第16話 衝撃発言
嫌な空気が肌に張りつく感覚に、アナスタシアはこくりと息を呑んだ。
片や知り合ったばかりの旅人、片や五侯貴族の嫡子で元婚約者。こんな状況を楽観視できるほど、アナスタシアの肝は据わっていない。
まるで一触即発になりかねない雰囲気に、アナスタシアは意を決して前に出る。
「――申し訳ございません」
頭の被りを深くさせ、アナスタシアが精一杯に頭を下げる相手は、ケヴィンだった。
「……誰だ?」
ケヴィンの視線が、ルムからアナスタシアに移される。
心臓が破裂しそうなほど脈が速まり、頭は沸騰するように熱くなった。
絶対に
関係が疎遠になって十年。声や背丈で正体がバレる可能性は低いだろうが、それでも細心の注意を払った。
「……どうか、無礼をお許しください。旅人であるこの方々は、禁忌について詳しくないのです」
「僕は、誰だと言ったんだ。耳が聞こえ話がわかるのならば答えてくれないか。名はなんだ?」
冷たく言い放たれ、アナスタシアは身が竦みそうになりながらも答えた。
「……私は……この街の者です。シアと、申します」
シアと聞いたケヴィンは、ほのかに瞳を開いたように見える。
そしてルムから完全に意識が逸れたのを確認し、素早く隣に立っている彼の腕を掴んだ。
「あの、この方々には私から説明しますので、どうかご容赦ください! 失礼します!」
「……っ、お?」
渾身の腕力を使って、アナスタシアは駆け足でルムを引っ張っていく。
ルムからは、素っ頓狂な声がわずかに漏れていた。
「……なっ、おい、お前たち!」
背後から飛んでくるケヴィンの声を振り切り、アナスタシアは無我夢中で歩を速める。
昼間の王城前広場は、それなりに人が多い。加えて大聖堂では、詩歌が捧げられていたため周辺が混雑している。
しばらくするとケヴィンの声は、すっかり聞こえなくなっていた。
逃げるように魔法市街グリゴワーズの通りまでやって来る。
元々、向かう予定ではいたが、今は意識して来たというより、自然と慣れた方向に足を動かしていたらたどり着いてしまったようだ。
「ちょっ、シアさん、シアさん」
「……」
「シアさーん」
「……っ!」
呑気な呼び声に、アナスタシアは我に返る。
足を止めて振り返ると、面食らった様子のルムがこちらを見下ろしていた。
「驚いた。急に腕を掴んで走るから……どうしたんだ?」
ルムの発言に、たまらずため息を落としそうになるが、アナスタシアは気を取り直して説明を始める。
「あの人は……水の侯爵家の方です。五侯貴族とも呼ばれていますが、この国では公爵家に次ぐ家門で……とにかく、貴族の身分にある人なんです」
「ああ……」
ルムの反応は、至って淡白なものだった。
平民であるならば、貴族と聞いて震えあがる者も少なくないというのに。ルムは大して気にした素振りを見せない。
ケヴィンが執拗に追いかけてくるような性格ではなかったとはいえ、かなり無謀な逃亡を図ってしまったというのに。
「もしかして、ルムさん……相手が貴族だと、知っていたんですか? バーンさんも?」
アナスタシアの問いに、二人は顔を見合わせる。
「水の侯爵家の人間だとは、知らなかったな。身なりや話し方で薄々、貴族かもしれないとは思っていたけど」
「俺も、まぁ、ルムと似たり寄ったりだな」
事の重大さを理解していない彼らに、アナスタシアはがっくりと肩を落とす。
(どうしてこんなにあっけらかんと……)
だが、他国から来たのならラクトリシア王国の特質を理解していないのも不思議ではない。
「お二人に、忠告……いえ、話しておきますね。あんなふうに、公衆の面前でアナスタシア・ヴァンベールの話題を持ち出してはだめです」
自分についての話を、自分の口から語るというのはなんて滑稽なんだろう。
けれどアナスタシアは彼らが……主にルムが、先ほどのように無鉄砲な突っ込み方をして、誰かに目をつけられてしまわないかと危惧した。
だからこそ、言っておく必要があると思ったのだ。
「聖堂は、聖女を信仰する団体です。聖女クリスタシアが、聖女と言われる以前からも、太古から語り継がれてきた聖女に心を捧げています。その歴史は、王国より長く、根深いです」
「……ああ、たしかに他の国にも一定はいる。聖女を讃える集団というのは」
ルムがそう言うと、バーンは軽くうなずいた。
二人とも聖女信仰については把握しているようである。
「なかでもラクトリシア王国は、近代の聖女が生まれた主導国。聖堂の発言力は強く、王家でさえ下手に手を出せないというのは国民も周知の上です」
「ということは、つまり?」
神妙な顔をしてルムが促してくる。
アナスタシアは一度、呼吸を整えて断言した。
「つまり……聖女殺しと言われるアナスタシア・ヴァンベールは、ラクトリシア王国の罪人です。そんな人の話を信徒の前であったり大聖堂付近で持ち出すことは、暗黙に禁じられているんです。聖堂の怒りを買う可能性があるから」
「……罪人」
「さっきルムさんが、水の侯爵家のケヴィン……様に尋ねたのも、かなり際どかったんですよ。だって彼は、アナスタシア・ヴァンベールの元婚約者で、信仰深いアクアード家の嫡子なんですから」
そうやってアナスタシアは語り聞かせる。
……言葉を連ねれば連ねるだけ、本当は虚しくなってたまらなかった。
「そうか……うん、なるほど」
ルムの瞳が、悲しげに揺れていた。
なぜそんな表情をしているのか理解しようもなかったが、彼の放った言葉にアナスタシアは度肝を抜かれる。
「そこまで言われているアナスタシア・ヴァンベールが、一体どんな人なのか気になるな」
「はい!?」
アナスタシアは一瞬、思考がどこかへ飛んでいくの感じた。それでもすぐに立て直してみせる。
「あの、なんでそうなるんですか?」
「なんでと言われても……ただ気になったというだけのことだが」
「……ルムさん、私の話を聞いていました?」
「ああ、うん。つまり、この国ではアナスタシア・ヴァンベールの話をする際には、慎重にってことだろう?」
心得たと言うように、ルムは笑った。
本当に分かっているのか、疑ってしまうほどルムの態度は清々しいものである。
「バ、バーンさん」
口を挟まないバーンを見れば、彼は仕方なさそうに眉尻を下げるだけだった。
まるで決定権はルムにあるのだと言っているようである。
「……ルムさんは、どうしてあんなことを言ったんですか。十年前の事件を知りたいと、本当に思っているんですか?」
「……そうだな。知りたいと思っていたのは、本当だ」
旅の人間が、話の種に十年前の悲劇を知ろうとするのはよくあることだった。
ラクトリシアの人間からしてみれば不謹慎極まりないことだが、外の国ではネタにされることも多い。
「どうして、知りたいと思うんですか」
「それは……」
ふと考えた様子のルムが、アナスタシアを見て口を開く。
もしルムが、事件の詳細をかき乱すだけの人間ならば、アナスタシアも距離を取ろうと思っただろう。
しかし、ルムは違っていた。彼の言葉を聞いたアナスタシアは、思わず耳を疑ってしまった。
「俺は、アナスタシア・ヴァンベールが、人の命を奪ったとは思っていないからかな」
「――」
ひゅっと、空気が抜けるような音がする。
ルムから何気なく伝えられたことに、アナスタシアの鼓動は激しく乱れていた。
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