第38話 見ていた景色1〈聖女の魔法杖〉
***
十年前、ヴァンベール公爵邸の夫人室。
麗らかな春の日。
透明な陽射しが室内に降り注ぎ、白地のレースカーテンが風を孕んで揺れていた。
『ねえ、おかあさま。赤ちゃんのお名前はきまっているの?』
無邪気な声を弾ませ、背の小さなアナスタシアがベッドの端から顔を出す。
見上げた先には、膨らんだお腹に手を添えたクリスタシアの姿があった。
『ふふ、正式ではないけれど。これがいいんじゃないかって、お父様と考えた名前があるのよ』
『ほんとう!? ねえ、どんなお名前?』
『まだ内緒にしていてね?』
『うん、ないしょ』
クリスタシアは慈愛に満ちた笑みを浮かべて、こっそりと教えてくれた。
『男の子なら、ルルーシュ。女の子なら、ルルーシェ。どちらも異国の古い言葉で"小さな光"という意味なのよ。お母様の友人が教えてくれた言葉でね、すごく気に入っているの』
『小さな光……それって、この子たちみたいだねっ』
満面の笑みをたたえたアナスタシアは、さらに頭上を見上げて手を伸ばした。
室内には、属性の異なる精霊たちが自由にふわふわと飛んでいる。
二人の会話を聞いているのか、精霊は自分たちの話をされると嬉しそうに光を強め、アナスタシアの小さな手に集まってきた。
『私ね、赤ちゃんが生まれたらしてあげたいことがたくさんあるの。一緒におさんぽして遊んだり、おいしいごはんを食べたり、絵本もよんであげたいなぁ』
『まあ、本当にたくさんね』
『えへへ、あとはね、だいすきなスコーンもはんぶんこするんだ〜。真っ赤なベリーと白いチョコレートが入ったあまいの。よろこんでくれるかな?』
精霊から手を離したアナスタシアは、両手を頬に当てて首を傾げた。
その可愛らしい姿にクリスタシアは目を細める。
『スコーンはちょっと固いから、赤ちゃんが大きくなってからになるけれど、きっと喜んでくれるはずよ。あなたの大好物を分けてくれるのだから』
あとひと月もすれば会える新しい命を前に、アナスタシアの心は弾んでいた。
アナスタシアの感情に触れて、精霊たちも赤子の誕生を今か今かと待ちわびている。
『……あ! そろそろエレティアーナがかえってくる! お出迎えにいかなくちゃ』
生まれつき身体の弱いエレティアーナは、三日に一回の頻度で王城広場前の大聖堂に通っていた。
治癒師による診療は屋敷でもおこなっているが、聖堂は聖女信仰のほかに昔から大病の気を退け健康な心身を保つための祈りの場でもある。
精霊の聖愛のおかげで不治の病が治ったという言い伝えもあるため、精霊と心を通い合わさる聖女を信仰する聖堂は、そういった意味でも信徒を多く抱えていた。
『おかあさま、またくるね!』
『ええ、階段から転ばないように気をつけるのよ』
出迎えに急ぐアナスタシアの背中を、クリスタシアは心苦しげに見つめていた。
扉が閉められ、寝室にはクリスタシアだけとなる。
『……いつも、あの子には気を遣わせてばかりだわ』
揺れるカーテンに視線を向け、クリスタシアは独り言をこぼす。そんな彼女を労わるように精霊たちは近寄っていく。
『私がどちらも健康に産んでいれば、エレティアーナが苦しむことも、アナスタシアが負い目を感じることもなかったというのに』
思いつめないで、と言いたげに精霊たちはクリスタシアの頬に擦り寄る。
ハッと我に返ったクリスタシアは、眉を下げて再びお腹を撫で始めた。
『そうね、考えてしまってはきりがないわ。気持ちが沈んでいては、この子にも伝わってしまうもの』
そうして、クリスタシアは唄を口ずさむ。
子守唄のようなそれは、聖堂では「語り唄」といわれている。
精霊と心を通い合わせるためにある唄を、クリスタシアはお腹の子に優しく聞かせた。
『どうか元気な顔をみせてね。優しいお姉様が、家族みんなが、あなたを待っているわ』
風に乗ってどこまでも美しく響き渡る唄。
ゆったりとした時間の流れの中、クリスタシアの傍らには聖女の魔法杖が飾られていた。
悩みを見せず、常に民の希望として存在していた聖女クリスタシア。
王女だった頃も、聖女として民の前に姿を見せていた頃も、憂いや不安を悟られてはいけなかったクリスタシアの本当の素顔を知るものは誰もいなかった。
たとえ相手が最愛の夫であるヴァンベール公爵だとしても、クリスタシアは弱みをさらけ出すことができなかった。わからなかったのだ。
そんなクリスタシアのすべてを見守っていたのは、彼女の魔法杖だけだった。
***
産み月を迎えた頃、クリスタシアの体調は一気に崩れていった。
食が細くなり、脈も弱く、見るからに衰弱していったのである。
『妊娠の影響で体の機能が低下しているのです。これ以上負担がかかれば、命に関わります』
父親の足元に引っ付いて治癒師の説明を聞いたところで、幼いアナスタシアがすべてを理解するのは難しかった。
けれど、当時ラクトリシア王国で最も優秀な治癒師でも治療の限界があり、日に日に皆の表情が暗くなっていくのをアナスタシアは感じとっていた。
『おかあさま……苦しいの?』
『……少し、ね。この辺りがね、弱くなってしまっているみたい』
そう言って、息も絶え絶えにクリスタシアは左胸に手を当てる。
『おかあさまが苦しいのは、赤ちゃんがいるからですか……? おかあさまが痛い思いをするなんて、そんなのいやです……それなら、赤ちゃんはいなくてもいいです』
アナスタシアの隣に立つエレティアーナは、眉をきゅっと寄せて双眸に涙を溜めていた。
『そんな悲しいことを言わないで、エレティアーナ。赤ちゃんを産むのは、とても体力を使うことなのよ。だから、この子のせいではなくて……こうなったのも仕方がないことなの』
『でも、でも……わたし聞いたの! もしかしたらおかあさまが、いなくなっちゃうかもしれないって……そんなの、いやですっ』
ついには声をあげて泣き出してしまったエレティアーナにつられて、アナスタシアも泣きそうになってしまった。
不意に何かを感じとって、クリスタシアを見る。
彼女は辛そうにしながらも、笑みだけは決して絶やすことはなく、まるでそれが使命とでもいうように自分を崩そうとはしなかった。
『おか……さま……』
母の表情を間近で捉えたアナスタシアは、こぼれそうになった涙を引っ込めると、唇をきつく閉じる。
そして、精一杯の笑顔を浮かべた。
『エレティアーナ、おかあさまがいなくなるなんて変なこと言わないの。ほら、おかあさまは今もがんばってるんだよ。きっとだいじょうぶ、だいじょうぶだから!』
『お、おねえ、さま……』
小さな体で、同じく小さなエレティアーナを抱きしめる。
動けないクリスタシアの代わりに、今の自分ができるのはこれしかないと思った。
本当は、一番泣きたいのはクリスタシアである。
だけど、絶対にクリスタシアは泣かない。
痛くても、辛くても、苦しくても、悲しくても。
いつも耐え忍んでいる母に、自分がしてやれることはこんなにも少ない。
それでも、ただ涙をこぼすよりはいいと思った。
『わらって、エレティアーナ。私たちがわらっていれば、きっとみんなも安心してくれるから。不安なんて、やっつけちゃえばいいんだよ!』
クリスタシアが辛いときこそ、代わりとなって笑っていたい。
きっと良くなると、そんな願いを込めながら。
『……あり、がとう……アナスタシア』
クリスタシアの震えた声に、アナスタシアはにこりと笑って返した。
クリスタシアの容態が悪化していくにつれて、アナスタシアはさらに貼り付けた笑顔を作るようになっていった。
それが非常識だと影で言う人間がいようとも、一番大切なクリスタシアの気持ちがやすらかになるならそれでよかった。
どんなに心が悲しいときでも、笑っていなければ。
クリスタシアの容態が、これ以上酷くならないことを祈って。
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