二章『穏やかな日常とその終わり』

1、有能お兄さん



 お兄さんと一緒に暮らし始めて一か月が経とうとしていた。

 正直なところ、一か月もすれば魔女の扱いにくさに辟易して出ていくと告げられるか、性格の不一致による魂の陰りで契約破棄になるものと思っていたのだけど。まったくそんな事はなく、むしろ快適すぎて毎日がとんでもなく過ごしやすい。


 なんという誤算。どうしてこうなった。


 飄々とした見た目に反して炊事、洗濯、お掃除、すべてが最高水準。それに加えて補給物資の荷運びも毎回「俺が行ってくるよ」と言って、どんな重たいものでも軽々運び入れてくれる。ずるい。有能すぎる。ギャップの鬼ですか。


 頼むまでもなく自ら率先して動き、そのくせ私が嫌だと思うことは一切しない。安心して何でも任せられるおかげで自由時間がもの凄く増えた。さすがに服とかは自分で洗っているけど、それ以外の家事をすべてお兄さんがやってくれている。

 お兄さんが出ていく時、引き止めたくなったらどうしよう――なんて、別の不安が頭をよぎるほどだ。おかしい。こんなはずじゃなかったのに。


 リビングのソファにごろりと寝転んで顔を覆う。

 魔女の魂の陰りを教えてくれるウィッチドロップ。この花は生命力がとても強く、水さえ与えていれば花瓶に刺したままでも半年は生き続ける。念のためにと家の至るところに設置したその花は、今日も変わらずぽふ、と真っ白な光を吐き出していた。

 心なしか一人で引きこもっていた頃より光が綺麗な気がする。



「これはやっぱり、楽しいってこと、なのかな……」


「なにが?」



 昇っていくウィッチドロップの光を目で追っていくと、ソファの後ろからひょっこり顔を出したお兄さんと目が合った。



「ひゃあ! お兄さん!?」


「リディアちゃんがソファで寝転ぶなんて珍しいね。お疲れかな? まあ、さっきまで調薬室に籠ってたもんね。あんまり根詰め過ぎちゃだめだよ?」



 調薬室とは魔女のための部屋の事だ。

 呼びにくいうえに使用用途が薬の調合なのでお兄さんが勝手にそう名付けた。部屋の名前にこだわりはないから、私もならって調薬室と呼んでいる。



「大丈夫です。おかげで随分楽できてますから」


「お。恋人冥利に尽きるねぇ」


「もう、お兄さんってば」



 私は起き上がり、ソファの片側を空けた。そこへお兄さんが腰を下ろす。彼は白のタートルネックに黒のスラックスというラフな格好の上に、シックな灰色のエプロンを身に付けていた。

 最初の頃は裾にフリルのついたベージュピンクの可愛いエプロンを「借りるね」と言って使っていたのだが、私が駄目な扉を開けてしまいそうだったので懇願して男性用のエプロンを調達してきてもらったのだ。


 超絶美形高身長お兄さんの可愛いエプロン姿。変な癖が開花したらどうしてくれるんですか。ただでさえギャップに弱いのに。格好良くて可愛いとか。色んな意味で駄目だ。

 服のセンスは悪くないはずなのに、どうして私のエプロンを使おうと思ったのだろう。使えれば何でもいい精神なのか。なまじ顔が良いせいで大惨事にならないのがずるいと思う。



「はい、紅茶とお菓子の差し入れ。おやつタイムにしよっか」



 手に持ったトレーからティーカップとケーキが乗ったお皿をテーブルの上に移動させていくお兄さん。今日はアップルパイらしい。私は「ありがとうございます!」と言ってフォークとお皿を手に取った。



「ん~~っ! 美味しい!」



 こんがりきつね色に焼けた軽いパイ生地に、しゃりしゃり食感が残ったほどよい酸味と優しい甘さの林檎。とろっとろのカスタードクリームがまた絶妙なコントラストを奏でている。こんな美味しいものがこの世にあったとは。お兄さんに出会わなければ一生知らないままだった。



「リディアちゃんはなんでも美味しいって食べてくれるから作り甲斐があるねぇ」


「だってこんなに美味しいお菓子とかご飯とか初めて食べましたもん! お兄さん、どこかでお料理の勉強してたんですか? プロ?」


「大袈裟だなぁ。普通に家庭料理レベルだって。でも嬉しいよ。ありがとね」



 これが、家庭料理。

 私はお皿を持ち上げて、食べかけのアップルパイをまじまじと観察する。見た目も味も非の打ちどころがないくらい完璧な気がするのだけれど。一般の家庭はこれが普通に出てくるのか。凄いな。


 今考えれば、教会での食事は本当に最低限だった。

 大味の癖に薄くってほぼ素材と塩味。スープも白湯に近かった。あの頃はこれが普通の料理だと思っていたが、自分で作りはじめて教会の料理は不味かったんだとようやく気が付いた。

 出汁をとったり調味料を工夫するだけで、同じ料理でもまったく別物になる。私ってばもしかして料理の天才では。とか、少し自惚れていた時期もあった。

 でもお兄さんの料理を食べて分かった。

 あれはわざと不味く作っていたのだ。


 こんな美味しい料理を食べ続けていたら、自分の作るものでは絶対に満足できなかったと思う。本当に美味しいものを知らなければ、そこそこの味でも満ち足りる。この美味しさも魔女にとっては不要な知識なのだろう。

 食べ終わったお皿をテーブルに置き、お兄さんに向き直る。



「あの……よかったら、またお料理教えてくださいね?」


「なになに、俺に作ってあげたくなっちゃった? それとも一緒にお料理したいとか? 嬉しいなぁ。お兄さん感激!」


「た、確かに、お兄さんばかりに家事を押し付けて申し訳ないとは思っていますし、私もお手伝い出来たらとも思っていますが、それだけじゃ、なくて……」



 お兄さんとさよならする未来を想像して、自然と顔が下を向く。

 分かっている。彼に依存し過ぎてはいけない。お兄さんは追手から逃げるために魔女の結界を利用しているだけ。ほとぼりが冷めたら出ていくだろう。数カ月先か、一年後くらいになるのか。お兄さんの都合で出ていってもらって構わないけれど、それまでにせめて彼の作るご飯に近づける努力はしておかないと。



「リディアちゃん?」


「お兄さんがいなくなった後でも、ちゃんと美味しいって思えるご飯を作って、満足できるようにしておかなきゃいけないじゃないですか。……どんな些細なことでも、魂が曇る要員を残しておきたくはない、ですし」



 とりあえず朝昼晩のうちどれか一食から、という形で初めてみるのが無難だろうか。小鴨のようにずっと後ろに張り付いていたらさすがに邪魔だものね。お兄さんの迷惑にならない日時を考えて――と顔を上げた瞬間、右手を掴まれた。

 驚く間もなく引き寄せられた手の甲に、お兄さんの唇が落ちてくる。柔らかいけれど少しカサついた感触。温かなそれが離れていく同時に、澄んだ紺碧の瞳が私を映す。

 腹立たしいくらいに心臓が跳ねた。



「いなくならないよ。恋人だもん。ずっと傍にいるよ」


「――ッ、い、今そういうのはいいんです。真面目に聞いてください!」


「やだな。大真面目だよ、俺。リディアちゃんがいいよって言ってくれるなら、ずっと傍にいるつもりだし。それにここでの生活、結構気に入ってるんだよね。だからもっと甘えて、頼ってくれていいよ?」



 やはりお兄さんはズルい人だ。私が欲しい言葉を的確に言い当ててくる。だからこそ信用してはいけない。こんなものはただのおべっかだ。ユーリーン王子と同じく、平然と嘘をつくタイプなのは分かっている。

 私はぱっと彼の手を振り払って顔をそむけた。



「でも、恋人って言うより家政婦さんですよね」


「そ、そういこと言っちゃう? 確かに俺もそう思うけど!」



 お兄さんはエプロンを剥ぎ取って、脱力したようにソファの背もたれに身体を預けた。



「まぁ実際、昔住み込みで家事手伝いの真似事させられてたから、こういうのは得意なんだけどね」


「そんなお仕事もしてたんですか?」


「違う違う。本来の仕事内容は護衛だよ。でも家主があまりにもぐーたらでゴミ屋敷になりかけてたから仕方なくね。それに比べたらここは天国。作ったご飯を美味しいって言ってくれるし、片付けた傍から荒らしていかないし、服は脱ぎ散らかさないし」


「最低限ですよ、それ」



 盛大なため息を吐いてソファに沈み込んでいくお兄さんの様子を見るに、作り話ではなさそうだ。だとすれば随分生活力に難ありな人物に雇われていた時期があるらしい。家事手伝いの仕事は依頼に含まれていないと思うんだけど、お兄さんもなかなかお人よしというか、面倒見のいい人というか。

 そういえば、今までどんな生き方をしてきたのか聞いた事がないな。

 危険と隣り合わせな仕事ばかりだと勝手に思い込んでいたが、違うのだろうか。



「ま、とにかく、リディアちゃんが料理教えてほしいって言うなら俺は恋人として誠心誠意可愛らしいお願いに応えようと思うよ」


「まったく、お兄さんはほんと……」


「だって恋人でしょ? それとも可愛らしいっていうのが嫌だった?」


「そうではありません。ただ……優しい人、ですよね」



 面と向かって言い切るには気恥ずかしさが勝ったので、紅茶を飲んで誤魔化す。どうせ「そうそう、俺ってば超優しいんだよねぇ!」とか、調子に乗ってからかってくるに決まっている。しかし暫く待ってもお兄さんの反応はなかった。

 どうしたのだろう。

 ティーカップを置いて視線だけを動かす。その瞬間、肩に手を回されてお兄さんの分厚い胸板に押し付けられた。ちょっと息苦しい。抜け出そうともがいてみるが、離してはくれなかった。まるで表情を見られたくないみたいだ。



「そんなこと言ってくれるの、リディアちゃんくらいだよ」



 呟くように落ちてきた声は優しくて、どこか悲しい声をしていた。

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