幕間 司祭マリア・キリエ・フィオーレ
そこに初めて足を踏み入れた者は、皆等しく「まさに天国だ」と漏らす。
魔女管理教会の中枢、ベッラルバ大聖堂。
一万人は収容できる広大な主聖堂はため息が出るほど美しく荘厳だ。
壁一面が穢れのない純白で埋め尽くされ、天高く伸びた柱すべてに蔓や草木、花々を模した精巧な彫刻が刻まれている。見上げた空には満月を思わせる青白い球体が吊り下がっていた。その周囲を彩るのは紺と紫を基調としたステンドグラス。ガラスを通り抜けた光が煌々と落ち、まるで夜明けの如くだ。
透き通った静寂と張りつめた重々しさが包み込む聖堂内。
そんな中、司祭マリア・キリエ・フィオーレは祭壇の前に立って祈りを捧げていた。年のせいか皺のよった両手を組み必死に祈るその姿は、もはや祈りではなく懇願のようだった。
マリアはゆっくりと瞼をあけ、天を仰ぎ見た。
視線の先にあるのは、ベールを被った女性らしき巨大な像。
彼女こそが創世神。名はなく、ただ「神」と呼ばれるその存在は、頭から鹿のような角が左右に生えており、どこか哀愁漂う表情をしている。
「主よ、どうしてあなたは我々にこのような試練をお与えになるのですか」
問いかけた言葉に返事などありはしない。
ひっそりとため息を吐く。しかし静寂が支配するこの空間では思いのほか大きく響いた。
そんな時だ。
乱雑に扉が開け放たれ、地面を蹴りあげる音が高らかに鳴り渡った。
「まあ、はしたないですよ。ティーナ」
「司祭様、なぜですか!」
亜麻色の髪を振り乱して、少女はマリアに詰め寄った。シナモン色の瞳には怒りの色が見て取れる。
「なぜ、とは? なんのことでしょう?」
素知らぬ顔で穏やかに目を細める。ティーナは強く拳を握りしめた。
「魔女様の……リディアの事です」
でしょうね――と、心の中でせせら笑う。
ティーナは魔女の世話役を命じていた修道女見習いの一人だ。他の者は怯えと緊張をもって接していたが彼女だけは気楽に、ともすれば友人に近い付き合いをしていた。魔女は人とは異なる存在。一線を引いて接しなければいけないと言うのに。
入れ込み過ぎている。ゆえに例の件はティーナにだけは伝えていなかった。
一体誰が漏らしたのか。
マリアは努めて穏やかに続きを促す。
「リディアがどうかしたのですか?」
「とぼけないでください。魔女解放戦線が活発化しているとの情報、どうして彼女に知らせようとしないのです? 危険があってからでは遅いのですよ! 警備のために人を向かわせ方が得策かと」
「魔女の魂がどのように曇るのかは未知数です。無駄に危機感を煽る必要はないでしょう。そもそも我々の張った結界を破れる者など存在しません。人と魔女の接触は禁じられています。それは我々教会の者も一緒です。わかりますね?」
「しかし、世界最強の傭兵が魔女解放戦線に参加したとの情報があります。もし、彼の正体が噂の通りだとしたら――」
「ティーナ」
マリアはティーナの身体を優しく抱きしめた。
「疲れているのですね。可哀想に。心が疲弊しているから俗世の流言などに惑わされるのです。あなたは特にリディアと親しかったから、きっと会えなくて寂しいのでしょうね。大丈夫ですよ、ティーナ。わかりました」
「司祭様」
「あなたに暇を与えます」
「……え?」
ティーナの身体がびくりと震えた。その目は大きく見開いている。
子供特有の元気のよさと言わずとも察せられる利発さ。見目も良い。少々先走って事後報告になるところは玉に瑕であったが、それも含めて可愛い子だった。気に入っていたのだけれど――仕方がない。彼女は魔女へ渡す補給物資の調達員でもあった。余計な邪魔を入れられる前に隔離してしまわなければ。
マリアは慈しむように彼女の背を撫でた。
「ま、って、ください。どうして……」
「あなたが疲れているからですよ、ティーナ。少しお休みしましょう。神は我々を見守ってくださっています。あなたの優しい心もご存じのはず。きっとすぐに良くなるわ。ここのことは心配せずに、ゆっくりしてらっしゃい」
「で、でも、わたし、お仕事……それに、司祭様の代筆も……」
「ふふ、責任感の強い子ですね。気にしなくて良いのですよ? 私の字は癖がなく真似しやすいとよく言われるの。あなたの変わりならいくらでもいるわ」
愛おしそうに彼女の髪を梳き、両手をティーナの頬に添える。
まだ幼い彼女の身体はがくがくと小刻みに震え、見開かれた瞳には恐怖と驚愕が入り混じっていた。まあ可愛らしい。所詮は子供ね――とマリアは微笑む。
「誰か、聞こえますか。ティーナを療養施設へ運んでください」
手に結わえつけた通真珠に向かって命ずると、警備部隊の者たちがバタバタと室内に乱入しティーナを取り囲んだ。「彼女ですか」と尋ねられたので「ええ」と頷く。
その後は早かった。何が起こっているのか飲み込めないまま目を白黒させているティーナを、彼らは手早く外に連れ出していった。さすがは精鋭の警備部隊だ。
彼女は悲痛な声で「司祭様! 司祭様!」と叫んでいたが、マリアは主聖堂の扉が閉まるまでずっと、笑みを湛えながら手を振り続けていた。
「さて、何かありましたか?」
一人残った青年に問いかける。
銀の髪と長い睫毛に縁どられた青の瞳。どこか氷の彫刻を思わせる美貌の彼は、冷ややかな声色で告げた。
「例の件、結界を弱めるまでもなく成功したとの報告がありました」
「ありがとう。やはり貴方は頭のいい子ですね」
隣に並んで囁くように話しかける。
「私では考え付かなかったもの。彼らと手を組む、だなんて」
「過程が違うだけで求めるものは一緒。手を組めば最良の結果が得られるはずです」
「あら、本当にそれだけが理由かしら?」
「……こんな生ぬるい手でもなければ、まだどこかが災厄に見舞われるでしょう。それよりかはマシだ。魔女の感情なんて無視できれば、本当は、俺が――」
感情を押し込めるように彼は大きく息を吸った。しかしマリアは気付いていた。彼の瞳に一瞬映った怒りの炎を。
彼――ヴァーリはマリアが拾った孤児だ。
見目の美しさだけではなくその瞳に宿った強い光が気に入って連れ帰ったその日から重用してきた。綺麗なものは傍に置いておくだけで心が満たされる。
しかもヴァーリは驚くほど有能だった。
頭脳面だけではない。彼には『嘘を見破る』という特殊能力が備わっていた。おかげでどれだけの危機を回避できたか。彼自身の願いで今は警備部隊に属しているが、以前はマリアの身辺警護と称して重要な会合には必ず傍に控えさせていた。
本当はずっと手元に置いておきたい。けれど無欲な男の唯一の願いを無下にするほど非情にはなれなかった。
「世界を祝福してさっさと死んでほしい。それは世界中の総意です。魔女を満足させつつ呪う暇なく殺す。常人では難しいですが……まるで運命の悪戯のようにあちらに良い手札が加入した。利用しない手はないでしょう?」
「これ以上は失敗できない。……任せましたよ」
「ええ。ご期待には必ず」
そういうとヴァーリは軽く頭を下げて出ていった。
警備部隊は持ち回りで魔女への物資輸送と搬入の役目を担っている。馬鹿な事をしでかすタイプではないと理解はしているが、あまり感情を表に出さない子なので何を考えているのか腹の内が読めない。
マリアは瞳を伏せた。
魔女が世界を呪い厄災を撒き散らすたび教会へのバッシングは酷くなり、寄付金も目に見えて減ってきていた。国際機関である以上資金が底を尽きることはないが、今はかつての栄光を食いつぶしてなんとか体裁を保っているに過ぎない。
なんと、嘆かわしい。
もしかすると民間武装組織である魔女解放戦線の方が潤沢な資金を持っている可能性すらある。それほどまでに世界の心がそちらへ傾いているのだ。
これ以上の失墜は許されない。
どんな手を使ってでも、リディアには綺麗に死んでもらわなくてはならなかった。
「主よ、どうか哀れな魔女に安らかな死を」
彼女は神の前に跪き、手を組んで祈った。
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