057 試練の迷宮その3


 天井から吊るされた不可視の糸が、ミリヤムの身体に巻き付いたその直後、わずかに遅れてキッカは気が付いた。


「……何だ?」


 それは、確証があったわけではない。ただ、なんとなく――視界の端で、何かが揺れたような気がしただけ。故に、今まさに攻撃が行われていると瞬時に判断出来ず、対処が遅れてしまった。


 チリアートの魔力感知にも、キッカの警戒にも引っ掛からない意識外の攻撃は、あっさりと成就してしまう。


「――っ!?」


 眠っているはずのミリヤムの身体が、突然浮かび上がった。かと思うと、一本釣りで引き上げられるかのように、彼女は天井の穴蔵へと連れ去られてしまう。理解するよりも早くキッカは手を伸ばしていたが、惜しくも空を切る。


「チリアート!」


「駄目、間に合わない――!!」


 詠唱を始めていたミリヤムは、攻撃術式の選定に手間取ってしまった。何せ、敵の姿すら見えず、今も尚何が起きているのか分からないのだ。不可視の糸など、彼女の知識の中に存在しないものだった。


「ちっ――!」


 両脚に力を込めたキッカは、大広間の壁に向かって走り出した。僅かな突起を足場として、直角の壁を死物狂いで駆け上る。軽業師のようなアクロバティックな動きで、引き上げられたミリヤムの身体を追いかける。大広間の天井付近には、クモの巣が張り巡らされた横穴が空いており、ミリヤムはその奥に連れ去られたことは間違いない。すぐに、追いかけようとキッカは踏み出すが――。


「なっ!?」


 不可視の糸が、キッカの右足首に絡みついた。そのときようやく、キッカは視認できない糸による攻撃を受けていたことに気が付く。


「上等だ」


 引きずり込んでみやがれと、足首のクモの巣を掴むキッカ。逆に、吊り上げてやろうと、不可視の糸を渾身の力で引っ張った。


「……え」


 だが。


 糸の主は、あっさりとキッカを斬り捨てた。面倒な獲物だと判断して、迷うことなく糸を切断したのだ。引っ張り上げようとしたキッカの身体は、反対方向へと押し出される。駆け上ってきた絶壁を、今度は無防備な態勢で落下させられてしまった。いかにキッカと言えど、空中ではどうすることも出来ない。


「危ないっ――!」


 落下したキッカを受け止めたのは、フリッツだった。


「大丈夫かい?」


「ミリヤムが、さらわれた! 見えない糸だ!」


「し、信じられない……! あたしの魔力探知を掻い潜るなんて……!」


「……この糸は、魔素で練り上げられたものじゃねえな」


 身体に付着した不可視の糸に触れながら、キッカは言う。


「凝視しなきゃいけねえほど、細い糸だな。しかも、背景に溶け込んでまるで見えやしねえ。殺気も出さずに、静かに糸を送り込んでやがった……!!」


 認識が、甘かった。

 試練の迷宮の親玉は、キッカたちが思っているよりも遥かに狡猾だった。アラクネは、虎視眈々と隙を伺っていたのだ。


「追いかけるぞ!」


 当然、キッカはもう一度壁を登ろうとするが。


「――駄目だ」


 フリッツが、キッカの肩を掴んで離さない。


「このままだと、アラクネの思うツボだ。ミリヤムちゃんを攫ったのは、誘いなんだよ。俺たちに追いかけさせることが、奴らの狙いだ」


 腕を競う試合のように、真正面から戦ってくれるはずがない。これは、迷宮を舞台とした殺し合いなのだ。相手を殺すためなら、どんな汚い手段でも使う。


「アラクネは、罠を張って待ち受けることに特化している。バカ正直に追いかけたって、捕まるだけだ。ミリヤムちゃんのことが心配なのはわかるけど、今は落ち着いて欲しい」


「わかってるよ、そんなことは」


 ぐっと、力を込めてキッカは言う。


「――だけど、失うわけにはいかない。見捨てるわけにもいかない。ミリヤムがさらわれたのは、オレの失態だ。二人についてきてくれとは言わねえよ。オレ一人でも、ミリヤムを救助に行く……!」


 もう、フェリエルやシューカのときのように、仲間を失いたくはなかった。冷静ではないことを自覚しながら、むしろその熱量に従って行動する。命知らずと言われようとも、それがキッカ・ヘイケラーだ。


「……そうか。なら、仕方がないね」


 呆れるように、フリッツは笑って。


「チリアート」


「うん、いいよ。あたしも責任を感じてるし」


「ごめんね」


 それから二人は、儚げに頷いた。


「……君を、一人には出来ない。それでも君が強引に追いかけようとするのなら、僕たちもついていく。勘違いしないで欲しいのは……僕たちだって、仲間を見捨てたいわけじゃないんだよ」


 二人は、死地に赴くキッカを見捨てることが出来ない。

 それが、勇者の称号を得たものの定め。


「君が進むのなら、追いかけるよ。絶望的に厳しいとは思うけど……僕たちがいることで、少しは勝機が生まれるかもしれないからね」


「…………」


 キッカは、自分が死んでも構わないと思っていた。それくらいのリスクを身に晒さなければ、ミリヤムを救えないと確信している。……いや、それは卑怯な言い方だ。既にミリヤムが殺されている可能性が高いとわかっていながら、自分のエゴで追いかけたいだけ。自分のミスが許せなくて、居ても立っても居られないだけなのだ。


「……それは、駄目だ」


 真っ直ぐな二人の眼差しが、キッカの熱を急速に冷やしてくれた。


「助かる見込みもないのに、仲間を道連れには出来ない。お前たちは、ついてくるな」


「無理だね。僕たちは、助けられる仲間は見捨てない。ミリヤムちゃんは、かなり危険な状態だけど……キランちゃんは、もっと危うい。ほうっておくことなんて出来ないね」


 フリッツは、冷静に状況を理解していた。ミリヤムの生存確率と、キッカの生存確率。この場で我を忘れて追いかけたところで、どちらにとっても良い影響を与えない。


「勘違いしないでほしいのは、僕たちだって、ミリヤムちゃんの救出を諦めたわけじゃない。どのルートを進もうとも、必ずアラクネは迷宮の奥にいるはずだ。なら、魔物が用意した横穴じゃなくて、正攻法で最深部を目指すべきだ」


「……わかったよ」


 ぐっと唇を噛み締めて、キッカは白旗をあげる。


「熱くなりすぎたよ。オレだって……お前ら二人を危険な目に合わせたいわけじゃねえからな」


 仲間を助けるために、他の仲間を危険な目に合わせるわけにはいかない。救出確率をあげるためにも、まずは目の前の仲間の安全が最優先だ。


「キランちゃん……」


 すぐに間違いを認め、前言を撤回するキッカを見て、フリッツはやや驚き混じりに声を漏らしていた。人のために怒り、危険の中に飛び込むことが出来る勇敢さと、目の前の優先順位を理解して、冷静に状況を見つめ直す聡明さが見て取れる。


「望みがないわけじゃないわ。アラクネは、すぐに獲物を殺さない。あたしたちを誘い込む餌にもなるし、何よりじわじわと溶かしてから捕食するはず。あの子は、治癒術士だし……なんとか、時間を稼いでくれるかもしれない」


「――決まりだね」


 勇者フリッツは、この状況下でも笑みを崩すことはない。


「正規ルートを通って、迷宮の最奥を目指そう。これまでのように、安全を期しては進まないよ。全速力で、迷宮を攻略する」


「ああ!」


 頼もしい仲間に恵まれたことを、キッカは心から感謝していた。



 ◆



 それからのキッカたちパーティは、怒涛の勢いで迷宮を進んでいった。敢えてリスクを承知で踏み込むことで、待ち受ける魔物をゴリ推して蹴散らしていく。当然、手痛い反撃を受けることもあって、無傷でというわけにはいかなかったが、それでも驚異的な攻略スピードだった。


「蜘蛛の抵抗が、激しくなってきたな……!!」


 迷宮の奥から無数に湧いてくる、大量の蜘蛛の魔物。様々な特性を帯びながら、キッカたちに襲い掛かる。


「チリアート!」


「わかっているわよ!」


 いつものやり取りを経て、最大火力で薙ぎ払う。対物量戦において、チリアートの魔術は格別の効果を発揮していた。


「――しゃらくせえ」


 あえて前に出ることによって、蜘蛛の糸による攻撃を浴びるキッカ。だが、高密度の魔素を纏った腕が、強引に糸を引き剥がした。粘着性のあるクモの巣ですら、キッカをとらえることは難しい。


 ――天敵だ、と。


 蜘蛛の魔物たちは、本能的に理解していた。


 だが、逃げるわけにはいかない。いや、逃げる場所なんて存在しないのだ。蜘蛛という生物の特性上、引き込んで待ち伏せするしか作戦はないのだから。


 そして。


 大量の蜘蛛の群れを乗り越えた先に、いよいよ迷宮の最深部がキッカたちを迎え入れる。


「――ミリヤム!」


 だが。


 さらなる悪夢が、その先に待ち受けていることを――このときのキッカたちは、知る由もなかった。


「きのこ」


 きのこ。


「にょきっ」


 ナイトメアが、牙を剥く。


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