図書館と弟
結局、あの家に引っ越すことになった。
正直私の一存で引っ越して良かったのか。そして引っ越したことにより災いのような類いは起こらないのか不安になったのも事実であり、この家に引っ越したいと思った理由を打ち明けられないのも事実である。
それでも私は新しい家の中にいる。
肇と父は中庭で遊んでいる。母は病院に入院している。
私はリビングのソファーで寝そべっている。そこで私は図書館に行こうと決断した。そう思い立つと引き違い戸から父と肇が登場した。
「ねぇ、図書館に行ってきていい?」と私は父に言うと「別に構わないけど、お父さんこれからお母さんの着替えを持っていくから肇も連れてってくれるかい?」と条件付きで返してきた。
特に問題はない為、私は肇と図書館に行くことにした。
肇はというとそこまでノリ気ではなくお父さんと遊んでいたほうが楽しいと言いたげな表情をしていた。
それでも肇は私についてくるという選択肢を選んだのだから私は帰りにアイスでも買ってあげようか考えた。
靴を履き、外に出ると夏の湿った空気が私を包んだ。汗も少し掻き始めたが気持悪いとは感じず、寧ろ夏を誰よりも感じていると思うほどだった。ついでに隣の家、詰まり石崎くんの家を覗いた。するとその表札には『田中』と書いてあった。私は少々混乱した。
え?石崎くんって離婚が原因で学校に、と思うと私は彼のことを探ったり考えたりしてはいけない立場ではないのかと思った。私は歩みを進めた。
すると「お姉ちゃん、待ってよ。」と後ろの方から幼い肇の声がした。大分置いていってしまった。と私は小さな後悔をした。
肇はその短い足を忙しなく動かし私に追いついた。両親から『肇を連れて行く時は必ず小夏が車道側に立ちなさい。』とそう言われている為、その通りにして歩いた。そんなことも知らない小学二年生の肇は心地よさそうに鼻歌を歌っている。
事故も事件も起きることは無く、私達は難なく図書館にたどり着いた。
中に入ると冷房の効いた人工的な涼しさが掻いていた汗を攫う。これもまた夏を感じていると私は思った。
図書館に来た理由は実のところ特に無く、もしかしたら石崎くんに会えるかも。と淡い期待を抱いたのは汗が一滴も無くなった時である。
「お姉ちゃん、これ借りていい?」と肇が一冊の本を私に向けて掲げた。それは『夏の虫図鑑』というもので表紙にはカブトムシが大きくプリントされていた。私は虫が好きではない為、早くその表紙を下ろしてほしかった。その本が約一週間家にあると身の毛がよだちそうだが、そんな不埒なことを考えても意味がないと思い、私はその本を借りることにした。
本を借りてもらった肇はルンルンだった。私はそんな弟を少し羨ましくも可愛くも見えた。こんな弟がこれからどんな人になって、どんなことを考えるのか想像を膨らますのも楽しいものだなと思った。
私は特に図書館での用事は無い為、家に帰ることにした。
図書館を出るとまたあの空気が私を包んだ。肇はまだ図書館の中にいる。「肇、帰るよー」と私は声を掛けると、「へー、あの子『はじめくん』って言うんだ。」と聞き覚えのある低い声が私の鼓膜を揺らした。
そう、その声は石崎くんの声だった。
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