、破裂せんばかりに脈打つ己の心臓を宥めた。バリ、ベリ、ボキ、という世にもおぞましい音が聴こえて来、彼女は即座に耳を塞いだ。
あの頭でどうやって食べるのだろう。考えたくもない。
だが、妙に引っ掛かることが一つ――生贄というのは、喰われるものではないのだろうか?
これまでに一度たりとも贄の少女が村に帰って来たことなどない。皆、ラストゥの餌食になるのだと思っていた。
けれども彼は今、シーラに肉を食わせようとした。一体何の為に?
もしかしたらもう暫く、生きられるのかもしれない。そんな淡い期待が生まれた。
と同時に、もっと酷い死が待っているのではなかろうか、と身震いした。
それでも、あまりにも強い恐怖を感じたせいで麻痺してしまったのだろうか、ラストゥの姿自体には、そこまで恐ろしさを感じなくなっていたシーラであった。
さて、これからどうすればよいのか。
いや、どうしようもない。それは分かっているが、することがなく暇なのだ。ラストゥは相変わらず出たり入ったりを繰り返し、到底気など休まらない。鎌を問いでいるらしい音が彼女の精神を擦り減らした。何かで気を紛らわさなければおかしくなってしまいそうだ。
こんなに放ったらかしにされるとは夢にも思っていなかった。勿論ラストゥに絡まれるのは真っ平御免だが、それにしても監視が緩い。このまま悠々と山を下って行っても、彼は気にしないのではないかと思うほどに。
逃げられる、だろうか。幾度も抱いては捨てた希望がまたも蘇って来た。人間、本当に命運尽き果てるまで望みを捨てられないものだ。
挫いた足首を見れば、紫色に変色して幾らか膨れている。それほど酷くはなさそうである。あと五日もすれば走れるようになると思うのだが、それまで命が持つかどうか。
この足さえ治れば。あなたに私の命が懸かっているの、と責任を擦り込むように足首を摩った。
最早耳慣れたヒュウヒュウという音がやって来る。今度は何も持っていないようだったので、身構えながらも少しだけ安心した。
ラストゥが畳まれたシーラの足を覗き込む。彼は舌を伸ばし、熱と鈍痛を孕んだ彼女の足首にぺたぺたと触れた。
ぎゅっと握った拳を胸に押し当て、唇を噛んで耐える。
気持ちが悪い。しかし思ったほどではない。その舌は唾液に塗れてはおらず、変に乾いていた。太い植物の蔓のようだ。それでいて生温かく、鮮やかな桃色をしているから混乱するのであるが──
「うやぁっ!?」
いきなりひょいと抱え上げられ、思わず奇声を上げてしまった。慌てて口を押さえるも、ラストゥは全く意に介する風もなく歩き出す。
唖然として固まったシーラを横抱きにして彼は洞窟を出た。
すぐそこに森が迫っていた。太陽は空に烟っており、木々の下は暗かった。
わさわさと葉を鳴らしながらラストゥはゆく。飛び去る鳥も、虫もなかった。森は決して死んではおらず、濃緑の針を鎧った樹木が立ち並び、萌え出る新芽がちらほらと見られる。であるから小さな住人たちは辺りにいるはずなのだが、息を潜めているのだろうか、気配がない。
やがてシーラが連れて来られたのは小さな滝だった。水は絹糸のように流れ落ち、滔々と下ってゆく。
水霧揺蕩う滝壺の畔に腰を下ろすラストゥ――何をするかと思えば、ぎこちない動きでシーラの編み靴を脱がせ、彼女の足を水に浸したのだった。
優しく心地よい冷たさが染み渡り、黒い瞳は水面を映して揺れた。
何ということだろう。あの殺戮神が――数多の村人を喰らい、畏怖と共に語り継がれた伝説の異形が、生贄の少女を癒そうとしている。
「どうして……」
驚愕を顔に貼り付けたままシーラが見上げれば、彼はついと彼女の足を指差し、そして。
「治……、ス……」
およそ言葉らしからぬ、掠れた呻き声のようではあったけれども、彼は確かにそう言ったのだ。
「足……痛イ、ダカ……ラ……」
そして、壊すことを恐れるかのような手つきでシーラの頭を撫でた。
我を忘れ、されるがままに身体を預ける彼女。
恐れは今や、跡形もなく溶け去っていた。
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