第40話 見ていた景色3〈聖女の魔法杖〉




 クリスタシアが語り唄を紡げば、溢れんばかりの精霊の光が出現する。

 対抗を示すように古びた本からはおびただしい量の黒い霧――穢れが溢れ出し、室内には突風が渦巻いた。


 そして、恐ろしい現象の中心には、エレティアーナがいる。

 古びた本を手から離すこともできず、穢れに強く影響されて魔力暴走を引き起こしていた。


『おか、さま……エレ……っ』


 なにか、とんでもないことが起こっている。そうとはわかっていても、アナスタシアは目を開けていることができなかった。


 どれほどの時が過ぎたのだろう。

 しばらくして勢いは収まり、立ち込める穢れが浄化され視界が自由になった頃には――


『あ、ああ……』


 アナスタシアの顔が青ざめていく。

 ぺたりと床にへたり込むと、右足に何かが当たる。

 エレティアーナだ。


 穢れに襲われ為す術ない状態だったにも拘わらず、今は解放されて気を失っているようだった。不思議ことにエレティアーナの手にあった古びた本は、跡形もなく消えていた。


 見た限りでは命に別状もない。問題は、クリスタシアのほうである。


『おかあ、さま……?』


 掠れ声で問いかけるしかなかった。

 どれだけ目を凝らしても、ベッドの上には"それ"だけが横たわっている。


 だからきっと母なのだろう。

 母で、間違いはないのだろう。

 けれどすぐにアナスタシアがそうだと思えなかったのは、当然のことだった。


『う、んん……』


 呆然とするアナスタシアの横で、口をもごもごとさせながらエレティアーナが意識を取り戻した。

 しかしアナスタシアは気づかず、視線をベッドに向け続けている。


『アナスタシア、おねえさま……おかあさま』


 片目を擦り、ぼんやりとした言葉を発するエレティアーナは、まだ状況を理解していないようだった。

 それでも、一向に反応を見せないアナスタシアに、自然とエレティアーナの視線もベッドに移る。


 途端にエレティアーナの顔色がガラリと変わった。


『……、は』


 二人の目の前にいるのは、枯れた枝のように肌が変色し、独特の異臭を漂わせる、腐敗した何かだった。


『あ、あな、しあ……え、れ、』

『……っ!!』


 声が聞こえた瞬間、アナスタシアとエレティアーナは同時に目を見開いた。

 どれだけ姿が変わろうとも、その優しい声音は変わらずで。だからこそ惨い現実を知るには十分だった。


 起き上がってから混濁していた記憶が一気に覚醒されたのだろう。エレティアーナは自らが犯した事態に気づき、ガタガタと体を震わせ始めた。


『おか、さま……おかあさま、おかあさまおかあさま!!!』


 何度呼びかけても返答はない。

 あるのは今にも途切れんばかりのか細い呼吸音だけだった。


『あ、ああ、そんな……わたし、わたしのせいで……わたしが、こんなこと、したから。わたしが、わたしがおかあさまを。ごめんなさい。おかあさま、ああ、おかあさま、あああ、いや、いやあああああ!』


 涙を流すエレティアーナは、現実を直視できず頭を掻き毟り、頬に爪を立て叫びをあげる。

 アナスタシアはどうすることもできずクリスタシアを見つめ続けていたが、隣から「ひゅー、ひゅー」と音が聞こえてハッとした。


『エレティアーナ……!』


 しでかした事の大きさに耐えきれず、エレティアーナはその場で過呼吸を起こしてしまったのだ。

 元々体が病弱であったため心労が重なれば軽度なものを発していたが、今回のはわけが違った。


 過呼吸に加えて全身は痙攣し、嘔吐を繰り返している。

 目は徐々に生気を失ってゆき、アナスタシアはエレティアーナの体からさらに魔力が抜けていっていることに気がついた。


『これ、魔力……ダメだよ、お願い。もう、これ以上は……死んじゃう……!!』


 どれだけ必死に呼びかけたところで、エレティアーナには届かない。幼いエレティアーナには、この瞬間を受け止めるだけの精神が備わっていなかったのだろう。


『――』


 動けずにいる自分の無力さに打ちのめされていた時、かすかに聞こえた唄にアナスタシアは顔をあげる。


『おかあさま……?』


 確かに聞こえた。そう思った途端、支えていたエレティアーナの体がパタリと前に倒れる。驚いたものの、どうやらクリスタシアの唄声によって強制的に眠らされたようだ。


 そして一度エレティアーナを床に寝かせたアナスタシアは、急いでベッドの上にいるクリスタシアに近づいた。


『おかあさま!』

『アナ、スタシア……』

『おかあさま、ここだよ、私はここにいるよ』


 枯れ枝のように変わり果てた腕が、アナスタシアの声を頼りにゆらゆらと動く。アナスタシアはそれを両手できゅっと握りこんだ。

 例えようのない奇妙な感触は、もうすでにアナスタシアの知る母の手ではなかった。


 それでも、それでもよかった。

 もう一度、クリスタシアが自分の名を呼んでくれただけで、アナスタシアには十分だったのだ。


『――アナスタシア。エレティアーナを……責めないで、一人にしないで、守って、あげて』

『うん、うん』

『ごめんなさい、あなたには、いつも、助けられてばかり』

『そんなことない! おかあさま、私とエレティアーナと、みんなを、まもってくれたもんっ』


 わずかに感じる室内に張り巡らされた気配。

 これはクリスタシアが穢れを部屋の外に広がらせないために施した守護の魔法だった。


 穢れに取り込まれそうになったエレティアーナを助け、その身代わりとでも言うようにクリスタシアが古びた本から吹き出したすべてを背負ったのである。


 どれだけ強力なものだったのかは、語り唄を行使し浄化を試みたクリスタシアの状態を見れば明らかだった。


 病により衰えたのが原因なのか、そうでなくても穢れに囲まれたエレティアーナを救助するためには致し方なかったのか、どれだけ考えたところでアナスタシアには検討もつかない。


 ただ今は、いつ途絶えてもおかしくない母の声を聞き逃さずいるのが、アナスタシアにできる精一杯のことだった。


『もっと、一緒にいたかった。あなたを、あなたたちを、家族を、残していく母を、許し……』

『うん、うん、私も、一緒にいたかった……』

『……ありがとう、アナスタシア。あなたが、いるのなら、この子も……』

『おかあさま、おかあさま?』


 呆気なく、突然に。

 決して長くはなかった最期の会話が終わりを告げる。

 涙で濡れた瞳を、アナスタシアは拭うことができなかった。


 繋がれた手と手。

 最後の最後まで母の温もりを感じるために、目の前が霞んでうまく見えなくても、その手を離すことができなかったのだ。


『おかあさま、ちゃんとまもるから――私は、大丈夫、大丈夫だから』


 アナスタシアは、にこりと笑う。

 口の端はいびつに歪み、それはクリスタシアが周囲に与えていた安堵の笑顔と比べてほど遠いものであったけれど。

 まるで心に誓いを立てるように、強く強くうなずいた。


『……うっ』


 直後、頭に激痛が走る。

 

『なんで、どうして……』


 アナスタシアは怯えた声を出し、クリスタシアの亡骸からおどろおどろしく吹き出る穢れの残りに目を疑った。

 自らを犠牲にしたクリスタシアを嘲笑うかのようにゆらゆら動く穢れを前に、アナスタシアはキツく睨みつける。


『もう、やめてよ!! これ以上、何もしないで!! 誰も傷つけないで、奪おうとしないでよ!』


 そんな言葉も虚しく、生き物のような動きを見せる穢れは、アナスタシアにゆっくりと近づいていく。

 堪らずアナスタシアが「ひっ……」と声をもらした時、奇跡が起こった。


 クリスタシアの手――アナスタシアが握っていた手の反対、クリスタシアの右手に収まっていた聖女の魔法杖が、穢れと対峙するように輝きを放つ。


 眩い閃光にアナスタシアの意識は遠のいてゆき、その場に頽れる。

 それでも聖女の魔法杖は光を放出し続け、クリスタシアの最後の意志を受け継いだかのように、穢れを共鳴水晶の中に取り込んでいったのだった。





 次に目覚めたとき、アナスタシアは目の前の惨状の顛末をすっかり忘れてしまっていた。

 けれど、心は覚えている。


の、せいなの』


 頭の中で響く幼い泣き声。

 この日、アナスタシアは大罪の子になった。

 

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