クーラーの効いた部屋で彼女は

ほひほひ人形

クーラーの効いた部屋で彼女は


――夏。


七月の空の色は青く深く、強烈な日差しが田舎道のアスファルトを焼いている。

遠くの空には大量の雨を抱えた入道雲が天高く聳えていて、その下には盆地に居並ぶ街のビル群。

郊外とはいえそれなりに強烈な暑さは、鞄を背負って彼女の家に向かう僕を容赦なく襲っていて、汗がさっきから止まらない。しかも蝉がかなりうるさい。


「暑い……」


ざっと直線で一キロメートル弱、田園地帯のど真ん中まで、雲なし、日陰なし、逃げ場なし。

つい一ヶ月くらい前まではまだギリギリ耐えられる程度だったはずの彼女の家までの道のりは、もはや拷問となっていた。

こんなことなら自転車で来ればよかった、と電車を使った三十分前の自分を恨みながら、僕は目の前、というか僕の周囲に広がる田園風景のど真ん中を歩いている。


ちなみに時刻は二時半。半日で終わった高校の終業式の帰り、繰り返すけれど僕は彼女の家に向かっている。

そして、彼女の家――その敷地面積は普通の家の五倍くらいはあるんじゃないかと思えるその家はすでにさっきから、正確にいえば最寄りの駅に着いた時からよく見えていて、僕はそこへ向かって駅からかれこれ三十分くらい歩いているのだった。


――十五分後、到着したのは和風の大豪邸。


田園地帯の真ん中にポツンと、ではなく、

田園地帯の支配者は私ですよと言わんばかりに存在する大豪邸。


「……あぁあ、疲れた」


彼女の家の玄関先、瓦の葺かれた門の下、僕はやっと一息つけた。

純和風にして広大な彼女の家の玄関のブザー(チャイムじゃない)を押すと、通信が繋がる音とともに女性の声がした。


「……対馬(つしま)様ですね? お嬢様がお待ちしておりました。只今門をお開け致しますので、どうぞお入りください」


ブツ、と通信が切れると同時、モーターが低音域の駆動音を立てて、門というより柵みたいな扉が開いていく。庭は打ち水がしてあって外よりはいくらか涼しそうだけれど、僕がそれを確かめるより早く、手入れされた日本庭園とそこに敷かれた白い玉砂利の道を背景に、侍女服の女の人が現れた。


「――いらっしゃいませ対馬様。お嬢様がお待ちです」


澄んだ声と、恭しい礼。

門の向こうに立っていたのは、侍女服でショートカットの女性だった。


「……どうも」

「お荷物、お持ちいたしますか?」

「結構です。自分で持ちます」


これでも高校二年生、男子としてのプライドは持っているつもりだ。それを知ってか知らずか目の前の女性はそうですか、と答えて表情を変えない。

彼女は江間さんといって、この家のメイドさんである。

僕はこの家に来るようになるまでメイドなんて創作物の中の存在だと思っていたけれど、実際にエプロンドレス(と、思われる服)を着て彼女に仕える江間さんの姿を見て、考えが変わった、というか変えさせられた。

現実は小説より奇なり、である。


それはともかく――玉砂利の道を歩く江間さんと僕。


僕と背は大して変わらないので同級生と歩いている時の気分もしないでもないけれど、そこはやっぱりメイドさんなので気分は別世界だ。

互いに何も話さず、玄関まであと数メートルの地点まで進んだ所で、隣の江間さんは加速して素早く扉を開ける。そして、中に入った僕が玄関で靴を脱ぎ終わる頃には江間さんはもう廊下に立っていた。

――玄関をぬけて、僕と江間さんは廊下を歩く。

外の世界と時間の流れが違って感じるのは、僕が彼女と会うことに対して多少の抵抗を感じているからなのかもしれない。


「――お嬢様は」


僕がそんな考えを持ったことを察したのか、前を歩く江間さんはおそらく表情を変えずに言った。


「――対馬様がお越しになることをとても楽しみにしておいででしたよ」


……それは、二週間に一回くらいしか来ない僕へのあてつけか、それとも単なる感謝なのか。

どちらなのかは分からないけれど、とにかく僕と江間さんは彼女――千代原 亜矢香の部屋の前に着いた。江間さんは板張りの廊下に音もなく膝をついて、お嬢様、と一声かける。


「対馬様が……」


いらっしゃいました、と言う前に、扉が開く。すとん、と障子戸が音を立てて開き、中から彼女が現れた。それと同時に冷えた部屋の中の空気が足もとに触れる。


「久しぶりだね。入ってくれるでしょ?」

「ああ」

「いらっしゃい」


長い漆黒の髪は床に触れそうなほど長く、くるりと反転しても末端はその動きについていかない。まるで古典の作品にでも出てきそうないでたちの彼女は、部屋に僕を招き入れて何も言わず、背後で江間さんは戸を閉めた。   

入口に残された江間さんがこの後どうするかは毎度のことながら知らないけれど、聞き耳を立てていたりはしないだろう。


「……久しぶりだね。二週間くらい?」

「ああ、うん」

「座って座って。で、今日はどんな用事で来てくれたの?」

「ん……まあいつもどおりかな」


決して強くはないけれど抗えない程度の強さで彼女は僕の肩を押さえ、座らせる。

カーテンの閉められたこの部屋はこの家の中ではかなり小さい部屋だけど、僕の部屋よりは広い。薄暗い部屋の中、クーラーが冷気を吹く音だけが響いていて、部屋の中央に置かれた目の前の小さな机の上に麦茶が置いてあった。


「良かったら飲んで?」


彼女の背はとても低く、声は子供のように幼いけれど、彼女は僕の同級生でクラスメイト。だからもちろん同い年。そして、彼女が他のクラスメイトの連中と違う点が一つある。


――彼女は、俗に言うひきこもりなのだった。


僕は別に、それが悪いとも思わない。引きこもりと言うと一日中ネットばかりやりながら働きもせず過ごす人たちのイメージが強くて、実際大多数がそうなのであって、彼女がその通りだったら流石に僕も幻滅するけれど、彼女の場合は少し違う。


その容姿、体形は普通よりはるかに綺麗だし多分僕より頭もいい。大財閥の会長の孫娘でありながら性格も悪くなく、株のデイトレードでそれなりのお金は稼いでいるらしい。

つまり、僕なんかよりはるかに自立していて、怠惰な点は微塵もないのだ。

そんな彼女が引きこもりなのは、去年――僕がこっちに引っ越してくる前に、当時のクラスで手ひどい苛めにあったかららしい。

この国の頂点に君臨する千代原財閥の孫娘を苛めて引きこもらせるなんて、本当にクラスの奴らは何を考えているか分からないのだけれど、分からない方がいい気もする。……まあ、委員長みたいに割と罪悪感を感じている人とか、そもそも去年は別のクラスだったりして苛めに全く関わってない人も過半数いるけど、彼女にしてみれば大差ないのだろう。


「これ、先生と……委員長からの手紙。持ってきたんだ。良かったら読んで」


僕のために色々と動いてくれる彼女は、座布団を探してくれていた。しかし僕がそう言って手紙と何枚かのプリントを差し出すと、動きが止まる。

そして振り向いた彼女の表情は、会った時のそれとまったく違って心底つまらなそうなものになった。


「……ありがと。貰っとく」


声のトーンを落として、手紙とプリントを見向きもせずに引き出しに放り込む。


「で、委員長が心配しててさ、よかったら一度話をしてくれないかって……」


――バン、と音を立てて彼女の机の引き出しが閉まる。極めて乱暴な閉め方だった。


「……ねえ、葉月(はづき)くん、お願い」

「?」


久々に苗字で呼ばれた。


「あの女の話をしないで」

「……了解」


ちなみに、委員長はこの夏休みの間に転校するらしい。最後くらい、と思ったのかもしれないけど、その望みは叶わない。最後まで気の毒な話だった。


――気を取り直して、本題に入ろう。


僕が今日ここに来たのは、彼女に学校で貰ったプリントと手紙を渡すためというのもあるけど、それ以上にやらなければならない、重要な用事があった。

僕は彼女――亜矢香の向かいに座って、ノートパソコンと一緒にとあるA4サイズの紙に書かれた『資料』を取り出す。そしてそれをいつものように、彼女に手渡した。


「……それが、今回の『事件』?」

「うん、通り魔。襲われてるのは僕らの学校の同級生ばかりで、昨日の事件で三人目。死人は出てない」

「興味無いなー」


だろうね、と言おうと思って止めた。


――警察の真似ごとをやっている彼女は、僕を助手に使って事件を解いている。

彼女に言わせればその『真似ごと』は親族の思惑があったりもするのだけれど、私としては単純に面白いからどうでもいい――と、いうことらしい。

そう言いながら、パズルやクイズが趣味の人間のそれと同じように、彼女は事件を解くのだった。

……たとえその事件に学校の人間が巻き込まれていようとも気にすら留めないのは、彼女が僕以外のクラスメイトを大いに恨んでいるからだ。


「……ふーん」


ちなみにこの事件は一応それなりに世間を騒がしていて、夕方になれば全国のニュースでこの町のことが流れる程度には有名だ。

学校としては外出の自粛を呼び掛けているけれど、彼女みたいな引きこもりでもなければ夏休みに『外出を自粛』するコトが無理なのは誰が考えても分かるだろう。


「…………」


そんなことは我関せず、といった感じで僕の持ってきた資料に目を通す亜矢香。なんだかんだ言いながらも事件そのものには興味があるらしく、何事か考えている。そして、一分もしないうちに言った。


「……犯人は、女だね」

「あ、ちょっと待ってメモするから」

「……凶器は鉄バットとかで無骨だけど、殴打する回数とか角度とか考えると女なのは間違いないよ。それと、殺意はなさそうだから愉快犯なのかな? 標的も三件目でやっと男だし、だんだん自信と力をつけてきたってところだと思う。……まあ、こんな奴ら死んだところでどうでもいいけど」


彼女がしているこの行為はプロファイリングと言って、本来かなり高度な技術を要する操作方法である。それを端的に説明するならば、犯罪者の心理分析と行動科学だ。刑事ドラマとかでたまにある、犯人の取った行動に何らかの規則性を見出して、次の一手を予測する操作方法――彼女はそれを、プロに並ぶレベルでやってのけている。


「……分析完了。犯行現場はだんだん南下してるから、流れ的には次はこの辺りだね。はい、おしまいおしまい」


彼女は地図に丸をつけ、被害者の顔写真付きの資料を見たくもない、とでもいいたげに机の上に放り出す。僕はメモをし終えて、それを彼女に渡す。後で江間さんがそれを警察に届けて、一件落着……という流れである。


僕が彼女の助手役をやる以前は江間さんが資料調達をパソコンでやっていたらしい。それが僕の仕事になったのは、以前ここにプリントを届けに来た時に僕の苗字を彼女が知って、そこから僕の父親、県警の捜査一課課長、対馬 正義(つしま まさよし)の存在に辿り着いたからだ。

警察の資料を持ってきてくれ、なんて言われて、初めはそんなの無理だろと思いつつその場をごまかすために承諾したけど、次の日には僕の家に適当な資料の写しが宅配便で送られてきたから驚いた。

江間さん曰く、いくらこの家が力を持っていてもおおっぴらに財閥と警察が繋がるのは問題だから、貴方みたいな隠れ蓑が欲しかったんですよ――ということだった。


……普通に考えたら捜査資料が外部に漏れてるって時点で大問題なんだけど、そこは色々な力が不可能を可能にしているらしい。良く言えば悪い事をしてでも彼女、亜矢香に資料を渡す価値があるってことだし、まあ、結局は僕が空気を読めばいいだけの話だ。


「……何考えてんの?」

「ん……まあ、ちょっとね」


それだけの話……なんだけど。

何だろう、この気持ち。

さっき彼女が描いた円はこの家もマークしていたっけ?


「もしかして、このゲーム飽きた? 別の何かにする?」


僕が考え事をしている間に、彼女は割と気を使ってくれていた。

画面に映る赤い帽子のヒーローは南の島をカートで疾走していて、たった今海に落下したところである。


「あ、ごめんごめん。大丈夫、集中するから」

「……もしかして、つまんない?」

「いや、ごめん、ホントに何でもないから」

「……そう」


ヒーローはカートに乗ってコースを走る。順位は四位で、頑張れば一位も狙える位置。亜矢香はカーブを進む時に体を傾ける子供みたいな癖があって、たまにこっちに倒れこんでくる。その妨害がなければ挽回くらいはできるかもってところだったんだけど、


「…………」


そういう時に限って、彼女は僕の肩に倒れこんでくるものだ。ハンドルを切り損ねたヒーローはクラッシュするけれど、僕はもう順位とかどうでも良くなっている。肩にかかっていた彼女の重みは倒れた僕の肺の上にシフトして、無言の僕らの間にゲームのBGMとクーラーの音が流れる。

無駄に明るい曲調の音楽が流れる中、彼女はその細くて白い腕を僕の顔の両側について、僕とその顔の距離を近付ける。さらさらと彼女の黒髪が至近距離で音を立てていた。


「……ふふ」


そして、額と額がぶつかる。けれど、ここで僕の言うべきセリフは決まっていた。


「……この先は、君が社会復帰してからの方が良くない?」

「…………そう」


ムードぶち壊しの一撃だった。

彼女は半ばあきれた顔で体を起こし、僕を髪の毛の帳から解放する。僕も上体を起こして、帰り支度を始めた。いつの間にか外が暗くなっている。


「……真面目だよね。本当に葉月くんって高校二年生?」

「君がそうなら僕もそうだよ。前にも言ったろ? 僕はさ、君と一緒に堕落する気はないんだよ」

「……でも私のことは、好きなんだよね?」

「……うん、まぁ」


言ってて顔が熱い。


「そこで照れる辺りが純情だよね」

「止めてくださいマジで」


本日初の僕の懇願。

そもそも僕はクールにやろうとしても失敗するタイプなのだ。さっきのアレとかもう本当に勘弁して下さいってレベルのドキドキが僕を襲っていたのだけれど、必死で彼女を止めるのもそれはそれでよくない気がするから半分くらいは彼女に付き合う。

でも僕にだって理性のタガくらいはある。ケータイ小説やらなんやらじゃないんだから、そんなにピンクいことはしない……というか、するべきじゃないと思っている。


「うふふー。真面目だよねー。……まあその無害っぷりがいいんだけど」


私、肉食女子だと思う、と彼女は言う。

僕自身は草食系男子だと思うが、それを今ここで認めると食われるんじゃないですか自分。


「あ、そう……じゃ、疲れたから帰る」

「うん、またね、ばいばい」

「ばいばい……」


かくして、胸のもやもやをほったらかしたまま玄関へと戻ると、例によって江間さんがいた。外の風景は赤みがかっていて夕暮れは近く、江間さんは話がある、と言って僕を庭の一角……おそらく監視カメラとかのない位置に連れてきた。


「……いつもありがとうございます、と言うべきなのでしょうが、今回はそう言う状況でもないので単刀直入に言わせてもらいます」

「はぁ」


話って何だろう。

何か雰囲気がいつもと違うのはわかるけど、それ以外は全く分からないから不安だ。


「貴方……明日からここに来ないで下さい」

「……は?」


状況はメイドさんと庭石の陰で二人きり。それが面白くもなんともないのは、言われた言葉がそれなりに腹立たしいから。


「……どういうことですか?」

「そういきり立たないで下さい。別に、貴方の存在がお嬢様にとっての害悪というわけではないのですよ」


むしろ逆です、とまで言われた。怒りは消えて、素直にうれしい。


「……ですが……いえ、であるからこそ、来ないで下さい、絶対に」

「…………」


江間さんの眼は暗がりでそれと分かる真剣さを帯びている。それを見て、考察するより早く直感的に僕はかなりの部分を理解した。


「……亜矢香の為ですか?」

「その通りです。知っての通りお嬢様のプロファイリングはやっと世に通用するレベルですし、その覚醒を促して下さった対馬様には感謝しています。……でも、お嬢様は『まだ』分かっていないんです」

「……何を、ですか?」

「人が、『事件』に関わるという事を、です」


そこで一度江間さんは言葉を切った。そしてすぐに繋ぐ。


「お嬢様は『まだ』若いが故に人がどうして罪を犯し、それに巻き込まれる人間がどういう人間なのかを分かっていないんです。だから、このままじゃあ失敗をしてからじゃないと学べない、普通の人間になってしまう……そんなことが、許されると思いますか!?」

「江間……さん?」


何を言ってるんだこの人は。

分からないようで……でもよく考えれば少しだけなら分かる気もした。


――この人たちは、生きている世界は同じでも、感覚が僕らと全く違う。


この世のほとんどの人間は、自分達を養ってくれる絶対的な成功者を求めてるんだよ。社会人って言うのはそう言うものでしょ? と、僕は昔彼女から言われたことがある。

その時僕は返す言葉が見つからなかったけど、もしもあの時の彼女の話が事実だとするならば――


――この家の人たちは、一体全体どんな思いで亜矢香に仕えているのだろう?


「……失礼。貴方に言っても解らないかもしれませんね」

「……」


貴方も若いですし、と江間さんは付け足す。


「まあとにかく、あの子……お嬢様は今回、何も知らないまま『警察』としての職務を全うして頂きます。違うのは、後始末をするのが私たちであるというだけです」

「後始末?」

「解決と言っても良いかもしれませんね。早い話が、犯人の『制圧』です」


――ああ、やっと話が飲み込めた。


「つまり……僕やこの家に関わる人間に万が一危害が及んで、それを予見しながら想像していなかった彼女がショックを受ける前に、この家の人たちでカタをつけよう、と」


僕かこの家の人が襲われる前に自分達で犯人をどうにかしよう、と言う話。


「あら、思ったよりも大人ですね」

「まあ、言われてみればあいつは被害者まで気が回っていませんでしたからね……」


僕もだったけど、言われて気づいた。


「ですから近日中……少なくとも明日と明後日の二日間は来ないで頂けますか?」

「……まあ、そういうことなら」

「ご協力感謝します。では」

 

そう言って、江間さんは踵を返す。その時僕は一つ訊きたかったことを思い出したので、訊いてみることにした。


「あの、江間さん」

「はい、何ですか?」

「この三人に……見覚えってありますか?」


明らかに蛇足だとは分かっている。

僕が取りだしたのは、被害者三人の顔写真。この人たちは僕のクラスの人も一人混ざっているけど、顔が破壊されていてイメージと写真が結びつかない。愉快犯、と亜矢香は言ったけれど、本当なのだろうか。


「……何故そのような事を訊くのですか?」

「いや……その、想像なんですけどね?」

「?」


 江間さんが首をかしげる。けれど、彼女のそれは嘘かもしれない。というか僕は、彼女の話が一から十まで嘘じゃないかとすら思っている。だから――


「もしかしてこの人たち、亜矢香を引きこもりに追い込んだ人たちだったりとか……は、しませんよね?」


――言ってみた。

夕焼けに染まる世界で、プロファイリング通りに動くであろう犯人を待ち構えてこの家の人たちが動く。今更だけど僕らがいるのは彼等の死角だから、他人がこの話を聞くことはない。

そんな状況で、江間さんが返した言葉は、


「……仮にその妄想が事実だったとして、貴方はどうするおつもりですか?」


僕に対する、質問だった。質問を質問で返すな、とか言ってもよかったのかもしれないけれど、そんな力のない正しさが通用するわけもないだろう。


「もしかして、対馬様はお嬢様の味方ではないのですか? だとするのならば、私は……いえ、私どもは、貴方に対する認識を改めねばなりません」

「……どういうことですか?」

「あなたがもし、お嬢様に害を成した人間にすら同情するような人間なら、もしもその同情を足がかりにお嬢様を罪に問うことを平気で実行するような人間なら、私は、貴方を殺します」


――例えば、僕の想像が当たっていたとして。

――犯人は亜矢香で、この事件は復讐で、この家の人たちが協力者で、今のこの家の動きは犯人の確保じゃなく被害者への加害のためだとするならば。


江間さんの語る言葉の意味が、すべて狂う。


そんなことを想像……違う、嫌な予感という言葉でごまかした推理をしていたら、江間さんは殺す、と言ったその口で、


「……まあ、でもそんなことはありえませんけどね。貴方の想像は、杞憂です」


そう言って、笑った。


「だって……」

「?」


だって?


「引きこもりのお嬢様に、そんな行動力があると思いますか?」


……それ、言っていいのか?

確かに予想外に説得力あるけどさ、それって言っていいことなのか?


「……と、いうわけで、貴方の妄想は否定させて頂きます。……まあお嬢様があいつらにされたことを思えば無理もない夢想ですが、あの子にはそんな残酷なことは、できませんよ」


するべきでもありませんしね、と江間さんは続けて呟いた。


「……じゃあ、この人たちは?」

「確かに貴方の想像どおりです。けれど知ってますか? こいつらは未だに『その行為』を止めていなかったんですよ」

「……へぇ」


知らなかった。被害者は誰だろう。


「ですから、犯人は彼らを恨む我ら以外の誰かでしょう」

「……そうですか」


僕はそれを聞いて安心して、帰路に就く。送りましょうか、と江間さんは言ってくれたけど、断った。


……だって、以前それで酷い目にあったし。


 どこからどう見てもメイドさん(そんなに身長高くない)の過激な運転に小一時間つきあわされた揚句それなりに人通りの多い僕のマンションの前で恭しい一礼と挨拶をされて部屋に帰った僕が、次の日から近所の人たちにどんな噂を立てられたのか、少し常識のある人には分かってもらえると思う。


――まあそんなわけで。僕は、歩いて駅まで行くことにした。


× ×


電車の中で、僕は考える。吊皮を手にする僕の眼に映る外の景色は、まばらなベッドタウンの光だ。携帯を見ると妹からメールが来ていて、『今日遅くなるの?』とのこと。

あと少しで家に着くと思ったから返事はしないけど、時間的には六時近い。やっぱ連絡しとこうかな、と思った矢先、僕の家の最寄り駅に電車がついた。

降りた僕の頭に浮かんだのは明日からの夏休みの計画じゃなくて、それを(自業自得とはいえ)台無しにされる犯人のことだった。

犯人がどういう目に会うのかは分からないけど、それはどうでもいい話なのかもしれない。僕が江間さんに諭されるまで恐れていたのは見ず知らずの犯人に危害が及ぶことじゃなくて、亜矢香が犯人だということだ。


――そもそも、この国で千代原財閥に害をなしておいて一年間無事だっていうのが奇跡だ。


いじめというのは一種の完全犯罪みたいなものだから、責められはしても社会的な罰は受けないっていう可能性は確かに高いけど、その分個人的な制裁を食らう可能性は高まるのだ。獣の縄張に足を踏み入れた人間は、獣に噛みつかれて初めてその恐ろしさを知る様にできている。

犯人は、踏み入れた縄張りが悪すぎたんだろう。馬鹿だ。

気の毒に、と呟いて僕はマンションの玄関に入った。カードキーを機械に通せば、自動ドアが開く。


「……あれ?」


しかし僕のカードが認証されるより早く、扉の向こうから誰かが来た。


「…………」


しかしそいつは、僕に何も言わずに去っていく。僕の記憶が正しければ、クラスメートの一人のはずだ。あいつの家ってここの中にあるのか、と今更な事実に少し驚いたけど、それ以上に態度がおかしい。


僕が亜矢香のところに伝書鳩よろしくプリントとかを届けるようになって以来、クラスの人たちは同情と感謝と転校生っていう立場に対する優しさが混ざった微妙な態度で僕を見るからほとんどの人とは顔見知りで、休日とかに偶然逢っても挨拶くらいは男女問わずするんだけど、今の奴にはそれが許されるような普通の雰囲気がなかった。むしろ僕がカードを機械に通している間に僕の脇を通りたかったような印象すら受ける。

気になったので振り返ってそいつを見ると、その背には細長い、バットを入れる野球用の細いカバンがかけられていた。


 × ×


――さて、謎は結構残っているけど、解決はほど近いし犯人っぽい人も目の前にいる。仮に目の前の不審者が犯人じゃないにしても、彼女のプロファイリングと千代原家の人たちの人海戦術があるわけだから、僕が何もしなくとも事件は解決するだろう。

――けれど。


「な、何で……」


僕は今、犯人と対峙していた。もっというと犯人の手首を掴んでいた。

不審者がこんな所でバット入りのカバンを肩から下ろしたから、僕は物陰から飛び出して、手首を掴んだのである。


「えっと……どうしようかな」


端的に言って、僕は大いに混乱していた。

実際のところ僕が『彼女』を見つけてから尾行してきたはいいけれど、もしかして江間さんの時みたいな思い違いだったら死にたくなるなぁけれど明らかにバット担いだクラスメートが今日地図に赤丸をうった地点に向かえばさすがに僕だって行動は起こすべきだし、とか思っていた。

とはいえ今まさに現場を押さえられた犯人に対して、普通、どうすればいいんだろう。ドラマみたいに崖の上とかだったら早まるなって叫べばいいと思うけど、ここは亜矢香の家の塀の近くなのだった。


「……な、なんで……」犯人は言う。

「……ごめん、尾行して来た」


 目の前にはまだ何もしていないのに怯える犯人。フードをかぶって顔は見えないけど、とにかく対応にすごく困る。けれど右手を放して逃げられても嫌だし、ケータイを取ろうにも左胸の内側のポケットにあるから左腕じゃとれない。考えた結果、とりあえず僕は彼女がかぶっているサマーコートのフードを取ってみる。現れたのは、


「委員長……どうしてこんな所に」

「つ、対馬君……」


通称『委員長』。眼鏡をかけたいかにも図書委員か委員長ですって感じのその人が立っていた。僕とマンションが同じだったことは知らなかったが、そんなことはこの際関係ない。

雰囲気的に頭もよさそうだし(メガネをかけてるから余計そう見える)、他人に優しくする姿を何度も見たことがある。なのに、どうしてこんなことを。


「……何で?」


僕は、全て知っているように装って聞いてみた。すると彼女は小刻みに震えながらも、


「……わ、私じゃないの……」


そう、言った。しかしさすがに信じるわけにもいかず、もう少し問い詰める。


「私じゃない、って……」

「わ、解ってる、こんなところにこんな時間にいたら、お、おかしいって思うよね? で、でも、これは違うの……」

「……?」


彼女の言っている言葉の意味がわからない。すると、静かな農道にまた足音が聞こえ始めて、道の向こうから携帯電話のディスプレイの光が近付いて来る。誰だろう?


「お、お願い、逃げないから隠れてて……」

「隠れてろってどこに」

「そ、そっち!」

「え」


落ちた。正確には突き落とされた。

この農道の脇は坂になっていて、水を引くための小さい水路を挟んで向こう側が畑か田んぼになっている。僕が落とされたのはその坂の上からで、落ちた先は水路の奥の土の上。

普通だったら怒鳴るところだけど、


「……ねえ、こんなところに呼び出して、何の用なの?」


 どこか聞き覚えのある声が上から聞こえて、僕は黙った。


「あ、あかねちゃん……」


あかねちゃんと呼ばれたその女子生徒は確か、クラスメイトだ。街灯の逆光でよく見えないけれど、確かそんなに素行の良くない、授業中に平気で化粧とかするような奴だったと思う。


「……アンタさぁ、前から思ってたんだけど何があったワケ?」


『あかねちゃん』はイヤホンを外し、言った。僕のことがバレていないのは音楽を聴いていたかららしい。

「前はさぁ、もっと面白かったじゃん。私らとつるんでさあ。……もしかして、アヤカの奴のこととか気にしてるわけ?」

「え……そ、その……」


……っ。


僕は自分で自分の口を押さえていた。あの二人が、西と東、白と黒、ヒツジと狼ってくらい正反対なあの二人が去年は友達!? っていう事実にびっくりだ。委員長の過去は僕なんかには今更想像つかない。

……それにしても、委員長はあんなのを呼び出して何がしたいんだろう?

嫌な予感しかしない。


「別にいーじゃんあんなの」

「あ、で、でもその……」

「……何なの? そろそろキモいんだけど」

「お、お願い、謝って!」

「……はぁ? 誰に?」

「あ、あやかちゃんに……」

「……へぇ」


太陽は完全に沈んでいて、頭上には星空。街灯の下で二人の少女が対峙している。

眼鏡におさげ髪、優等生の典型例みたいな委員長と渋谷とかにいそうな不良金髪少女、二人の雰囲気は正反対で、表情からは優位に立っているのは明らかに金髪……あかねの方だとわかる。僕が分からないのは、どうして委員長の足がさっきから震えっぱなしなのかということだ。


「ね、お願い!」

「……そっかぁ。だからこんなところに連れて来たんだ?」

「う、うん……」

「……みぞれぇ」

「え、な、なぁに?」


あ、委員長ってそんな名前だったんだ。


「……アンタ馬鹿でしょ」

「え?」


……聞こえてきたのは、数台のバイク音だった。その音がだんだんと近づいて、いつしかそいつらが姿を現す。


気づけば、三人とも(たぶん僕は気づかれてないけど)囲まれていた。


「え、な、何……?」

「『え、な、何……?』って何ソレ! マジウケルんだけどぉ! ……この状況で、こいつらがヤりたいことって一つじゃない?」


あ、普通にやばい。


「おいアカネえ! こいつか?」

「ちょっと待っててよ、もう少ししたらこいつ好きにしていいからさ」


フルフェイスヘルメットをかぶった男たちがその言葉で一斉に盛り上がる。この状況で、僕が完全に蚊帳の外なのは助かるけど、かといってこの状況で警察を呼んでも間に合うはずがないのは見てわかる。


「……よっと」


――だから、


「……?」


僕は膠着状態がまた続くうちに、坂を上って姿を現した。


背後の委員長以外、ぽかん、とした顔をしている、と思う。なにしろ僕も含めてこの状況は完全に予想外だし。


「……あれ、アンタ対馬じゃん」

「どーも。赤池さんだっけ? こんなところで何やってんの?」

「……はぁ? 何いってんのアンタ。見りゃわかるでしょ。これからそこの女を……」


会話しながら、ポケットの中でスマホをいじる。


「……あのさ、やめた方がいいと思うよ?」

「はぁ? アンタ、何言ってんの?」


通話、開始。電波を飛ばす先は、江間さんだ。あの人が統率しているSPの人たちは、おそらく今もこの近くに……あれ?


――ちょっと待て。


「…………」

「おい、聞いてんだろ!」


目の前でアカネちゃんが叫ぶが、無視した。

どうしてこんな奴らが近所に来たのに、あの人たちはここに来ないんだ?

いつもならタダじゃ済まないはずなんだけど……と思いつつ、とりあえず江間さんに電話だけしてみた。


――♪


そして、音楽が鳴る。全員が音のした方、僕と委員長の背後、バイクが三台くらい停まっているはずのそっちを向いた。


――♪ ♪


音楽は止まない。バイクのエンジン音をかき消すボリュームで、デスメタルらしき着メロが大音量で鳴り響いていた。


「……はいもしもし江間です」


すでに、スマホを使う意味がなかった。

なにせ、すでにこの場所に江間さんは来ていたのだから。


「……ただいま誠に申し訳ございませんが取り込み中ですので十分程後にかけなおしてください。ちなみに仕事中だというのに電源を切っていなかったことはご内密に願います」


ピ、と音を立てて通話を切る江間さん。街灯の光の向こうから現れたその人はやっぱりメイド服を着ていて、ついでにバットを持っていた。


「な、何だてめえ!」


バイクに乗った男が問う。


「メイドですけど」


メイドが答える。


そして赤茶けたそれを正しく、つまりボールを待ち構える打者のように構えて、並ぶバイクをボールに見立ててフルスイング。

バガン! と音がして、人間ごとバイクが吹っ飛んだ。囲いが破壊されて、江間さんは悠々とその中に入ってくる。

荷台と二人が下に落ちて、一人と一台がガードレールもない農道の隅に倒れこんだ。


「ぎゃああああああああああああああ!」


そして男は叫ぶ叫ぶ。


「……ご苦労様です、みぞれ様……と、おや、対馬さまもご一緒でしたか」

「ああああああああああああっ、あ、ああっ、折れた、折れたぁっ!」

「いろいろ言いたいこともあるでしょうし聞きたいことも多分にありますがもしも浮気だったら死、あるのみということで。ですがここはひとまず……」

「お、おい手前エ!」

「五月蠅いですよ」


……また、音がした。

江間さんが詰め寄ってきた男のヘルメットをバットで殴打した音。そして今度は、誰も叫ばない。


「――――」


男は死にかけの虫ケラみたいに小刻みに動くだけだった。ヘルメットがなければあの世行きだったのは見てわかる。


「……ご苦労様ですみぞれ様。一部始終を盗聴いたしましたので無駄な説明も弁解も結構ですのでそのつもりで。さて……」


……一体、何の冗談なんだろう。


ついさっきまで大ピンチだった状況は江間さん一人がひっくり返して、言った。


「お嬢様をあんな風にした実行犯は、この女で最後ですか?」

「…………は…………はい…………」

「そうですか。今までご苦労様でした」


その言葉で、僕もすべてを理解した。


「え……江間さん!」

「……何ですか? 仕事中なので後にしていただきたいのですが」

「ふざけんな! アンタ自分が何やってるか解ってんのか!?」

「ええ、無論です」


一息おいて、江間さんは言った。


「……私は、そこの天原 みぞれさんに協力していただいて、お嬢様の敵を呼び出し、個人的に復讐しておりました。……それが、何か?」

「何か、ってそんなの……」

「犯罪ですね。普通なら」


だから? と言いたげな江間さん。その目はあの時見たままで、冷たさすら感じるくらい固い決意に満ちている。


「……しかし、対馬様なら解っていただけると思ったのですが……」

「解るかよ! いくらなんでもあれはやりすぎだろ!」


思い出すのは、三枚の写真。見るも無残な顔写真は亜矢香の敵だということを差し引いても非道過ぎた。ところが、


「……あのですね、どうも誤解があるようなので言っておきますが、私、何の罪も犯していませんよ?」


江間さんが意外なことを言った。


「……は?」

「だって……正当防衛じゃないですか、これ」

「…………?」

「さっきの会話を聞く限り、婦女暴行未遂だと思いませんか?」

「…………あ!」


この状況、確かに江間さんが圧倒的に勝ってるけど、例えばこれが警察の知るところになったとしても、せいぜい過剰防衛の罪にしかならない。警察情報を僕に持ってこさせるくらい癒着している警察が、その程度で江間さんたちを罪に問うとは思えなかった。


「……最後に、一ついいですか?」

「後にしてください。逃げられますので」


――無視されて、制圧が始まった。

ものの十分程度で残りの奴らは畑や田んぼ、もしくは用水路に叩き落とされて、残ったのは僕と江間さんと委員長と――あかね一人になっていた。


「あ、ああ、やめ、やめて、ごめんなさい、ごめんなさい……」


すっかりおびえて、もう彼女にさっきの威勢はない。多分、十分反省しただろう。


「……その台詞、一年前のお嬢様に言ってください。それができるなら許しますよ」

「え……そ、そんな……」

江間さんは、あくまで無表情なのだろう。

「――無理でしょう? つまり、あなた達は取り返しのつかないことをやったんですよ……みぞれさん、持ってきていますか?」

「は、はい……」


言って、委員長がとりだしたのは、百均とかで売ってるプラスチック製のバット。丈夫そうではあるけど、所詮プラスチックだ。


「……覚悟は、いいですか?」

「あ、やだ、やだ、やめて、やめてよぉ、お願い、お願いします……」

「……だから、その台詞……一年遅いんですって、ば!」


そして上段に構えたバットが振り下ろされて、がん、と、バットと骨が音を立てる。


「……何のつもりですか? 対馬様」


――マジで痛い。

 

細身の江間さんのどこにこの力があるんだ、って威力のプラスチックバットは、僕の左腕が止めていた。そのせいで折れたけど、まあこの際仕方ない。


「もういいでしょう。こいつももう、十分反省してますよ」

「……言いましたよね? 貴方がお嬢様の味方でないなら……」


多分この人はそんな言い方するんだろうなってのは解っていたけど、流石にもう、怒ってもいいよな?


「ふざけんな! 僕は亜矢香の味方であってお前の味方じゃないんだよ!」

「!」


 この時、初めて江間さんの表情が変わる。

今までの余裕とかがベースになったそれじゃなくて、明らかな動揺だった。


「アンタ達がどんな完全犯罪やらかそうと興味ないけどな! こんなことしたら明らかに亜矢香が悲しむって分んねえのかよ!」

「お、お嬢様は関係ない!」

「知ってるよ! あってたまるか! 僕が言ってんのはアンタが亜矢香の敵打ちをしたってバレたらどうすんだって話だ! アンタ、今やってることを亜矢香に胸張って言えんのか!? 言えるわけねえだろ! だったらこれからどうやってあいつと接する気だ! こっそり敵打ちしてヒーロー気取りかこのバカメイド!」

「…………っ!」


流石に今の言葉は効いたらしく、江間さんの動きが止まる。


「これ以上あいつを悲しませる気なら、俺はあいつに一部始終全部ばらすぞ! それでもいいのかよ!」

「……わ、解りました……もうしませんから、お嬢様には言わないでください……」

「了解。なら口止め料ってことで今から十五秒黙ってろ!」

「は、はい……」


と、いうわけで。


「あ、有り難う……」


助けたあかねは、安心したのかへたり込んだまま表情を緩めて、笑う。多分背後で委員長もそれなりに安心していると思う。


「…………」あと八秒くらいかな。


僕は薄笑いを浮かべるあかねのその姿をじっと見つめて、いろいろ考えた挙句、やっぱり最低なのかと悩みつつ、迷う。


「…………な、何?」


顔を赤らめる、目の前の女。

僕は、一言ごめん、と言おうとして、やっぱりやめて、軸足を右に選んで――


「そもそもお前らが悪いんだろうがぁあああああああああああああああああああ!」


――体重をかけた回し蹴りをその体に叩きこんだ。転がって、ぼちゃん、と下の用水路に落ちる。


 ……死なせない程度に僕ができる、精一杯の復讐のつもりだった。


 × ×


――で、後日。

あの後テレビとか新聞を見る限り、この町を騒がせた通り魔は捕まっていないし、被害者も三人から更新されることなく、夏休みも一週間ほどが過ぎようとしていた。

そんな折、どこからか腕の骨折を聞きつけた亜矢香に呼ばれて僕は彼女の家に来ている。


「……ねー、海行こうよ海」

「やだよ。明らかに僕まだ泳げないし」

「いいじゃない私の水着が見れるだけでも」

「そういうことを言わないでください」


そして、今日も今日とて僕は彼女の家に遊びに来ている。二十六度に保たれたこの家は本当に快適だけど、いかんせん彼女の扱いにはまだ慣れない。


「じゃあ山行こうよ山。私の登山スタイルが見れるよ? 登山ブーツとか履いてさ」

「……流石にその誘いは想定外だったよ……」


というか、本当にこいつはひきこもりなんだろうか? ここ最近の電話とかの言動からすると、むしろぼくより出かけたがっている。夏休みに入る前、もとい僕が骨折する前はそんなそぶりの欠片もなかったくせに、なんという天の邪鬼。

 ――まあ、ひきこもられるよりは百倍うれしいけれどさ。


「……そういえば今日、江間さんは?」

「ん、なんか有給がほしいって言うからあげた。あの人、そういうのあまり使ってない人だし珍しいなって思ったんだけど……というか、彼女の家でほかの女の話する? 普通」

「……いや、あの人ってこの家の人だろ? 家族みたいなもんじゃないの?」

「オンナノコは難しいのですよ。……あ、もしかして葉月くんってメイド好き? 今度そんな格好してあげようか?」

「ちょっとまて何でそうなった!?」


亜矢香の思考回路は夏休みに入ってから変な方向にシフトチェンジしつつ絶好調らしい。飛躍しすぎててついていけない。

……でも、亜矢香のメイド姿か……


「……あれ、今私があられもない格好をしていた予感。もー、しょうがないなー、葉月君たらメイド萌えなんだからー」

「何その欠点みたいな言い方! 第一僕はメイド萌えとかじゃないからね!」

「え、じゃあ何?」

「え、えっと……亜矢香だ! そう、亜矢香萌えだ! 亜矢香一筋だから間違ってない!」

「――――」

「……え?」


 ……あ、亜矢香の顔がすげぇ赤い。


「ちょ、ちょっともう、やめてよぉ、べ、別にうれしくなんかないんだからね!」

「あ、そう」

「うわあツンデレが通じない!」


 そんな風にふざけながら、今日も一日が過ぎていく。江間さんが有休をとった理由はなんとなくわかる気もするけど、それは僕らに関係ない話だ。

 そう思っていたら唐突に、亜矢香が言う。


「……ねえ、そういえば登校日っていつ?」

「確か、十日だったかな……え?」


 驚いて、僕は彼女の方を見る。少し戸惑いながらも、彼女は本気のようだった。

「……大丈夫?」

「わかんない。けど、やっぱり行きたくなっちゃって」

「……そっか」

「うん」

かくして、小さな隠し事を間に挟んで夏休みが始まった。もしかしたら彼女はすべて知っているんじゃないかって思ったこともあるけど、それはないと思いたい。僕の骨折は階段から落ちたことになってるし、江間さんがその嘘に付き合ってくれているからバレることはないだろう。


「……夏だね」


ふいに彼女はそう言って、窓を開ける。

冷気が逃げるのも構わず、青空と蝉の声を背景にした彼女は、家の中にこもるよりもはるかに魅力的で、僕は一瞬見惚れたけれど、それを悟られるより早く僕は、


「そうだね」


と、言った。


――願わくば、この嘘が永遠に暴かれませんように。


               終わり

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クーラーの効いた部屋で彼女は ほひほひ人形 @syouyuwars

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