第9話 家族
アナスタシアの部屋に父親のヴァンベール公爵が訪れたのは、彼女が外出時に羽織るローブをクローゼットにしまうのと同時だった。
「動かなくていい。お前はそこにいなさい」
慌てて父親を迎え入れようとするも、鋭い視線とともに制される。
父の背後には、兄リカルドの姿もあった。
リカルドは怪訝な表情を隠すことなくアナスタシアに向けている。
ヴァンベール公爵は自身の肩に羽織るマントを悠々とはためかせて化粧台に近づくと、その上に鍵穴のついた装飾箱を置いた。
「替えの仮面だ」
短い言葉でも、アナスタシアには理解できた。
中にはアナスタシアが付ける仮面が入っている。
万が一の事態が起こらないように、ヴァンベール公爵は数日おきにアナスタシアの仮面を交換していた。
アナスタシアの制御の仮面は二つ。
全く同じデザインの仮面を、こうして交互に使用している。
ヴァンベール公爵が魔法の発動と魔力を封じ込むための魔法をかけた後、またアナスタシアの元に戻ってくるのだ。
「……ありがとうございます」
父親が化粧台から離れると、アナスタシアはすぐに置かれた装飾箱を鍵で開けた。
今つけている仮面を装飾箱に入れて、父親が予備で持ってきた仮面に付け直すのだ。
化粧台の横には衝立が置かれている。
おかげでアナスタシアの顔は父親や兄に見えないが、彼女が仮面を外す瞬間、部屋の空気が緊張で張り詰めていくのがわかった。
仮面を付け直したアナスタシアは、外した方の仮面を装飾箱にしまって衝立の外に出る。
「お待たせしました」
「……」
父親はアナスタシアが差し出した装飾箱に触れようとはせず、その後ろにいたリカルドに目配せをした。
リカルドはアナスタシアの前に歩み寄り、父親の代わりに装飾箱を受け取る。
アナスタシアもこれぐらいの対応では動揺しなかった。慣れが勝っているから。
二人ともアナスタシアの顔を真正面から見ようとはしない。
そんな彼らを、アナスタシアはじっと盗み見ていた。
(お父様は正装用に着用する魔法師団のマントかけている。リカルドお兄様もそうだ。もしかしてこれからお城に出かけるのかな)
アナスタシアの父 オーカス・ヴァンベール公爵は、現在ラクトリシア王国魔法師団の総帥として、魔法師や治癒師の統率を担っている。
長男のリカルドも魔法師団に在籍しており、彼は名実ともに父親譲りと謳われる実力者であった。
二人が羽織っているのは、同様の象徴が背に大きく刺繍されたマントである。
それはラクトリシア魔法師団の人間だと一目でわかる、ラクトリシア王国の歴史において最も尊ぶべき『ラクトリシアの国宝杖』のエンブレムが入ったマントだった。
「ひとつ、お前に決定事項がある」
いつもは仮面の取り替えが済めば即座に退室しているはずの父親がまだいる。
ここですでにいつもとは違っていた。
「どういった、お話ですか……?」
アナスタシアは手を握りこみ、身を固くさせる。
「これは陛下並びに聖堂による判断だが、十日後の明朝……お前の居住場所が北の領地へ移されることになった」
十日後――それは、聖女の慰霊式を含めた式典の、翌日を指していた。
父親の口から冷たく伝えられた決定事項を、アナスタシアは他人事のような気持ちで耳にしていたのだった。
***
「お父様、お兄様……アナスタシアお姉様のもとに行かれていたのですか?」
公爵家本邸に戻った父オーカスと兄リカルドに小走りで駆け寄ってきたのは、アナスタシアの双子の妹であるエレティアーナだった。
母親似のアッシュゴールドの緩やかなウェーブの髪と、父親そっくりの明るい黄褐色の瞳をしたエレティアーナは、おっとりとした愛らしい容姿に恵まれた少女であった。
貴族の間でもエレティアーナの美貌は口々に噂され、アッシェンデに住まう民からは「さすがは聖女様のご息女」「公爵様の面影も感じられる麗しいお顔立ちだ」と、褒め称えられている。
リカルドもエレティアーナも、髪は母親であるクリスタシアの色を濃く受け継いだが、顔立ちは父親のオーカス寄りだ。
そのため二人ともどこか幼さを残した顔立ちをしており、その血をわけたオーカスに至っては実年齢にそぐわない見た目をしていた。
「ああ、そうだけど。それがどうかしたのか、エレティアーナ」
「あの……いえ、リカルドお兄様。なんでもありません。ただ気になっただけです。わたしはお姉様とお会いできないので……」
エレティアーナはおずおずと下を向いた。
「ただ仮面を交換しに行っただけで、いつも通りだったよ。それよりエレティアーナ、支度はもう済んだのか?」
「はい、終わりました。もう、お兄様ったら……わたしのこのドレス姿はそんなに代わり映えしませんか?」
「いや、そういう意味で言ったんじゃ……」
「二人とも、話を始めるなら馬車に乗り込んでからにしなさい」
「あっ、お父様待ってください」
「こらエレティアーナ。その格好で走ったら危ないだろ」
いち早く馬車が停まったエントランスに向かった父オーカスの後ろを、二人の子どもがついて歩く。
屋敷の使用人たちからしてみれば何ら変わりない、父と子の会話である。
「そのドレス、似合ってるが生地が薄くないか? 体を冷やしたら大変だぞ」
「お兄様は心配性ですね。これでも体は丈夫になったほうなんですよ?」
「それはわかっているよ。だが、幼少のときは何度も発作で……」
「今はもう治っていますもの。ほら、お兄様。お父様が馬車の前で待っていてくれてます。早く行きましょうっ」
それは、ただそこにアナスタシアという存在がいないだけの、ヴァンベール公爵家の普段の光景だった。
「お父様、本日はゼナンクロム帝国からお客様がいらっしゃるのでしょう? お兄様はともかく、わたしまで同席して本当に良いのでしょうか?」
「ああ、構わない。陛下もそれを望んでおられる。お前は陛下の孫娘として堂々といなさい。それが陛下から賜ったお言葉だ」
「孫……。それなのに、アナスタシアお姉様は……来られないのですね」
エレティアーナの萎ませた声音に、父オーカスは一蹴した。
「連れて行ったところで意味などない。……あの子の隔離を一番に望んでいるのは陛下だ。それを誰が覆せるという?」
「そう、ですね……失礼いたしました」
空気が一気に重くなり、エレティアーナはアナスタシアの話題を持ち出すのを止めた。
きゅっと掴んだ自分の指先が血色を無くしているのを、目の端で捉える。
(――わたしは、なんて卑怯なの)
結局エレティアーナは、今日も父や兄に大切なことを言い出せず口を噤むのだった。
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