015 十歳、悠久を越えた厄災


 グアドスコン王国は、非常に大きな領土を持つ大陸唯一の国家である。隣接する他国は存在せず、戦争というものを知らなかった。時折、王国内で争いが勃発し、王族の交代劇が起きることもままあったが、この世界はグアドスコン王国だけで完結していた。


 広大な土地に対して、王国における人間の活動領域は驚くほど狭かった。その背景には、グアドスコン王国の領土の大半が、瘴気に包まれた未開の土地であることが挙げられる。絶えず溢れ出る呪いの瘴気は、人間が踏み入ることを拒絶している。強引に踏み込もうとすれば、たちまち呪いによって絶命させられる。


 人間にとって危険極まりない場所だが、瘴気領域は独自の環境を築いており、中に潜む魔物たちもまたその中でしか生存することが出来なかった。そのため、魔物たちが人間の生活を脅かすこともなく、危ういながらも不干渉を貫く隣人として、平和を維持してきたのだ。


 ――だが。


 その瘴気領域に、異変が起こり始めていた。


 この時はまだ、その事に誰も気付いていなかった。


「あいつ、元気でやってっかねえ」


 グリム・リンデンがスキルを授かり、王都『サンレミド』に招集されてから二年の時が経過していた。十歳を迎えたキッカは、持ち前の美しさに更に磨きがかかっていた。幼さは残しつつも、作り物のような鋭い美しさが増していく。


「先日も、手紙が届いていましたね」


 フェリエルも、十四歳を迎えていた。キッカと違って発育がよく、少女から女性への成長が進んでいる。


「あいつの手紙、つまんねーんだよな」


 この二年は、とても平和で穏やかな毎日だった。パカサロの治安もキッカの活躍により随分と改善された。キッカの振る舞いに感化された衛兵たちは、負けずに治安維持に取り組む。良い影響が、ぐるぐると回り始めていた。


「……天気が悪くなってきたな」


「あら、本当ですね。シューカ様、傘を持っていなかったような……私、ちょっと様子を見てきますね」


 今日は、ティルザによる課外授業の日だった。


「オレも行く」


「あら、珍しいですね。シューカ様、お喜びになりますよ」

 

 空の果てを見つめながら、キッカは呟いた。


「……今日は、そういう気分なんだ」


 ざわざわと、風がうるさく吹き荒れる。

 不幸が訪れる予兆のようだ。



 ◆


 今にも雨が振り始めそうなのに、踏ん切りがつかない中途半端な雲だった。昼なのに陽の光は遮られ、強風が髪の毛を乱れさせる。不安定な天候は、見るものの心をかき乱す。


 パカサロの町の住人達も、居心地の悪い天気に嫌気が差したのか、出歩くことを控えていた。心配そうに窓から空を見上げては、嵐の到来を予感している。


「……妙だな」


 郊外にある森の中に到着したキッカは、辺りを伺いながら呟いた。


「気持ち悪い気配があちこちから感じる。何だ、この感じは……?」


「……この森って、こんなに不気味でしたっけ。なんだか、気味が悪いです」


「嫌な予感がする。念のため、準備を怠るなよ」


「――了解」


 森の入口付近には、二人の姿が見当たらない。魔術の訓練ならば、奥まで行く必要はないはずだ。


「ご主人様」


 先行するフェリエルが、何かを発見した。足を止めて、横たわる何かを指さした。


「……これは」


 真新しい、人間の死体のようなものが転がっていた。不確定な表現なのは、それが原型を留めていないからである。全身が、何者かに食い破られたように壊されている。これが人だと判断できるのは、同じ種族の直感だ。


「ひどい……」


 荷物が荒らされていないところを見ると、盗賊の犯行ではない。装備から判断するに、パカサロの衛兵だろうか。


「下がれ、フェリエル」


 ぽつり、と。

 キッカの鼻先に、雫が落ちた。


「……え?」


 ドスの利いた声を、キッカは放つ。


「いいから、下がってろ。お客さんだ」


 振り始めた雨が、前髪を濡らす。


「――っ!」


 と。


 死体の向こう側に、宙を漂うように得体の知れない存在が姿を表した。ヒトのような身体を持ちながら、決して人ではないと断ずることのできるエイのような形態。瘴気を纏った肌は毒々しい紫色に染まっており、死の匂いが充満していた。


「ば、化物……!」


 魔族? 魔物? 人間の顔のようなものが、こちらを覗き込んでいる。それが、先ほどの死体の顔であることに、遅れて気付く。二人の脳裏に、強烈な死のイメージが植え付けられた。


「『ナイトメア』」


 キッカは、無意識に呟いていた。


 それは、かつてキランだった頃に討伐した、虚無の化物の総称であった。


 彼らは、中身がない。

 何もない。虚無、あるいは虚空。

 故にあらゆるもの欲し、全てを喰らう伽藍洞。


 彼らには、感情や意志が存在していない。ただ、食欲を満たすために世界を喰らう。


「――っ!」


 即時、迎撃体制に移るキッカ。リンデン商会より譲り受けた拳銃を構える。出し惜しみ出来る状況ではなかった。


 脳髄に響く共鳴音を放ちながら、『ナイトメア』はキッカの殺気に反応する。キッカが引き金を引いたと同時、禍々しい触手を無数に展開し、攻撃を開始していた。


「――ご主人様!」


 やや遅れて、フェリエルが剣を抜いて駆け出した。だが、それは悪手だった。


「そいつに近付くな、フェリエルッ!!!!!!!!」


「……え?」


 触手の矛先は、キッカからフェリエルに切り替わる。当然、その全てを切り伏せるフェリエルは、容易に懐に飛び込んだ。化物の速度は、フェリエルにとって脅威ではない。


「!?」


 ――、と。


 身体が凍りつくような悪寒が、フェリエルの脳を撫でた。


「あ……」


 真正面から、『ナイトメア』の姿を捉えてしまった。擬態していた人の顔はぱっくりと割れ、中からむき出しの悪意が顔を覗かせていた。咄嗟に、それを斬り伏せようと腕を動かそうとしたが、身体は思うように動かなかった。化物に魅入られたかのように、凍りついている。


「……え……」


 『ナイトメア』の身体から発せられていた瘴気を、吸い込んでしまった。その瘴気こそが、『ナイトメア』の象徴的な呪い。


「ちっ――!」


 動けないフェリエルを喰らおうと、無数の触手が襲いかかる。だが、一つとしてフェリエルを傷付けるまでには至らない。キッカにより放たれた銃弾が、全ての触手を撃ち落とした。


 だが、終わらない悪夢のように、触手は再生する。立ち尽くすフェリエルの足元に忍び寄り、その肢体を捉えた。


「……あ」


 触手が肌に触れた途端、フェリエルは泣きそうになってしまった。脳に打ち込まれた過負荷の虚無感が、心をへし折ろうとする。それが、『ナイトメア』の食事の作法だった。


「歯ァ食いしばれ!!!」


 触手を撃ち抜くことを諦めたキッカは、躊躇うことなく『ナイトメア』の懐に飛び込んだ。フェリエルの首根っこを捕まえて、強引に引き上げる。再生したばかりで力の入らない触手は、ぶちぶちと引き千切られる。


「……立てるか?」


「な、なんとか……!」


 本体から距離を置いたことで、喋れる程度には回復していた。だが、吸い込んだ瘴気は、今もフェリエルの身体を呪っている。まともに戦うことは難しい。


「まさか、あれは……!」


「ああ……」


 ようやく、フェリエルは思い出した。


 過去、伝承にのみ記載されていた悠久の悪夢。瘴気の向こう側に巣食う、規格外の異常生物。その名を『ナイトメア』という。ただひたすらに『食う』ことを目的にしており、全身から生み出す瘴気は、生きとし生けるものを一息で呪い殺す。


「ど、どうすれば……あれを、殺せるのでしょうか。ち、近付くことすら危険な相手なんて……」


「――再生される前に、殺し尽くす」


 それが、キッカの答えだった。


 両手に銃を構えて、『ナイトメア』と対するキッカ。化物は、のんびりとした動作で触手を展開する。その動きは、キッカを観察しているようであった。


「――『魔弾生成』」


 両手の銃に、ありったけの魔素を注ぎ込む。


「『炸裂弾』✕『浄化弾』」


 殺傷力を限りなく高めた特製の榴弾と、悪しき者を払う神聖属性の魔術弾。それらをかけ合わせた、キッカ固有の術式だ。


「――『審判の日』」


 底無しの殺意に反応した化物は、咄嗟に攻撃態勢を取った。鋭利な触手を幾重にも繰り出して、キッカを串刺しにしようとする。だが、術式の準備は既に終えていた。触手がキッカの喉を貫くよりも早く、銃口は光り輝いていた。


「おせえよ」


 二丁拳銃から放たれる、無数の魔弾の雨。圧倒的なその物量は、確かな破壊力を持って『ナイトメア』の肉を食いちぎっていく。


 ――ギャアアアアアアアアアア!!!!!


 悲鳴のような声が、辺り一帯に響き渡る。

 触手を何度も生成し、どうにかキッカに抗おうとしていたが、絶え間なく降り注ぐ裁きの弾丸が、化物に反撃の隙を一切与えなかった。


 正しく、神の裁きの如し。この世を喰らう化物は、跡形もなくこの世から葬り去られる。


「……凄い」


 圧倒的な火力の前では、再生能力など意味をなさない。


「……はぁっ……! ちっ、余計な力を使わせやがって」


 消滅を確認したキッカは、息を一つ吐く。額の汗を拭いながら、唇をきゅっと噛む。全身の倦怠感を、必死に否定しているようであった。


「……油断はするなよ」


 険しい表情を浮かべながら、キッカは呟いた。


 これで終わりではないと、本能が叫んでいた。


 ――、と。


 世界の隙間から、彼らはやってくる。


「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!」


 右に、左に、真正面。

 形状の違う『ナイトメア』が、獲物を探してやってきた。獲物を見つけたことを、喜ぶかのように触手はうねっている。


「――とんでもねえな」


 魔素を練り上げながら、キッカは銃を構えた。


「一匹残らず、駆除してやるよ。ここはお前たちが来ていい場所じゃねえ」


 魔弾が、再び展開される。


 少女の弾丸は、絶望を貫く一筋の希望となるか。


 『ナイトメア』は、キッカを凝視する。


 ――グオヲヲヲヲヲヲヲ!!!!!


 雨が、激しさを増していく。

 まだ、嵐は訪れていない。

 


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