第30話 本当の名前
ルムのローブ下の服装を目の当たりにして、アナスタシアはさらに二の句が継げなくなっていた。
旅人が身に纏うには絢爛な――目が痛くなるほど華美ではないとはいえ、彼はアナスタシアが知るところの「高貴な正装」を身に纏っていたのである。
「どうして、ここに……?」
そんなルムの格好も後回しに、アナスタシアは尋ねた。
ルムはかすかな自嘲の笑みと共に口をひらく。
「ここで、君を待っていた」
「ま、待っていたって。……いつから?」
「夜が明ける前には」
「そんなに、前から……!?」
昼間は暖かいとはいえ、日が昇りきっていない時間帯は少々肌寒くもあるというのに。一体どれだけの時間を彼はここで待っていたのだろう。
「あー……さすがに俺も、気味悪がられて仕方がないことをしているのは理解しているんだ。それでも――」
アナスタシアを見下ろしたルムは、その瞳を細める。まるで何かを懇うような、得も言えない表情だ。
「……体調が悪かったのにずっと外にいたの? もう体は本当に平気だったの?」
「え? ああ、それは、うん。平気だけど」
ルムは呆気に取られた様子で瞬きを繰り返す。まさかアナスタシアがそんなことを言うとは思ってもみなかったのだ。
(夜明け前からなんて……)
あんな別れ方をしてしまった自分の行動を棚に上げたいわけではないが、つい思ったことが口走ってしまう。
「どうして、そこまでして」
「……。こうでもしなかったら、もうここでシアとは会えない気がした。そんなことはないと、君は言えるか?」
「っ!」
ある意味、図星を指されてしまった。手の力が抜けて、彼ら宛にしたためた一枚の紙が離れていく。
地面に落ちたそれを拾いあげたルムは、文面を見ると空笑いをこぼした。
「こう言うのもあれだが、自分の勘のよさが気持ち悪いな」
あえて明るく努めるルムとは反対に、手紙を見られてしまったアナスタシアは、後ろめたさを感じて頭を下げる。
「ごめん、なさい」
「前にも似たようなことを君に言ったけど。そんな風に謝らないでくれ」
「だけど私は」
そう言いかけたアナスタシアの言葉は、おかしなところで止まってしまう。
見上げた先で、輝く銀の瞳と視線が絡み合ったからだ。
いたずらに吹いた風が頭巾の底を押して、アナスタシアの前髪が外気に触れる。すんでのところで頭部を押さえ込んだものの、一瞬の隙に起こった偶然。
(今、目が合っ――!)
今までは「そんな気がした」だけだった感覚が、今回は現実になってしまった。
激しく戸惑うアナスタシアは慌てて両手で顔を覆う。
ひんやりとした仮面の表の冷たさが、やけに伝わってきた。
「シア、俺は……」
鼓動の速さに耐えきれなくなり、アナスタシアはそのまま体を半分ほど背ける。
短い、とても短い間だった。
後ろから言い淀む気配を感じたと同時に、ルムの声がアナスタシアの耳に届く。
「ディートヘルム・エクトル・アステレード」
聞き覚えがある家名に、アナスタシアは両手を顔からゆっくりと離した。
「アステ……レード?」
世間からの隔離を強いられ続けていたアナスタシアでも、その名は認知している。
大陸最強と名高い、ゼナンクロム帝国下の家門――アステレード魔法師団。
これまで数多くの優秀な魔法師を輩出し、今もなおゼナンクロム帝国が躍進を遂げているのは、アステレード大公爵家の存在があってこそだといわれている。
また、家門の信頼の厚さと培った功績により、帝国人であるにも関わらず大公爵家が諸外国からいくつかの爵位を受けたことは有名な話であった。
「ディートヘルム・エクトル・アステレード――それが俺の、本当の名前なんだ」
「ルム、が……アステレード家の、人?」
そこでアナスタシアは、自分の知る「ルム」という名は、本当の彼の名前の一部だったことに気がついた。
ルム――ディートヘルムの語尾二つを取って、ルム。シアを名乗っていた自分と全く同じである。
「シア。君に、聞いて欲しいことがある。そのためにはまず、先に自分の名を明かすのが道理だと思った。――もう一度、話をさせてくれないか?」
アナスタシアの警戒を解こうとする配慮なのか、ディートヘルムの声音は胸を打つほどに柔らかく優しい。
(このまま断って、逃げて、屋敷に帰って……不誠実なままで、本当にいいの? 本当に……)
迷っている時点で、すでに答えは決まっていたのだろう。
「……ありがとう、シア」
その真摯な眼差しを前に、アナスタシアはぎこちなく頷いていたのだった。
***
場所は変わり、アナスタシアとディートヘルムは工房近くにある休憩場所までやって来た。
以前、バーンも交えて三人で焼き菓子を食べたところである。
そういえば、バーンはそばにいないのだろうか。アナスタシアは周囲を軽く確かめてみるが、人っ子一人いない。気になるもののこの状況でディートヘルムに尋ねる勇気はなかった。
「あー……まず、俺がラクトリシア王国に来た理由なんだが、帝国大使として今日行なわれる予定の式典に参列するのが一番の目的だった」
あの時のように、長ベンチに隣合って座る二人。少しばかり緊張した面持ちでディートヘルムは話し始める。
「で、それとは別の役目が俺にはあった」
「役目……?」
「前に話したとおり親交力がある俺は、精霊と、その道筋が見える。即ちそれは、精霊から
ディートヘルムが多くの国を渡り歩いていたのは、魔法師としての可能性が高い者を見つけ出すためだったらしい。
精霊の聖愛を受ける者は、その恩恵を受けるに等しい。自然と通常の魔法師よりも能力値があがるため、どの国も欲しい人選であった。
ディートヘルムは授かった親交力と、人より何倍も優れた洞察力により、ゼナンクロム帝国に優秀な人材が集まるよう助力していたのだ。
「それもあってよく街を歩いては見聞を広げていた。まあ、今では半分趣味と言っても遜色はないが。そうしてふらふらしていると、稀にとてつもない才能を秘めた人と出会うときがある」
そう言って微笑んだディートヘルムは、聞き役に徹していたアナスタシアに目を向けた。
「俺は君を学園に招きたいと考えていた。魔法杖に対する姿勢や修復能力もさることながら……これまで俺が訪れた国々の話をしていたときの君の声は弾んでいて、学ぶことに対して意欲的に見えたから」
「……」
「ただ、君は出会ったときから謎が多かった。素顔を隠し、いつも周囲を気にするような挙動、そしてどういうわけか謝意の精神が人一倍強い」
決して嘲笑ではない笑いがディートヘルムからこぼれる。
すべては、折れた魔法杖が始まりだった。
時はそれほど経っていないが、思い出せば懐かしさが込み上げる。
(……もう、隠せるものじゃない)
ディートヘルムの中には揺るぎない確信がある。
昨日の反省を活かしてあと一歩のところには踏み込んでこないが、アナスタシアはこの状況で誤魔化しても無意味だと悟った。
(ルムが、本当の名前を明かしてくれた。……私は)
なによりも、アナスタシア自身が限界だと感じていた。
まったく不思議な縁である。
街中で偶然出会った旅人が帝国の要人で、この国で疎まれ続ける自分とこんな話をしているなんて。
つい最近までは、考えもしなかった。
「ルム」
「……ん?」
無意識下で仮面に触れながら、アナスタシアは口を開く。
ディートヘルムの話し声が消え、緊張のあまり息づかいが漏れてしまう。
「まず、本当の名前を教えてくれてありがとう」
「……ああ、いや。どういたしまして」
彼らしくもある返答に、ほんの少しだけ笑みが浮かぶ。
今ならば、言える気がした。
「アナスタシア……ヴァンベール」
それを口にしてしまえば、思いのほか呆気なくて不思議な心地に包まれる。
もう一度、噛み締めるようにアナスタシアはディートヘルムに告げた。
「……私の名前。アナスタシア・ヴァンベールっていうの」
一度目よりもはっきりとした声に、ディートヘルムは瞳を見開く。
そして、すべてを理解したような柔らかな笑みを浮かべて言った。
「……うん、そうか。これでようやく、お互い自己紹介が済んだな」
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