041 百二十年振りだね


 パカサロから逃げ出したキッカは、嘶きの森へ向かっていた。肩口の傷が開き始め、血が止まらない。既に疲労は限界を迎えており、一刻も早く身体を休めなければならなかった。


「……っ」


 血を流しすぎたせいか、意識が朦朧としてきた。それでも、何とか足を前に踏み出して、森の奥へと進んでいく。


「……望みは薄いが……」


 もはや、どんな道を歩いているのか、自分でもわかっていなかった。ただ、立ち止まったら二度と歩けないことが本能的に理解していたため、一心不乱で足を動かすのみ。それでも、躓くことなく歩みを続けられたのは、奇跡に近い。森の中とは思えないほど、平坦な道ばかりであった。


「……はっ……はっ……」


 肩で息をしながら、どれほど歩き続けただろうか。

 少し、開けた場所に辿り着いたキッカは、いよいよ己の身体が限界だと悟る。


「追手が、こない……それだけは、救いか……」


 ふと後ろを見れば、血痕がキッカの道のりを示している。本来なら、もう追いつかれてもおかしくはなかった。不思議なものだと、キッカは苦笑いを浮かべる。今、自分が生きていることが、信じられない。


「……もう、限界か」


 がくりと膝から崩れ落ちたキッカは、ぐったりと寄りかかった。ひんやりとした感触が、熱を帯びるキッカの身体を冷ましてくれる。


「あー……」


 キッカが寄りかかったのは、石で作られた彫像。それも、自分によく似た少女の見た目をしていた。というか、キッカそのものである。


「はっ……こいつのせいで、オレは今、追い詰められてんのか……」


 ぶっ壊したくなったが、身体に力は入らない。……いや、かつてこの地に住んでいた妖狐の敬意だとするのなら、そんな気にもなれないか。


「……来たか」


 足跡が聞こえてきた。

 それも複数人の気配を伴っている。


 絶望的な状態でも、キッカは諦めていなかった。死にかけている自分を囮にして、相手の隙をつけないかと伺っていた。殺気を抑えて、瀕死をアピールする。一歩、二歩、三歩……射程範囲に近付いたその瞬間、牙をむき出しにしようとして。


「――おい、キッカ! こんなところでくたばんじゃねえぞ」


 聞き慣れた声がした。


「ヤギ太郎……?」


「助けを呼んできてやったぜ! オラ、この私に泣いて感謝するがいい!!」


「……お前、いつの間にいなくなってたんだ……?」


「っておーい!! 気がついてなかったんかー!!」


 脳天気な声が、キッカの警戒心を解きほぐす。


「……お久しぶりですね、キッカ」


 そして。


「ああ、本当に……あの時と、全く同じ姿をしているです。こんなに傷だらけになって……」


 見慣れない少女が、キッカを覗き込んでいた。


 大きな九つの尻尾が、まず目に入る。琥珀色の眼差しが、ときめきに揺れていた。一見して無表情に見えるが、ぴくぴくと狐耳が反応している。表情よりも、そちらの方が感情を露わにさせていた。


 ――妖狐。


 つい先日巡り合ったばかりなのに、どうしてこうも懐かしい気持ちにさせてくれるのか。


「……お前、まさか……ニールか?」


「はい」


 あの頃とは違う、大人びた雰囲気。だが、決して隠せない幼さが、当時のニールを彷彿とさせる。長く伸ばされた髪は、キッカとよく似ている。


「――百二十年振りですね。もう、会えないのかと思っていたですよ」


「オレからしたら、数日前のことなんだけどな」


 やはりここは、嘶きの森だった。全ての推測が、確信に変わった瞬間だ。


「シーロン様、治療をお願いできますか?」


「ん」


 懐かしい声が、真後ろから聞こえてきた。


「それじゃ、聖域まで運んでくれるかな。色々と、積もる話もあるだろうし」


「……シーロン?」


「やあ」


 振り返ることは出来なかった。力のない身体は、安心したせいか眠りにつこうとしている。


「また、会ったね」


「……そうだな」


 孤独に追い詰められたキッカは、それでも手を差し伸べてくれる仲間がいた。まだ一人ではないことを噛み締めながら、ゆっくりと目を閉じた。



 ◆



 百ニ十年前、あるいは三日前。

 キッカを見送ったアミアンの集落は、しかし瘴気から解き放たれることはなかった。変異種『血の薔薇』を討伐した後も、広大なる嘶きの森は閉ざされたままであった。


「『嘶きの森』はね、ナイトメアによって世界から切り離されてしまったの。だから、元凶を倒すだけでは足りないの。元の形に戻るためには、二つの世界が再び交わらなければならない。その時が来るまで、『嘶きの森』は瘴気に囚われたまま」


 森の大精霊シーロンは、その原因を語る。


「要は、パズルみたいなもの。広大な世界地図を想像して? 細かく切り分けられたピースの一つが、『嘶きの森』。キッカたちの世界には、本来はもっと沢山の国があって、生き物がいて、文化があったの。だけど沢山のピースが失われて、虫食いのような世界になってしまった。キッカの活躍によって、『嘶きの森』というピースが帰ってきたの」


 『瘴気領域』は、時間軸が崩壊した不安定な空間であり、整合性の取れていないひどく危うい状態ともいえる。


「水鏡は、失われた世界を繋ぎ止める繋がりだね。何のためにナイトメアが世界を小分けにして封じているかは知らないけれど……アミアンの様子を思い返してみれば、ろくなもんじゃないよね」


 それが、大精霊が語るこの世界の成り立ちだ。



 ◆



 キッカが目を覚ましたのは、あれから数日後のことだった。


「……ここは」


 精霊の加護により命を救われたキッカは、妖狐たちの手厚い看護によって事なきを得る。担ぎ込まれた和風の部屋は、キッカの知るアミアンとは全く別の様相を呈していた。


「あ、目覚めましたか?」


 甲斐甲斐しくキッカの世話をしていたのは、妖狐としてすくすくと成長したニールだった。とはいえ、少し身長が伸びた程度で、人間と同じ基準で成長したように見えない。数百年を生きる妖狐にとって、百二十年経過してもまだまだ幼さは抜けきらないのだろう。


「ニール……」


 だが、積み重ねられた経験は、底知れない。肉体的な成長よりも、精神的な成長の方が著しいように伺える。醸し出す雰囲気に、余裕を感じるのだ。


「本当に……お久しぶりですね。いつか、また会えると信じていました」


 感慨深そうに、彼女は微笑んでいた。時間のギャップによる違和感が、キッカを困惑させる。


「オレからしたら、つい先日別れたばかりなんだけどな」


「そのようですね。シーロン様から伝え聞いたときは信じられませんでしたが……キッカの姿を見て、すぐに呑み込むことが出来ました」


 それからニールは、キッカと別れてからの出来事を説明する。


「あれから、『血の薔薇』の支配よりアミアンは解き放たれましたが、『嘶きの森』を覆う瘴気は晴れることがありませんでした。といっても、そもそも妖狐は森の中で生きる魔族ですから、特に問題はありません。生き残った魔族を集めて、復興に尽力していました」


 『血の薔薇』が暴れたことで、アミアンは半壊状態だった。目減りした妖狐たちだけでは、再建するのもかなりの時間が必要だっただろう。


「妖狐やエルフは、長寿ですからね。あれからナイトメアは現れることはなくて、平和な毎日でした。魔族同士で揉め事が起きることもありましたが、その程度です。キッカが作ってくれた、なんでもない日常ですよ」


 妖狐たちを閉じ込める瘴気が、逆に妖狐たちを外敵から守る結界のような役割を果たしていた。


「……ちなみに、あの彫像は何だよ」


「あはは……実はですね、キッカがいなくなってから、あの事件を忘れないようにと鎮魂祭が開かれることになったのです。アミアンの犠牲者と、救ってくださったキッカをいつまでも忘れないようにと……」


「なるほどね……」


 苦笑いを浮かべながら、ため息をつくキッカ。魔族たちの真っ直ぐな想いが、キッカを追い詰めることになってしまったという皮肉。だが、悪い気はしなかった。


「ちなみに、キッカの家紋はアミアンのシンボルになっていますよ。この百二十年の間に、すっかり浸透してしまいました。新しく生まれてきた魔族の子供は、キッカを伝説上の英雄だと信じているくらいです」


「おい」


「エルフのレミィを覚えていますか? あの子、平和な時間の中で創作活動に熱を上げていまして、キッカの英雄譚を作り上げちゃったのです。それを聞いた子供たちは大歓喜ですよ。その英雄様が現れたのですから、アミアンはお祭り騒ぎですよね」


「……オレは、そんな立派な奴じゃねえぞ……」


 もはや、頭を抱えることしか出来ない。


 ニールの纏う服装にも、当たり前のようにキッカの家紋が刺繍されている。この様子だと、集落中に溢れていそうだ。


「暇だったんです。あまりにも平和すぎると、過去の栄光ばかりを語ってしまいます。百二十年分の敬意を、どうぞ受け取ってください」


 義理堅い魔族は、一度受けた恩を忘れることはない。


「……だが、訓練は怠っていなかったみたいだな」


「当然です」


 平和な時代が続いたにしては、ニールの魔素は美しく練り上げられていた。一朝一夕の訓練では身につかない練度である。


「二度と、ナイトメアに屈しないように。あるいは、キッカがいなくとも大切なものを守れるように。外敵の襲来はありませんでしたが、牙を磨くことは忘れていません」


 これも、キッカの訓練の賜ですけどね、と。

 付け足してから、ニールは笑みを浮かべていた。


「……逞しくなったな」


「はい。今度こそ、キッカのために戦えるよう、研鑽を重ねてきました」


 まっすぐと、キッカを見つめるニール。


「――キッカは今、窮地に陥っていると判断しているです。百二十年前の恩義に報いるため、我らがアミアンの一族が力になります」


 力強く、魔族の少女は言った。


「あなたはまだ、一人ではございません」


「……ニール」


 万感の思いがこみ上げてきた。柄にもなく、魂が震えるのを感じていた。


「力を貸して欲しい」


 改めて、キッカは頭を下げた。


「喜んで」


 弾む声色とともに、ニールはキッカを抱きしめる。かつてはキッカと同じか、それよりも小さかったことを思い出す。


「……キッカよりも、大きくなりましたよ」


「あんまり変わらねえだろ。それに、あと数年もしたら追い抜く」


「かもしれませんね。だけど、これからは同じ時を歩むのです。一緒に成長できることが、今は嬉しいです」


 妖狐を救ったことで、窮地に陥った少女は。


 しかし、妖狐を救ったことにより、新たなる道を見出した。


 ここから、キッカ・ヘイケラーの反撃が始まっていく。

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