第28話 忘れていたい
幼き頃、アナスタシアはこの唄を聞いていた。
それは時に子守唄となり、時に癒し唄となりアナスタシアの耳に馴染んでいった。
『――まあ、アナスタシア。あなたには、この唄が唄えるのね』
『うん。だってね、とっても綺麗だもん。それにね、唄うとみんながね、ふわふわ〜って、来てくれるの』
アナスタシアが嬉しそうに話すと、母親は大きく目を広げて驚きに満ちた顔をしていた。
『おかあさま? どうしたの?』
『なんでもないわ。それよりもお母様、もっとアナスタシアのお唄を聞きたいわ』
『うん、いーよ!』
『ふふ、ありがとう。ほら、この子も喜んでいるわ』
『ほんとう!? えへへ。かわいいかわいい赤ちゃん、はやく出ておいで。もっともっと、おうたを唄ってあげるから。ねっ、お母さま』
『ええ、そうね……』
どこか誇らしそうに、けれど申し訳なさそうにもした母の顔を――アナスタシアは、今までずっと忘れていた。
『――アナスタシア。エレティアーナを……責めないで、一人にしないで、守って、あげて』
忘れかけていた、母の声がする。
彼女のその言葉は、アナスタシアに向けられていたものだった。
***
「――っ!?」
びくりと跳ね上がった鼓動と共に、アナスタシアの遠のきかけていた意識が元に戻った。
(今の……記憶は)
いつの間にか周りを飛んでいた精霊の光は消えている。
気配は感じるものの、景色に溶け込んでいるようだ。
「ルム?」
そろりと乗せていた自分の手を退かす。
先ほどとは比べものにならないくらい、ルムの顔色は良くなっているようだった。
「……よかった」
安堵したのもつかの間――膝に戻しかけていたアナスタシアの手を、眠っているはずのルムの手が伸びて掴みこんできた。
「ル、ルム!? びっくりした。起きたの?」
「シア、今のは」
ルムは上体を起こすと、動揺を隠し切れていないアナスタシアをじっと見つめる。
「今の歌は、確か前にも歌っていたな。そう、君が俺の魔法杖を修復してくれたとき。あの時も思っていた。とても耳に残るが、不思議な音域と詩句だと」
掴まれた手に、微弱な力が加わる。
それに気を取られていれば、次の瞬間にはルムのほうへ体を引かれていた。
「なにするの!?」
「シア――君は、何者だ?」
それは、疑いではなく、確信しているような目をしていた。
距離が近くなって、目と鼻の先にルムの顔がある。
仮面を嵌めているはずなのに、顔を隠しているはずなのに、すべてを見透かされたような感覚に恐れがこみ上げる。
「な、何者って」
「君の名前は、本当に
「……。なんのこと? もしかして寝ぼけてるの?」
「悪いが、ずっと起きていたよ。だから、君が誰かと話す声も聞こえていたし、君の歌のおかげで俺の体調が良くなったのもわかっている」
「私の……おかげ?」
胸の奥が何度も何度も、撞くように早鐘が鳴り始めた。
その眼差しから、アナスタシアは逃げたくて堪らなくなる。
「俺は、ここ数日間で穢れの影響を受けていたんだよ。魔法で癒すこともできず、ただ他の人間に影響を与えないようにするだけで精一杯だった。それを今、君が浄化した。君のその力は、聖女から受け継がれたものなんじゃないか?」
「――穢れ? 聖、女」
最後に、飾れる記憶を、思い出を作りたい。
そう思ってしまった自分に、どうやら罰が降りたらしい。
「もし君が、俺の考える人なのだとしたら――」
その先を、聞いてはいけない。
「――シア!」
アナスタシアは掴まれた手を強引に捻る。そして、背後から聞こえる呼び止めも振り切って走り出した。
しばらく追いかけて来る気配を感じたけれど、街の地理に詳しいアナスタシアは難なく逃げ切ってしまう。
「はあ……はあっ」
いつもは通らない路地裏に行き着いたアナスタシアは、その場にぽつんと佇んで息を整える。
(……逃げちゃった。呼ばれていたのに、話の途中だったのに。怖くて、逃げて……私、最低だ)
力が抜けてうずくまったアナスタシアは、振り払った拍子に痛みが残ってしまった手首に手を添えた。
(私に、聖女の力なんて、ない。昔からない。ただ、魔法杖を生成できるだけ。魔法が使えなくて……魔法が使えないのに、魔力を仮面で抑え込んでいるのに――私は、魔法杖が、生成できる)
その理由は、初めからひとつしかない。
アナスタシアが精霊に力を借りれるからだ。
体内に流れる魔力ではなく、空気中を漂う無限の魔力を、精霊の手を借りて扱うことができるからだ。
それは紛うことなき、聖女の力――。
『
守らなければ。
どうすることで、守れるだろう。守るということになるのだろう。
その時は、それしか考えられなかった。
――あの子どもを殺すのだ!
――聖女様の身を滅ぼした罪は、その命をもって償わなければならぬ!!
――なにを笑っているんだ。何をしでかしたのか、お前はわかっているのか?
――覚えていないだと? ぶざけるな!! 記憶から逃れたとして、お前が犯した罪は一生消えることはない!
――なぜ、お主は生き、我が子は死なねばならなかった。なぜ、あの子の前で魔法を使おうとしたのだ。
――あああっ……クリスタシア! いずれ母も逝きますから、どうか寂しい思いをしないで待っていて。
――聖女様……お優しい方だったのに。
――それもこれも、全部、あの子どものせいよ。
「――もう帰ろう、ルル」
次々と生まれる思考を無理やり閉じ込めて、アナスタシアは立ち上がった。
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