第2話 供犠
まだ幾らか鋭さを残す月光が、冴え冴えと春霞を貫く。
人々の見送りの声も聞こえなくなった。集落を離れ、神域──エトゥハの山へ、細い道を登ってゆく。二度と帰ることのないであろう道を。
鬱蒼とした林、山影は黒々と覆い被さり、空気が冷たさを孕んでくる。
余命を刻む拍動は次第に早まり始めた。いざこうして向かってみると、足が竦んだ。エトゥハの懐深くゆくほどに、沈黙が重苦しくシーラの胸を締め付ける。彼女は決して心を失ったのではない。眠らせておいただけなのだ。そして今、目を覚まさせてしまった。受け入れ難き恐怖を克服するための放心状態から、正気を取り戻してしまったのである。
さあ、どうしたらよいのか。彼女はもう、村を出てきた頃の、微笑さえ浮かべた聖なる贄ではなかった。恐れに駆られ息を震わす、年相応の少女であった。いや、他の少女たちに比べれば、随分と気丈であったのかもしれないが。
先をゆく祈祷師たちの、時々ちらと露わになる横顔も、心做しか青褪めて見えた。それが月光のせいではなかったとしても何ら不思議はない。その二人も生きて帰れるか分からないのだから。微塵も望みのない生贄に比べれば、幾許か帰郷を期待できるというだけだ。二人の生死は殺戮神の機嫌次第。そしてラストゥは極めて気まぐれなのだった。
儀式の場は山の中腹にあった。
これといって神殿のようなものは建っておらず、そこにあるのは石が敷かれた三つの円と古びた柱のみ。高台のようになった平らな土地で、これより上は勾配がかなり急になる。殺戮神の住処と、下の世界とを隔てるかのような場所であった。
促され、奥の一番大きな円へと進む。白布で目隠しをされ、石柱に身体を縛り付けられる。結わえ付けられた鎖が硬い音を立てた。
いよいよだ。供犠の式自体はそれほど複雑なものではない。麓で行った祭りが、既にラストゥをここに向かわせているはずだ。祈祷師たちが合図をしさえすれば、すぐにその姿を現すに違いない。
祈祷師たちはいざ神を招こうと、太古より無量の血を吸い、黒ずんだ石畳に跪く。
オォ――と、低く単調な呼び声が二人の唇から滑り出し、長く尾を引いて夜闇に溶ける。
鎖が鳴る。ラストゥを呼び寄せる祭器は、笛や鈴ではなく鎖なのだ。
その音に呼応するように、どこからかジャラジャラと鉄鎖の擦れ合う音が聴こえてくる。
――来た。
肌をざわざわと撫で上げるような、おどろおどろしい緊張。空気が変わった。
目隠しの布は厚く、シーラには眼前の光景を透かし見ることができない。しかし、彼がこちらへ近付いて来ているというのは、何も見えずともありありと分かった。
恐ろしい。
離れていても分かる禍々しい気が立ち込めてきて喉を塞ぐ。やがて、喘鳴のような音が不気味な旋律に混じり出した。
来る。殺戮神が、来る。大鎌を携え、その一呼吸ごとに身も凍らんばかりの鬼胎を吹き込み、無垢な生贄を攫いに――
遂に神の到来を告げたのは、風を切る鋭い音と、びしゃりと地を打つ液体の音だった。
シーラがはっと息を呑む間にも、ドサリと人の投げ出される音がし、甲高い悲鳴と共に足音が遠ざかってゆく。
一人、殺された。もう一人は逃げた。ラストゥが怒っているのか飢えているのか、はたまた気分がよいのか、その御心は知る由もないが、彼女にとっては絶望以外の何物でもない。
ジャラリ、ジャラリと鎖が鳴る。濁った息遣いが近付く。
不意に何かが触れ、彼女はびくりと身体を震わせた。
ラストゥの手らしい。冷たいが生温かい。祈祷師の血だろう――
と思えば、ぬるぬると蠢くものが巻き付いてきた!
竦み上がった。それが何か思い当たった瞬間に、おぞましさで肌が粟立った。
ぱくぱくと開閉する口から声にならない叫びが漏れる。怪物はいとも容易く、彼女を縛める鎖を引き千切る。そして彼は、シーラの目隠しを取り去ったのだ。
途端――
絶叫が迸った。
噂に違わぬ巨大な身体、てらてらと光る返り血、ぎらつく血濡れの鎌、そして――何とも異様なその頭!
鉄の塊がこんなにも恐ろしく見えたことはない。錆の浮く鈍色の、気味の悪いほど整った輪郭!
目などどこにもないのに、それははっきりと彼女を見ていた。
話こそ聞いていたものの、実際に目にしてみれば、その姿の異様さ、解し難き不吉さは到底言葉でなど表せるものでないと知った。
巻き付いた舌を振り解き、弾かれたようにシーラは駆け出した。何も考えていなかった。兎にも角にも逃げなければと本能が彼女を急き立てていた。
早く、早く走らなければ。ねっとりと纏わりつく空気を払い除け、息を急かしてもと来た道を一気に駆け下る。激しい動悸の音が体内に谺する。その合間に聞こえてくる鎖の音は、恐怖故の幻聴なのか、それとも――
木の根や石にでも躓いたのか、足がもつれたのかは定かでないが、突然、シーラは勢いよく投げ出された。
転んだらしい。立ち上がろうとするも、またしても体勢を崩して倒れてしまった。
ズキリと痛みが走った。足を挫いたのだ。
(こんなの大したことない、走らなきゃ……)
距離を詰められてはいないかと、後ろを振り返れば――
既に、彼はそこにいた。
三度目の叫び声が静寂を引き裂き、麓の村人たちは薄気味悪そうに山を見上げた。
シーラは今度こそ気を失った。揺さぶっても何も言わなくなってしまった彼女を担ぎ、祈祷師の死体を引きずって、殺戮神は暗い木々の奥に消えていった。
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