第3話 夜の子供

 残業を終えて会社を出たら、終電ギリギリの時間だった。

  

 乗り込んだ電車の窓から街の明かりを見つめている内に、どうせ妻は先に寝ているのだろうと思う。今夜の私の帰りを待つ人は、いない。

 せっかく乗れた終電だったが、私はそこから降りた。

 佳奈美に会いたい。


 私は駅を出て、恋人の家へ向かった。

 住宅街は闇の静寂に沈んでいる。

 こんな時間に、しかも突然……しかし、佳奈美なら笑顔で出迎えてくれるだろう。

 連絡も無く、突然やってくる私の無遠慮を、嬉しい、来てくれたんだと。予期しない幸せだと、そう言ってくれるのが佳奈美だった。


 途中、私は何か買っていく事にした。何時行ってもお茶漬けの材料くらいはあるかもしれないが、全く手ぶらも気が引ける。

 真夜中の住宅街に、コンビニの灯りがぽっかりと浮かんでいた。

 店を目指して歩く私は、気がついた。


 目の前に、電信柱が立っている。

 電信柱に寄り添う、黒い影。

 大人ではなかった。

 立ち止まった。


「……何しているの、こんなところで」


 街灯に青白く浮かぶのは、小学低学年くらいの男の子だった。

 じっと地面を見つめる、覇気のない子供の姿。

 私は腰をかがめて問うた。


「お父さんやお母さんが心配しているよ。家はどこ?」


 そう言いながらも、この辺りの交番はどこにあったか考えていた。

 こんな時間に子供がこんなところで。迷子よりも児童虐待の可能性も高い。

 男の子は、頭を振った。


「お父さんはいない」

「お母さんは? 今どこにいるの」


「家」

「じゃあ帰らないと」


「帰りたくない」

「お母さんに怒られたの? それとも……」


 頭がまた揺れる。


「帰りたくない。ママの友達のおじさんが来るから」

「……お父さんは?」 

「死んだ。首をね、吊ったんだ」


 聞いてはいけない事を聞いた気がした。

 知らない子供の身の上とはいえ、やり切れなくなった。

 私は聞いた。


「ボクは、そのおじさんが、嫌いなのか?」

 男の子は肯いた。


 私も父を10才の頃に亡くした。だから、痛いほど気持ちが分かった。

 父が亡き後、母を訪ねてくる男。

 子供の頃の、厭な夜を思い出す。男の来訪に喜ぶ母は、母であっても母ではない、私の死んだ父の思いを踏みにじる、不潔で汚い大人の女だった。


「僕は嫌いだけど、お母さんは喜んでるんだ」


 男の子の声は、闇に吸い込まれるほどか細い。

 なんて女だ。

 私は立腹した。母親のくせに。

 私の母もそうだった。男が来ると、私は何時であろうと家を飛び出したが、母は追ってこなかった。


 誰も寄り添ってくれない夜、男が家から早く出て行くことを願いながらさ迷い歩いた。あの孤独と憎しみの夜を、悲しさは今でも私の記憶の染みになっている。

 この子の親に、意見してやる。

 ずっとうつむいた男の子へと手を伸ばした。


「こんなところに、子供がいつまでもいるもんじゃないよ」


 しかし、彼はずっとうつむいたまま。私の顔を見上げようともしない。

 その時、風が吹いて、コートの裾がはためいた。

 男の子は動かない。

 違和感。


 その違和感は氷になって、私の背中をべったりと冷やした。

 びゅうびゅうと風が吹く。それなのに、この子の髪は全く乱れない。

 コンビニの光が、目の端にある。私は気がつく。

 何故、この子はコンビニの前ではなく、わざわざこんな暗い場所にいる? 


 男の子の顔がゆっくりと上がる。

 この子の顔を見てはいけない。

 本能が私にそう叫んだ。


 マンションに転がりこんで来た私に、佳奈美はさすがに驚いていた。


「どうしたの?」

「何でもない」


 心臓は暴れまわり、壊れそうなほどだった。だけど、温かな佳奈美の部屋でしばらくしている内、ようやく私は落ち着いた。


「本当に、どうしたの?」


 お茶漬けを出してくれながら、心配げに聞く佳奈美。

 なんでもないよ、と言いながら、頭を振った私は、隣の部屋に気がついた。

 障子が開いていた。仏間だった。


 仏間だと知っていたが、そこに入ったことは無い。自分の過去を語らない佳奈美の背景があそこにある。そこは私にとっても、禁忌の匂いがしていた。


 その障子の隙間から、仏壇が、その奥の戒名が見えた『……童子』


 箸を取り落とした私の耳元に、あの子の声がした。

『……きらい』


「……どうしたの?」


 目の前の佳奈美と、母の顔が重なって見えた。

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