11、『魔女への啓典』



「ここに何が書いてあるか読めますか?」


「……いや、白紙にしか見えないね」


「これは魔女にしか読むことのできない文字で書かれています。そしてここに載っているのは救済薬の作り方。……といっても途中なんですけどね」



 ぱたんと閉じて机の上に戻す。

 歴代の魔女に代々受け継がれていくこの本は、正解の工程を導き出すと文字が浮き出る仕組みになっている。しかし調薬のヒントはなし。何百、何千という可能性を一つ一つ丁寧に潰していくしか方法はなく、まさに気が遠くなる作業を繰り返して今にある。

 歴代の魔女が少しずつ進めてきた努力の結晶。それがこれ――『魔女への啓典』という本なのだ。


 既に工程は二百を超え、空白のページも残りわずか。

 神が魔女に残した救済とは一体どんなものなのか。何も分からないけれど、私たち魔女はこれに縋って地道に研究を続けている。


 ちなみに三代前の魔女は三工程も進めたらしい。

 ただ次がとっても難しいらしく、私に引き継がれた時も三代前から一切進んでいなかった。こんなに難しいならもしかして最後の工程かも――なんて、さすがに希望的観測すぎるかな。

 私の代で完成させようなどと自惚れているわけではないが、未来の魔女のため一工程でも多く進めたい。だから時間がある時はよくこの部屋に籠っている。


 お兄さんは「ちょっと見せてね」と啓典を手に取りぺらぺらと中を捲った。しかしどのページを見ても白紙にしか見えなかったらしく、ふぅと息を吐いて積まれた本の一番上にぽいと乗せた。



「どんな素材が必要なんだい?」


「駄目ですよ、教えられません。――って言うのは半分嘘で、物理的に無理なんです。声を出して読み上げようにも喉が掠れて無音になっちゃいますし、文字で教えようにもペンのインクが出てきません。じゃあ隣で観察するかとなっても、誰かが傍にいると一工程目で薬がボカンと爆発します」


「物騒だな」


「ふふ、怪我しない程度らしいですけどね。誰にも頼れず、魔女だけで作り上げなきゃいけない薬。だからこうやって、お兄さんを部屋に入れても問題ないんですよ?」



 お兄さんが気にしているだろう部分を先回りして言ってみる。彼は少し驚いたように目を見開いた後、意地の悪そうな笑みを浮かべた。



「神の救済なんて、碌なものじゃない気がするけどね」


「そんなこと」


「だって、優しい神様なら魔女なんてシステムそもそも作らないだろう? 上げて落として嘲笑うためにこんなものを用意した可能性もある。一縷の望みが絶たれた君たち魔女が、悲しみで曇っていく様を楽しんでいるのかも」



 くつくつと喉を震わせる。しかしその笑いには嘲りなど含まれていなかった。綺麗な紺碧の瞳の奥に、チリチリと焼けるような怒りを感じる。

 急にどうしたのだろう。お兄さんは神様が嫌いなのだろうか。

 もし神の救済が希望でも何でもなかったら。

 期待すればするほど幻想が壊れた時の反動は大きい。絶望して魂を曇らせる魔女もいるかもしれない。そんな事くらい分かっている。でも、もとより災厄の魔女として死ぬつもりの私に忠告など不要だ。覚悟はとうに決まっている。

 むっと顔を顰めると、お兄さんは私の頭を無遠慮に撫でた。



「――なぁんてね。確かにここは俺には関係のない部屋みたいだ。邪魔して悪かったね」


「もう! 髪の毛ぐちゃぐちゃになったじゃないですか」


「ごめんごめん。直すよ」


「いいです。これくらい自分で出来ますから」



 手櫛で髪をすく。ちょっと跳ねているかもしれないが、今更お兄さんの前で取り繕っても無駄だろう。そもそもお兄さんのせいですし。



「というわけなので、この部屋に入る時はノック必須ですよ! 下手すると私がボンッしちゃうんで!」


「わぁ、そりゃあ大変だ」


「分かってます?」


「もっちろん。気を付けるよ。可愛いリディアちゃんが危険な目に遭うのは避けたいしね」


「またそうやって軽口を」



 私はお兄さんを部屋から追い出すと後ろ手でドアを閉めた。

 いつまでもシーツお化けのままでいてもらうわけにもいかないので、さっさと裏口から出て洗濯場まで案内する。ほぼ自動で洗ってくれる装置が珍しいのか、お兄さんはもの凄く目をキラキラさせていた。子供ですか。うっかり可愛いと思ってしまった心を押し込めて、私は小屋まで注文票を書きに走った。



「えーっと、ベッドと、追加の食材と……」



 記入する時はいつも名前を羅列するだけだったから、こうやって理由を書き足していると苦しい言い訳をしているみたいで心が痛む。いや、実際言い訳なんだけれども。

 ええい、色々考えても仕方がない。お兄さんを一人にしておくのも心配だ。

 私は注文票をポスト穴へ投げ込み、急いで家まで戻った。

 外でパタパタとはためている洗濯物は極力目に入れないよう中に入ると、お兄さんは足が半分隠れるくらいの大きいバスタオルを巻いてリビングのソファに座っていた。



「な、なんでそんな格好なんですか!」


「おかえり、リディアちゃん。いやぁ、シーツ汚れちゃったからさ、ついでに洗っておいたよ。さすがに裸はマズイかなって思ってタオル借りたんだけど、ダメだった?」


「……その二択なら大正解です」


「だよねぇ」



 私の返事に満足したのかお兄さんはにこりと笑って、一枚の紙を差し出してきた。



「これは……契約書?」


「そうそう。それから君に許可を求めないとやっちゃいけないリストも兼ねてる。恋人だからって何でもしていいわけじゃないでしょ? とりあえずキス以上は駄目かなって。唇以外のキスとかハグは大丈夫に振り分けたんだけど、嫌なら付け足すよ」


「……あ、……いえ、……大丈夫、です、けど」



 キスとかハグとか。小説の中でさえ出てきたら赤面してしまうのに、自分がする可能性があると想像したら身体が固まってしまった。そうだ。私はお兄さんと恋人契約を結んだのだ。今日からお兄さんが私の恋人。

 契約書で顔を隠しながらちらりと様子を伺う。

 その視線に気づいたお兄さんは「なぁに?」と微笑んだ。本当に顔が良い。でも恋人契約なんて特殊な関係に一切動じない彼を見ていると、一人ドキドキしているのが馬鹿馬鹿しく思えてきた。


 とりあえず契約書を確認する。内容はかなり私に配慮されていた。魔女への理解も皆無というわけではなさそうだ。

 どうやら、こういうところは意外としっかりしているらしい。

 読みやすい字で統率のとれた文章を見るとすごく真面目――というか、完璧主義な人のように思えた。ギャップ有り過ぎでは。細かいところまでユーリーン王子そっくりなんて。無駄に好感度を上げてこないでほしい。



「なにかダメなところあった?」


「ないです!」


「な、なんで怒ってるの?」


「怒ってません!」



 私はペンをとって契約書にサインをすると「これからよろしくお願いします!」と言って手を差し出した。



「うん。よろしくね、リディアちゃん」



 握り返された手は大人の男の人らしく大きくて逞しくて、剣を握っているからなのかちょっとゴツゴツしていた。手すら格好いいとかずるいのでは。

 契約書まで交わしたのならば腹を括るしかない。

 お兄さんが何を考えているかはまだ分からないけれど、彼との生活が楽しく満足のいくものだったら、私は何の未練もなく世界を祝福してこの世を去れるかもしれない。



「心を満たせば魂は穢れない、でしたっけ? 期待していますよ、お兄さん」


「ふふ、任せてよ。君の恋人として、心も体も満たしてあげる」


「そ、そういうのは……ほどほどに、してください……免疫、ないんですから……」



 思わずぱっと手を離すとお兄さんは「確かに。段階はふんだ方がよさそうだ」と言って楽しそうに笑った。

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