家に入った。「まだ、帰ってきてないね。」と肇が言う。父はまだ帰っていないらしく中は薄暗かった。リビングとダイニングの電気を点けると暖色のライトが家の九割を明るくする。

 「肇、今からお風呂沸かすから、沸いたら先に入って。」と私は肇に伝えると、「はーい。」と間延びした返事を返した。

 肇は今日借りてきた『夏の虫図鑑』を開く。その虫達の姿を見ると寒気がする。やはり私は虫は生理的に拒絶をしているのだなと理解することにした。

 肇に本を閉じてとは言えないため私はその本から背を向け、先程言った石崎くんの言葉を整理することにした。

 先程まで話の中に登場していた『兄』とは石崎くん本人であり、この家は元々『石崎家』の家だったということになる。そして、この家で石崎くんの家族は殺された。『丁度一年前の夏に強盗が入った。』と石崎くんは言っていた。彼が登校しなくなったのも丁度一年前の夏。辻褄が合う。そして、石崎くんは言っていた『大切な人ができた。』とその大切な人とは私のこと。混乱はするが、確かに石崎くんはそう言った。体が強張るのが分かる。何故ならあんな過去を背負った石崎くんと比べたら温いくらいの日常を過ごした私が釣り合うはずがない。

 私はソファーの中で頭を抱えてみた。でも、混乱するばかりだ。

 「お姉ちゃん、何してるの?」と肇の声が聞こえた。私は顔を上げると、そこには髪の毛が濡れた肇がいた。「いつの間にお風呂に入ったの?」と私は肇に訊くと「お姉ちゃんが虫の図鑑を見ないようにしてから直ぐだよ。」と無邪気な声で言った。小学校低学年にしてはかなり利口だな、と思った。

 「お姉ちゃん、さっきから何悩んでるの?」と肇は私に訊いた。

 「別になんでも無いよ。」と私は肇に嘘をつく。

 「あの、お兄ちゃんとお姉ちゃんなら大丈夫だよ。」と肇は言った。お兄ちゃんとはきっと石崎くんのことだろう。

 でも、そんな風には思えなかった。

 すると、肇は私のことを抱きしめた。「お姉ちゃんは誰にでも優しいから大丈夫だよ。」と肇はそう言った。肇はその小さな体躯で私を包んだ。なんだかホッとする。濡れた髪が頬に当たり少し冷たいが、そんなことはどうでも良くなった。

 「ありがとう、肇。」と私は肇に感謝をした。「どういたしまして。」と肇は幼い声で私に返す。

 「じゃあ、お風呂入ってくるね。」と言い、肇の腕を解いた。

 「いってらしゃい。」と肇は私に言った。

 その日の夜は久しぶりにぐっすり眠れた。 


 次の日、私はいつものように学校へ向かった。隣の家からは石崎くんは出てこなかった。今日は休みか、と思うことにした。

 教室に入ると冷房がついていて、少し涼しかった。「おはよー」と陽子が私に声を掛ける。「おはよう。」と私も陽子に声をかけ返す。朝の支度を終え、石崎くんの席を見ることにした。それは石崎くんが何故学校に来ないかなどは関係なく石崎くんはどのような人間なのか知りたいからだ。

 「ねぇ小夏、ほんとに好きじゃないの?」と陽子は割と本気で訊ねた。

 いつも通り、違うよ。と答えるのも気が引けたので。「どうかなぁ。」と曖昧にしてみると「え、本当にそうなの?」と陽子は動揺した。その姿が少し面白く、私はつい吹き出してしまった。「なんで笑うのさ。」と陽子は少々怒っている。やりすぎたかな。と私は思った。

 すると、私の横から見慣れた背丈の男子が通り過ぎた。石崎くんだ。

 彼は黙々と朝の準備をする。私は石崎くんの席を見ている。石崎くんが鞄をロッカーに入れようとこちらに向かってくる途中目が合った。

 そして「おはよ。」と石崎くんが言った。

 「おはよう。」と私も言った。

 その光景に陽子は戸惑っていた。

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