2、食べたいもの
普段ならばどんな手を使ってでも逃げ出すのだが、今日だけはそんな気分になれなかった。それにお兄さんの体温は嫌いじゃない。大きくて、温かくて、安心する。
しばらくの間、動けずに固まっていると「ごめんごめん」の声と同時にぱっと身体が軽くなった。見上げれば、いつも通り飄々とした笑みを浮かべたお兄さんがいた。
「いやぁ、リディアちゃんがあんまりにも可愛い事を言うから、ぎゅってしちゃった。苦しくなかった?」
「……大丈夫です」
お兄さんの言葉はきっと嘘だ。分かっている。けれどわざわざそれを指摘するほど不作法ではない。言いたくないのならそれでいい。無理やり口を割らせる趣味もない。彼にだって何か事情があるのだろう。ならば気付かぬふりが一番だ。
ソファに座り直して紅茶に手を伸ばす。すると一枚の紙を差し出された。
「はい、食材メモ。渡しておくね。とりあえずこれくらい頼んでもらったらいいかな。リディアちゃんは他に欲しいものとかある? 何か作りたい料理があったら希望を聞くよ?」
「ありがとうございます」
受け取って文字の羅列を目で追う。
食事のことはすべてお任せしているから好きなものを頼んでくれていいのだけど、いつも律儀に確認をとってくれる。本当、気遣い屋さんだ。彼が優しくないのなら一体誰が優しいと言うのだろう。世界中殆ど人が優しくない人になってしまう。
私は首を横に振るとメモを折りたたんでポケットに仕舞った。
「特に希望はありません。お兄さんの料理は何だって美味しいです。あとで書きに行ってきますね」
筆跡の問題があるので注文票を書きに行くのは私の仕事だ。必要な日用品などがあれば小屋で直接付け足している。今は消耗品のストックも問題なかったはず。足すものはないかな。
「……ねぇ、リディアちゃん。何か食べたいものとかある?」
「食べたいもの?」
「そう。さっきのお詫びじゃないけどさ。なんか今、リディアちゃんのお願いに応えてあげたい気分なんだよね。今ならメモにちょっと付け足せば食材は確保できるし。ね? お願いしてよ。お兄さん何でもリクエストに応えちゃうよ!」
彼は自信満々に胸を叩いた。
何でもとはどういうことだろう。まさかすべてのレシピが頭に入っている――わけはないよね、さすがに。でも知らない料理をお願いしたら徹底的に調理方法を調べ上げ、完璧な料理を出してくれそうな気がする。お兄さんは変なところで凝り性だ。
どうしよう。あまり我が儘は言いたくないのだけど、彼の提案は喉から手が出るほどの誘惑があった。
考えるふりをしてお兄さんに視線をやる。
「いいよ。何でも言って」
彼は私の思惑など当然見透かしているような顔で、にこりと笑った。
甘えてみてもいいのかな。
「えっと、じゃあ、あの、お肉の……丸めて焼くような……えーっと……」
「ハンバーグ?」
「そんな名前だったと思います!」
魔女に届けられる肉は日持ちのする乾燥肉がほとんどだ。生のお肉を焼いた料理なんて食べたことがなかった。味の記憶がないのなら心が欲する事もない。けれどある日、お兄さんがちょっと狩りに行ってくると言ってお肉を調達してきたのだ。
そして作ってくれたのがハンバーグだった。
あの衝撃はいまだに忘れられない。熱々のお肉からじゅわりと肉汁が溢れだして、噛めばほろほろと崩れて消えていく。もはや飲み物ではと思ったほどだ。コクのあるデミグラスソースとお肉の甘さで口の中が一瞬にして楽園へと早変わりする。
私にはお兄さんのようなサバイバル技術は身に付けられないから、彼が傍にいてくれるうちに飽きるほど食べておきたい。味を思い出すだけでこくりと喉が鳴ってしまう。
「はは、テンション上がったねぇ。そんなに気に入ってくれてたんだ? おっけー、任せてよ。美味しいハンバーグ作ってあげる!」
お兄さんは立ちあがって、ぱちんとウインクを決めた。
「それじゃあちょこっと狩にでかけてくるね」
「あ、お兄さん。分かっていると思いますが」
「うん。神秘的な鹿さんだっけ? それは狩っちゃ駄目なんでしょ? 大丈夫。覚えているよ。でも、何度か森に入っているけどそんなの見かけたことないなぁ。本当に見たらわかるの?」
私は力強く頷いた。
半年に一度くらい、ウィッチドロップの花畑付近で見かける不思議な鹿さん。一目見ただけで神々しさが伝わってきて、傷つけては駄目な存在だと分かる。森の守り神が存在するとしたら、多分ああいう姿をしているのだと思う。
「俺は鹿嫌いなんだけど。あの角がね。でも、リディアちゃんが言うなら気を付けるよ。嫌われたくないしね」
ひらひらと手を振ってお兄さんは部屋を出ていった。武器の類は自室に仕舞っているらしいので、取りに行ったのだろう。
お兄さんの姿が確認できなくなってから私は自分の顔に手を当てた。頬が緩むのが抑えきれない。今日の夕飯はハンバーグ。嬉しい。お兄さんが私のお願いを聞いてくれた。嬉しい。我が儘を言っても嫌がったりしなかった。嬉しい。
「えへへ」
よく平静を装えたものだと自分で自分を褒めたいくらいだ。
「よおし、今日も元気に健やかに! 頑張るぞー! おー!」
お兄さんの顔を思い浮かべたら午後からの調薬作業も頑張れそうだった。私は残りの紅茶を飲み干すと、食器をもってぱたぱたと流し台まで走った。
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