エトゥハの殺戮神
戦ノ白夜
第1話 怪物の出る村
それは必死の懇願だった。
「お母さん、死なないで」
少女は、
掴んだ腕は枯れ枝の如く頼りない。その細さでは、温かさすら留めておけなくなるのも無理からぬことだ。心の底では、分かっていた。
それでも、困るのだ。あと一年でいい。もう一年生きてくれさえしたらいい。今、母に死なれたら――
「私……生贄になっちゃうよ。ねえ、お母さん……」
神は救ってくれない。神は人を喰う。
痛切な祈りも虚しく、少女の母親は小屋で静かに息を引き取った。
認めたくないという風に、失われていく生命の名残を逃がしたくないとでも言うかのように、少女は暫くの間、母の、骨の浮いた手を握っていた。
やがてそこに零れ落ちた一滴の雫。
それは悲しみに潤んではおらず、恐怖のために凍っていた。
母が死んだ。しかし、そのために涙が流されたのではない。
母が死んだ。故に、神への生贄にされるということへの絶望だった。
◇
雄大な深林が四方に伏し、狭霧に沈む山あいの村。
世と里とを急峻な山々が隔てている。そんな仙郷じみた場所に、イレネの民は住んでいた。
そこは恵み豊かな場所だった。閑やかな空気の中にも、木々や獣の息遣いが感じられた。未だ荒らされたことのないその地は、清らかな水を、新鮮な肉を、よく実った穀物を彼らに供し続けた。
そこは理想郷だった。ある一点を除けば。
イレネの村には怪物が出る。
大鎌で人を狩る殺戮神が、山から降りてくる。
殺戮神――ラストゥ。
彼の話は古来より、イレネの民たちの間で語り継がれている。そしてそれは単なる伝承ではない。毎年繰り返される物語、紛れもない現実なのだ。
浅黒い巨躯に擦り切れた腰布と鎖を纏い、首の上に鉄の箱を載せた異形。その頭の形は一角が嘴のように尖り、長く伸びた八面体。鎖が五本、髪のように吊り下がり、箱の額から鼻面にかけては太い棘が一列に並び、底からは妙に生々しい、のたうつ肉色の舌。
誰も正体を知らない。一際高く聳えるエトゥハの山に住んでいるらしい彼は、時折里へと下りて来て、獣や人を斬り殺して喰らう。
断末魔の声だけが静寂を引き裂いて響き、後には血溜まりしか残らない。肉も骨も臓物も、全て鉄の頭の中に啜り込まれていくのだそうだ。
そんな恐ろしい怪物が現れる村に住んではいられない、と、この地を離れようとしたこともあった。しかし、そうするとラストゥは益々激しく殺戮を行い、天変地異までもが民を襲った。
故にイレネの民は、幾らかの犠牲を忍んで住み続けるしかなかったのであった。
この地から逃れられないのならばせめて、何とかしてラストゥを宥め、犠牲者を減らしたい。そうして村人たちは一年に一度、冬が終わり春が訪れる頃に生贄を捧げることにした。
そのおかげか、確かに喰われる民の数は減ったのだった。であるから、人身供犠は今でも続いている。
選ばれるのは十五歳から十七歳の処女で見目の麗しい者。罪人の中に条件を満たすような者がいれば間違いなく贄となるが、これはなかなかいるものではない。
次に優先されるのは孤児だ。親を失った少女たちの中から、贄に相応しい者を選び出す。それでも候補が決まらなければ、村中の少女すべてを集め、一人を選び出すのだが――
今年は、格好の孤児がいた。
ついこの間、冬が訪れようかという頃に母親を喪った十七歳の少女、シーラ。
彼女が次の生贄となるであろうことは暗黙の了解であった。
彼女自身もまた、贄となる日を見据えて生きていた。
そしていよいよ、供犠の日がやってくる。
◇
供の者に付き添われて、シーラは森の奥の泉へとやって来た。
身を清めなければならない。服を脱ぎ、足先を泉に少し浸せば、瞬く間に凍るような冷たさが這い上がって来た。
雪がようやく溶け出す頃なのだ。水はまだ冬の水である。
肌を刺す痺れるような痛みを堪えつつ、身体を泉に沈めた。
ぬばたまの黒髪がふわりと広がる。ただでさえ白い肌は更に血の気をなくし、彼女からあどけなさを奪い去る。
何度、逃げ出したくなったか知れない。生半可に恵まれた容姿さえ何とかすれば逃れられるかもしれないと思い、刃を己に向けたことも一度ならずあった。しかし、美しく生んでくれた母に申し訳ないような気がして、結局その刃が彼女の美貌を切り裂くことはなかった。
受け入れる他、道はなかった。生贄が必要なのだということはよく分かっていたし、結局は誰かが犠牲にならねばならない。選ばれるのも仕方のないことだ。名誉ですらある――と、何とか恐怖を説き伏せた。
儀式が近付くにつれて、彼女は考えることを止めた。何が変わるわけでもない、ただ心が乱れるだけなのだから。
「……ありがとう」
生贄用の上等な白い衣を受け取って身につけた。生来の活発さが余計に失われ、幽玄の哀愁が加わった。
死装束が彼女の生気を吸い尽くすのも直だった。
祭りの喧騒が遠い。
物静かなイレネの民たちも、儀式の日ばかりは集って踊り騒ぐ。そうしてラストゥを呼ぶのだ。
尤も、村人たちの罪悪感を誤魔化すことの方が主な目的ではあるのだろうが。
人々に見送られ、二人の祈祷師と共に神域へ向かう。
列の中には知っている顔も多くあった。涙に濡れる同年代の少女たちの目は、しかし今、送られてゆくのが自分ではなくてよかったという安堵を覗わせていた。篝火に照る顔を背け、拳を握っている幼馴染の少年もいた。贄に選ばれなければ、彼と結ばれたのかもしれない。そんな思いが微かに過った。
が、最早全てが遠かった。
一歩、また一歩。シーラは死へと歩を進めるのだった。
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