第39話 見ていた景色2〈聖女の魔法杖〉
その日の晩は、なぜか胸騒ぎがした。
アナスタシアは誰かの呼び声によって目を覚ます。
『エレティアーナ』
むくりと上体を起こし、隣で眠るエレティアーナを揺すると、静かに告げる。
『おねーさま……どうしたの?』
『おかあさまのところ、行こう』
『おかあさまの、ところ?』
『うん、一緒に』
アナスタシアの真剣味のある表情に何かを感じとったのか、エレティアーナはぐずることなく起き上がる。
『こっち』
寝ぼけ眼なエレティアーナの手を引いて、誰にも気づかれないように。なりを潜めて歩く。
『あ、まってください、おねえさま』
部屋を出る前、エレティアーナはベッド横にある飾り棚の前に駆け寄り、コソコソと棚の下から一冊の小さな本を手にする。
『おまたせしました、おねえさま』
二人は手をしっかりと繋いで母親の元に向かった。
***
コンコン、と音が鳴る。
その後すぐに扉が開かれたと思うと、顔を出したのはアナスタシアとエレティアーナの二人だった。
『アナスタシア、エレティアーナ……?』
枕に背を預けるクリスタシアは、か細い声を出す。
アナスタシアはそっと扉を閉めると、未だおぼつかない足取りのエレティアーナを連れてベッドの横にやって来た。
数日ほど面会謝絶だったクリスタシアの顔は、最後に見た時よりもさらに憔悴していた。
『あのね、声がきこえたの。おかあさまが寂しいって、教えてくれたから。だから今日は、おかあさまといっしょに眠りたいの』
『え……?』
誰かがアナスタシアに教えたのだという。
クリスタシアのそばにいてあげて欲しいと、何度も何度も。頭に響いた声で目覚めたアナスタシアは、エレティアーナと共にここまで来たのだ。
『おしえてくれて、ありがとう』
不意にアナスタシアは、壁に飾られた聖女の魔法杖を見あげた。そして次に、空中を見る。
『精霊が、あなたに教えてくれたの? 私が、お母様が寂しがっていると』
『うん、おしえてくれたのは。でも、伝えてってお願いしたのは、その子だよ』
アナスタシアが指で示すのは、紛れもなく聖女の魔法杖だった。
『いまね、ありがとうって言ってくれてる。どういたしまして』
まるで本当に気持ちを読み取っているかのように、アナスタシアは魔法杖に笑顔を向けた。
クリスタシアは驚いた顔をしながらも、すべてを受け入れるような優しい微笑みを浮かべる。
『そう、そうなの。ありがとう。では二人とも、今夜はお母様と一緒に眠ってくれる?』
『うん!』
『……あ、わたしも、おかあさまと眠れるの、うれしいですっ』
『ええ、私もとても嬉しいわ。おいで、愛しい私の子どもたち』
二人はゆっくりとクリスタシアが眠るベッドの中に潜る。
やせ細った母に寄り添い、冷えた体を温めるように自分たちの体温を分けた。
『ありがとう……本当に、ありがとう……アナスタシア、エレティアーナ……それに、あなたたちも、
アナスタシアが眠る直前、頭を撫でる母の手は、驚くほど力のないものだった。
***
苦痛に耐えるくぐもった声にアナスタシアは目を開いた。
一瞬、ここはどこだろうと首をかしげる。
しかしすぐに思い出した様子で、アナスタシアは飛び起きた。
『おかあさま!』
横にいるクリスタシアに目を向け、そしてサッと顔が青ざめる。
額には脂汗を浮かべ、すっかり血の気が引いたクリスタシアは、不規則な呼吸を何度も繰り返していた。
声を発する余裕もないのに、その手は膨らんだお腹を気遣うように触れている。
『おかあ、さま……』
同じく目覚めたエレティアーナは、異常事態の母を前に体を震わせていた。
そして、何かを思い出したようにハッとして枕元に置いていた本を手繰り寄せる。
『おかあさま、ここが痛いの? エレティアーナ、すぐにおとうさまを――』
『だ、だいじょうぶ。だいじょうぶです、おねえさま。わたし、おかあさまが痛くなくなる方法、おしえてもらいました』
ぷるぷると胸元に本を抱きしめながら、エレティアーナは恐怖を拭い払うかのように笑みを引き攣らせた。
アナスタシアは意味がわからず、そういえばいつの間にかずっと不自然にあったその"古びた本"の存在に今になって意識しだした。
アナスタシアは心を偽り笑うことに必死で、そして屋敷中はクリスタシアの病状にばかり気が向いて、そばにあったエレティアーナが持つ私物にさえ気づかなかったのだ。
『おかあさまと二人きりになったときにって、でもおかあさまには会えなくて。だれにも言ってはダメって、だけどおねえさまにならっ』
『なにを、いって……エレティアーナ、まずはおとうさまたちをよばないと』
『ごめんなさい、昨日の夜ここに来たときに開いていれば……それなのに、おかあさまと一緒に眠れることがうれしくて、ごめんなさい……』
エレティアーナは混乱した様子で持っていた本に手をかける。よく見るとそれには鍵が掛かっており、エレティアーナにだけ開けられる代物だった。
『エレティアーナ……それは、なに?』
古びた本を前にしたアナスタシアは、訝しげな視線を向ける。
とても嫌な予感がした。
何よりも、クリスタシアの周囲を飛び回っていた精霊たちが、エレティアーナを避けるように距離をとっていたのだ。
『おしえて、もらいました。ただ本を開いて、魔力をそそいで。そうすれば、おかあさまを楽にさせられるって。でも、だれにも言っちゃダメなんです、本を貰うとき、約束したから』
一体誰と約束をしたというのだろう。
王家が手配した治癒師でさえ匙を投げた病状だというのに、どこの誰が、エレティアーナとそんな約束を。
楽にさせられる、なんてことを。
『――まって、エレティアーナ!』
一足遅かった。
アナスタシアが止めようとしたとき、エレティアーナが持つその本は、開かれてしまっていた。
古びた本が開かれた瞬間、ページから飛び出たのは黒い靄だった。
どこか不安を誘い、恐怖がじわじわと肌に浸透していくような不快感に、くらりと目眩がする。
手足が縛られる錯覚に陥り、次第に自由に動くことも困難になっていった。
『エレティアーナ、エレティアーナ……!』
『――、――!』
黒い靄に覆われていくエレティアーナに向かって叫ぶ。
隔たりの向こう側で口を動かしているのが微かに見えたけれど、幼いアナスタシアにはどうすることもできなかった。
『ど、どうしよう、そんな、どうしよう……どうすれば……動け、動いてよぉ!!』
どうして体が重くなったのかもわからない。
びくともしない脚を何度も叩き、焦りから噛んだ唇には血が滲んでいた。
『……だい、じょうぶ、大丈夫よ』
突然、アナスタシアの体が引き寄せられる。
瞬時に母の温もりだとわかったアナスタシアは、見上げて大粒の涙を落とした。
『おか、さまぁ……』
振り絞った縋る声音に、クリスタシアは首をほんのわずかに縦に動かす。
彼女の手には、壁に飾られていたはずの聖女の魔法杖が握り込まれている。
『――不甲斐ない母で、ごめんなさい』
クリスタシアは膨らむ腹を撫でると、最後の力を振り絞るように魔法杖を抱え、語り唄を口にした。
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