032 生贄指名
妖狐の集落アミアンでは、定期的にナイトメアに生贄を捧げなければならなかった。長であるカルカソーが命懸けで取り付けた、ナイトメアとの契約である。生贄にされるのは、最も魔素の濃度が高い者――要するに、最も強い魔族であった。
「ごめんね、ニール」
一年ほど前、ニールの兄が生贄に選ばれてしまった。妹をとても愛していた兄は、ニールを守るために強くなろうとしたが、皮肉にも魔素が高まったことで目をつけられてしまった。
カルカソーから生贄に選ばれたことを伝えられた兄は、泣き叫ぶこともなく忠実に従った。
「一人にさせる兄を、どうか許して欲しい」
最期の時まで、彼は不平不満を口にしなかった。生贄が決まってから暴れ出すものが少なくない中、ニールの兄は絶望を押し殺して笑みを浮かべる。
「後は任せたよ、ロア」
「……僕は」
ニールの兄とロアは、家族のような付き合いだった。かつて姉や両親をナイトメアに捕食されてしまったロアは、天涯孤独に陥っていた。身寄りのないロアを引き取ると申し出たのが、ニールの兄である。
「よろしくね」
実の兄のように慕っていた人が、自分たちの代表として殺される。そのことを理解していながら、止めることが出来ない無力感にロアは絶望していた。
「お、臆病者の僕には、無理です……」
肉親が殺されたことなんて、この集落では珍しいことではない。誰だって、悲しみを押し殺して生贄を差し出している。いざ、自分たちがその役目を回されて、今更拒否するわけにはいかないのだ。
今日まで自分たちが生きてこれたのは、どこかの家族が生贄を差し出したから。そのとき止めなかった者に、今を拒否する資格はない。家族や仲間の屍の上に、自分たちが生きていることを忘れてはいけないのだ。
「全員が、共犯だ。全員が、加害者だ。だからみんな、犠牲者を忘れないように」
いつしか、生贄に選ばれることが当然のような風潮が生まれていた。断ることは、これまでの生贄になった者への冒涜である。むしろ光栄なことであると、カルカソーは説いていた。
生贄という手法を一度肯定した以上、彼らは後戻りが出来ないのだ。今更それを止めたとして、得られるものは何もない。一人目を捧げた時点で、彼らはナイトメアに屈している。
理解したくなかった。
生きるために受け入れた非道な行いと、向き合いたくなかった。
絶望は、深い闇となって心を飲み込んでいく。生贄の数が増える度に、足元の死体の数は増えていく。どこまで登っても、出口は見当たらない。さぁ、次は誰の番だろう。いつまで自分たちはナイトメアに蹂躙され続けるのか。
希望の光って、どんな色をしていたっけ。
そんなことすら、彼らは考えられなくなっていた。
だが。
忘れかけていた熱を思い出させてくれたのは、異世界からの訪問者。
「――辛気くせえな、お前らは」
彼女はとても凛々しくて。
彼女はとても、煌めいていた。
最初こそ、その光を疎ましいと目を細めていたが、少しずつ慣れていくにつれ、今度はその輝きから目を離せなくなっていた。
彼女の言葉は逞しくて、心強くて、何よりも心地が良かった。失われていたものが、心の奥底から湧き出していた。溢れんばかりの感情が、絶望に浸かっていた彼らを包み込む。
だが、それは両刃の剣だ。
生きたいと願えば願うほど、死は恐ろしくなる。
それが、ナイトメアという存在の、脅威である所以だ。
◆
「――ナイトメア様の使者が、いらっしゃった」
集落の長であるカルカソーが、全員に招集をかけた。キッカがアミアンに根を下ろしてから、二週間後のことだ。言葉の続きを聞かなくとも、その意味は周囲の反応が示していた。
遂にこのときが来たか、と。
誰もが青褪めながら、唾を飲み込んだ。
「今から、使者殿が生贄を選別する。選ばれたものは、大人しく従うように。くれぐれも、無礼な態度を取るではないぞ。彼らのご慈悲のおかげで、我らは今日まで生き延びているのだからな」
ざわざわと、不安が雑音として反響する。それでも取り乱したりしないのは、選別が今に始まったことではないからだろう。
「…………」
どうやら、生贄はナイトメア側が直々に指名するようだ。住人たちは家族ごとに分かれ、互いに身を寄せ合って指名を待つ。
「……ろ、ロア」
「だ、だ、だ、だ、だ、大丈夫、ニール。お兄さんの代わりに、僕が守るからね」
家族を失っている二人は、互いに肩を寄せて恐怖に堪えていた。
「…………」
キッカは、生贄が選ばれる日を待ち望んでいた。カルカソーの言葉が真実なら、生贄は高密度の魔素を持つものから選ばれる。集落の住人をすべて確認したが、キッカより優れた魔素を持っている者は存在していない。つまり、選ばれるのはキッカでほぼ間違いないはずだ。
「……大精霊とやらの元まで連れて行ってもらおうか」
魔族を裏切り、ナイトメア側についたという嘶きの森の大精霊が、キッカの狙いだ。ナイトメアと違い、精霊には理性があるはずだ。交渉次第では、キッカが望む情報を得られる可能性もある。
「さて、鬼が出るか蛇が出るか」
いよいよ、ナイトメアの使者が姿を見せる。
「……!?」
使者の外見を見て、キッカは戦慄した。
「どういうことだ……!?」
転移してから見慣れてしまった狐耳と大きな尻尾が、まず目を引いた。ナイトメアの禍々しい形状とは全く別、
――ただし。
血で汚れた毛並みと闇を讃えた真っ黒な眼は、この世の生き物ではないことを教えてくれる。呼吸をする度に吐き出される瘴気によって、淀んだ空気が広がっていた。
「……
周囲の妖狐が、がたがたと歯を震わせていた。小さな声で、お母さん、という声が聞こえてくる。皮の正体が、以前生贄に選ばれた者の末路であることは、疑いようのない事実だった。
「ケヒ……」
不自然に首が曲がり、ナイトメアは周囲を見渡す。
「アレ……? ミンナ……エ……? 美味しソウ、だネェ……」
悪趣味だが、その脅しは効果てきめんだ。生贄を選ぶ場所で、前回の犠牲者を見せつける。新たに選ばれた者は、見捨てたという事実を突き付けられるのだ。
「アー……」
心の壊し方を、よく理解している。この集落を支配しているナイトメアの凶悪さが、たったこれだけで伝わってくる。
「――決めタ!」
カタカタと、嬉しそうに震えながら。
「君ガ一番、美味しソウ!」
「……え?」
使者が指さしたのは、キッカ――では、なかった。
「……ロア?」
「あ……」
鳥人族の青年を、使者は指さしていた。周囲の視線が、一斉にロアに送られる。
「アアアー、美味しソウーーーーー! 羽を毟っテ、股を割いテー、ジュルジュル、グチュグチュ、グフフフ!」
「ま、待て……!」
何故、オレじゃないんだ? と。
焦る想いで前に踏み出そうとしたが、キッカの動きを封じるように、後ろから羽交い締めにされてしまう。
「――勝手なことをなさらないで下さい。手出しは無用です」
「!?」
カルカソーを始めとした、集落の代表者たちがキッカに飛びかかっていた。術式を使っているのか、振りほどこうとしてもピクリとも動かない。
「て、てめぇら……!」
想定外の展開に、キッカの心に隙が生まれていた。後手後手となった対応が、状況を悪化させていく。
「……ロア」
「ああ……」
臆病者の青年は、寂しそうにニールを見つめてから。
「――まぁ、仕方がないかぁ」
ゆっくりと笑って、ニールの手を離した。
「僕が先で、良かった。ニールが先なら、たぶん耐えられなかったよ」
臆病者のロアは、まるで別人のように動じていなかった。余裕を持った表情で、ニールに別れを告げる。
――これが、ロア?
と、誰もが目を見開いて驚いていた。
「ろ、ロア……? い、いかないで……! ロアがいなくなったら、私は一人に……!」
「大丈夫。きっと、キッカ様がなんとかしてくれるから」
そう言って、ロアはニールの涙を優しく拭った。
「キッカ様、後はよろしくお願いします」
最後に笑いかけるロアの唇は、僅かに震えていた。あの臆病者が、恐怖を堪えて平静を装っているのだ。何のため? ニールのために、決まっている! 避けられない別れをせめて少しでも痛みを和らげてあげられるよう、ロアは全力で笑顔を作っているのだ。
「……っ!!」
何だそれはと、キッカは怒りに震えていた。これまで散々、臆病を晒していたくせに、どうして今になって我慢するのだ。
「ロア……!!」
その怒りが、キッカに力を与えてくれる。ぴくりとも動かなかったカルカソーの拘束を、力技でこじ開ける。
「な、なんてやつだ……! カルカソー様の術式を強引に破るとは……!」
「ふざけんなっ……!」
キッカの動きを、一時的とは言え制限できるほどの術式を使えるじゃないか。何故、抗わないのだと、キッカの心は叫んでいた。
「だが、間に合わん」
既にロアは、使者の目の前に直立していた。使者はロアの魔素をゆっくりと吟味してから、嬉しそうに頷いた。
「イコウカ」
「はい」
そっと、使者は手を差し出した。その手を握れば、取り返しのつかないことが起きると誰もが理解していた。この世の悪意を煮詰めたような、禍々しい瘴気。それでもロアは、怯えることなく手を伸ばす。
「――だめ」
小さな、悲鳴のような声が聞こえてきた。
「だめ――!!」
ロアの心からの慈しみを、ニールは受け取れない。
――BANG!
宵闇を切り裂く一筋の光が、使者の後頭部を貫いた。
「……ヘ?」
奇しくもそれは、ナイトメアの中心核を見事に貫いていた。一撃必殺の銃撃は、紛れもなくニールの手によって放たれたものだった。
「ニール?」
銃を握りしめていたニールを見て、ロアは目を見開いて驚いている。
「
ナイトメアが消滅する寸前、空に瘴気が立ち上る。だが、反撃する程の余力はなかったようで、そのまま消滅していった。
「――なんてことをしてくれたんだ!!!」
カルカソーの叫び声が、集落一帯に響き渡る。
「使者殿を撃ち殺して……貴様、よくもやってくれたな! 取り返しの付かないことを……!!」
「で、でも、ロアが……!!」
「――黙れ!! 何のために、これまで生贄を捧げてきたと思っている! みんな、必死の思いで我慢してきたんだ……!! 自分だけ、家族を助けようなどと片腹痛い!!!」
「う、うううう――!!」
「今すぐ、全員を捕らえよ! 今すぐ、大精霊様にお詫びをせねばならん! 怒りを鎮めるためににも、今日の生贄は、三人だ!! ロアとニールはもちろん、このクソガキも生贄対象だ!」
「……もう遅えよ」
自由の身になったキッカが、ロアとニールの前に立ちはだかる。
「喧嘩を売っちまった以上、戦うしかねえだろう。そろそろ、覚悟決めろや。家族を守りたきゃ、立ちあがるしかねえんだよ!!」
「……っ!」
「いつまで家族を見殺しにするつもりだ。糞ったれな人生を送るくらいなら、華々しく死にやがれ」
それは生きているとは言わない。
「……そうだ」
初めに同意の声を上げたのは、キッカの訓練を受けていた妖狐の青年ボリスだった。
「今やらなきゃ、いつやるんだよ! 俺たちだって、戦える! ニールだって、覚悟を見せたんだ! やるっきゃねえだろう!!」
「そうだ! ロアを失いたくないのは、皆同じのはずだ……!! 待ってたって、いつかは喰われるんだ! これ以上、生贄なんて許さねえ!」
潮目が変わり始めているのを、キッカは感じていた。彼らの魔族としての誇りが、ひしひしと伝わってくる。そうだ、彼らは人間など比較にならない強力な種族なのだ。邪魔者は力で排除するのが、魔族の流儀だろう。
――だが。
ナイトメアの牙は、一つだけではなかった。
「……あ?」
ぐらり、と。
キッカの視界が、不自然に歪んだ。
慌てて身体を支えようとしたが、うまく動かない。そのまま、無防備を晒して地面に倒れてしまう。
「……キッカ?」
ニールの声が、やけに遠くに聞こえる。手足が痺れて、動かない。術式? キッカの脳裏に、あらゆる可能性が浮かび上がる。その中で、答えにたどり着いた。この感覚を、身に沁みて理解しているはずだ。
「
ふぅ、と。瘴気を吐き出しながら、カルカソーはキッカを見下ろす。
「化物だな、この人間は。まぁいい……
「……っ!」
使者に気を取られている隙に、瘴気に満ちた腕に羽交い締めにされていた。遅効性の毒のように、後から瘴気が身体を巡る。今更気が付いても、もう遅い。どれほどキッカが強くとも、瘴気の有毒性には為す術がなかった。
「――この者を拘束せよ。あのお方たちに、捧げるのだ」
カルカソー一派は、妖狐の未来を諦めていた。
「裏切り者は、お前らじゃねえか」
「魔族が生き延びるためなら、仕方があるまい」
心を売らなければ、生きていくことが出来なかった。妖狐の集落アミアンは、とっくに陥落していたのである。
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