第17話 見えない不安



 アナスタシアは、母の最後を覚えていない。


 気がつけば、ベッドの上には無惨に朽ち果てた体が横たわっていた。


 近くには、倒れ込んだエレティアーナの姿もあった。

 目の周りを真っ赤に腫らした様子から、泣いたのだろうと予想がつく。


 なぜこうなったのかを、アナスタシアは思い出せなかった。

 大勢の足音が近づいてくる。

 部屋の異常に気づいた屋敷の人間たちが、慌ててこちらに向かっているのだろう。


『……おかあ、さま?』


 生気を抜き取られたような、惨い姿の母に、アナスタシアはぼうっと手を伸ばす。

 途端に頭の奥が、ずきりと針で刺されたような痛みに襲われた。


"ごめんなさい、ごめんなさい。わたしが、わたしが、おかあさまを"


 誰かの、声がする。


"わたしが、こんなこと、したから。だから"


 これは、アナスタシアの声?


"……アナ……シア、どうか、エレティアーナを……責め……で、一人に……いで、守って"


 それはまるで、波紋のように脳内に振動していた。

 次第に呼吸がままならなくなり、アナスタシアはようやく目の前の恐ろしい惨状の意味を理解する。


『おか、さまっ、おかあさま……はぁ、はあっ』



 その時、部屋の扉が開け放たれ、見知った顔ぶれが室内に入ってきた。


『一体、なにが……っ』


 絶望をはらんだ父親のかすれ声がこだまする。

 大の大人であっても思わず目を逸らしたくなってしまう光景。

 そこにぽつんと立ち尽くす幼いアナスタシアが、口を開いた。


『わたしの、せいなの』


 なにかに突き動かされるように、そこにアナスタシアの感情はなく、ただ周囲の人間にその事実だけを知らしめた。


『……わたしが、こんなことをしたから。わたしのせいで、おかあさまを……ごめんなさい……ごめんなさい』


 込められた謝罪と、場に似つかわしくない狂気じみた笑みに誰もが凍りついた。


 十年前のあの日。アナスタシアは朦朧とする記憶のなかで、それだけを明確に告げたのだ。



 ***


 

 ――俺は、アナスタシア・ヴァンベールが、人の命を奪ったとは思っていないからかな。


 数秒の空白のあと、アナスタシアは静かに口を開いた。


「……ルムさんには、本当に驚かされてばかりですね。まさか、そんなことを言われるとは思っていませんでした」

「ちょ、おい、ルム……さすがにそれを言うのはまずいだろ。シアさん、誤解しないでくれよ。何もルムだけがそう思っているんじゃなくて、ほかの国ではその説も出ているって話で……」


 バーンが焦りを見せながら必死に弁解をしていた。

 アナスタシアは、この国の声のみを知っている。もしバーンが言うように、他国ではそのような話がされていたとしても、知りようがない。


(そういう憶測が、勝手に流れているだけ……なんだ、びっくりした……なんだ)


 なぜかこの時、アナスタシアは、自分でもよく分からない安堵の息を漏らした。


 あまり喜んで聞ける内容でもないので、顔が徐々に引き攣っていく。


「……ああ、たしかに少し口を滑らせすぎたかもしれない。この街で暮らしているシアさんにしてみれば、今の俺の発言は咎められてもおかしくないな」

「そうでは、ないんです。私はそう思っていません」


 仮面の下で、アナスタシアは震えそうになる声をしっかりと保つ。

 相手からすれば、淡白な返答に聞こえたかもしれない。

 そうだとしても平静を無理に装い続けた。


「……シアさんは、アナスタシア・ヴァンベールについてどう感じているんだ?」

「え?」


 どう思っているもなにも、自分がその張本人であるため、間の抜けた声が出てしまった。


「先ほど会った水の侯爵家の貴族とも、街の人間とも違う。シアさんはずっと、物事を客観視して話していたように見えた。だから、アナスタシア・ヴァンベールについてもどこか割り切っているように感じたんだが」

「それは……」

「単なる俺の、勘違いかもしれないけど」


 そうだったら恥ずかしいな、と言ったルムに、アナスタシアは首を横に振った。


「そう、ですね。たしかに私は、街の人と同じような気持ちは抱いていないです」


 自分が許されざる罪を犯し、多くの人々の悲しませたことは知っている。

 しかし、自分から自分を忌み嫌ったことはない。そんなことをしなくても、アナスタシアは大勢から戒めともいえる非難を浴びせられてきたのだ。


「……うん、そんな感じがした。だから珍しいと思ったんだ。滞在日数は浅いが、この街の人がもつアナスタシア・ヴァンベールの心象は十分すぎるほど知ったよ。だが、シアさんは彼らとも違って見える」

「……それは、私が似たような人間だからです」


 苦し紛れの言い訳を絞り出す。

 こうして出会った縁なのか、ルムは自分を気にかけている様子だ。

 けれど自分がアナスタシア・ヴァンベールだと言うことはできない。


 その探るような視線を掻い潜った末に、アナスタシアはまた一つの嘘をついた。


「似たような人間というのは、シアさんが、アナスタシア・ヴァンベールに?」

「はい。私は……幼いころに母を亡くしました。その原因は、私にあるのだと聞いています。おこがましいですが、きっと重ねているんです。母を亡くした自分と、同じように母親である聖女様を亡くしたアナスタシア彼女を」

「シアさん……」


 知り合ったばかりの他人が聞くには、些か繊細な事情である。

 ルムが真剣な表情をして聞く傍らで、バーンは申し訳なさそうに声をしぼませていた。


「理由は、これで納得していただけました?」


 嘘だとしても、限りなく真実に近い嘘だった。

 なぜ、こんな話をしてしまったのかと問われれば、アナスタシアも的確な言葉が出てこない。


「いや、こちらこそ。突っ込んだ話をして申し訳ない! ほらっ、ルムも!」

「あ、ああ……シアさん、話してくれてありがとう」

「ありがとうじゃなくて、まず謝れよお前はー!」

「わかったから、耳元で大声を出すな、バーン!」

「いえ、謝るなんてそんな……こちらこそ、面白くもない話を聞かせてしまって……」


 実のところアナスタシアには、吹っ切れていた部分が多少なりともあった。

 もうすぐ自分は、北の領地へ移される。そうなればこの都へも気軽には来れない。

 旅人であるルムやバーンとも、もう二度と会うことはないはずで。

 関係がなくなるからこそ、アナスタシアは二人に言えたのだ。

 そして、嘘に少しの本意と事情を加えて彼らに話したのは、アナスタシアの中にある小さな欲の表れだった。


「……そういうわけで、アナスタシア・ヴァンベールについての話をされるときは、時と場に気をつけてください。ほとんどの人が疎ましく思う内容であることには変わりないので」


 納得しているかはさておき、二人とも理解はしたはずだ。

 まさか自分のことを、こんな形で話すことになるとは。アナスタシアは言いようのない心地に包まれながら、魔法杖を持ち直した。


(きっと、悪い人たちではないんだろうな。それはなんとなく、わかる。けれど……)


"俺は、アナスタシア・ヴァンベールが、人の命を奪ったとは思っていないからかな"


 そう言われたとき……ぎくりと胸が鳴ったのは、アナスタシアの気のせいではなかった。

 だからこそ、見えない不安のようなものが、彼女の中でうごめき始める。


「さっきから人の店の後ろで話し込んで、何してるんだい……って、シアちゃん?」


 その時、近くの建物の扉が軋音を立てて開いた。

  

「コットさん!」

 

 どうやらアナスタシアたちが立ち話をしていた場所は、コットの素材店の真後ろだったらしい。

 話し声を聞きつけてやって来たコットは、アナスタシアと共にいるルムとバーンを怪訝そうな目つきで見ていた。

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