第8話
いざ作業に取り掛かると、確かに大変ではありましたが集中していたからかあっという間でした。
サービスマニュアルで予習こそしましたけど、トラブル無くここまで作業を進められたのは間違いなく天川くんの教え方が上手かったからでしょう。
そして不具合箇所だと言われたキャブレーターというものを外す事に成功し、今はそれもバラバラにしてバケツに張られた洗浄液の中へ浸け置きされています。
これで数時間放置したあと組み直せば終わるのだそうです。
まだ直った訳ではありませんが、呆気ないというのが正直な感想です。
なんだか不思議と言うか、魔法みたいですね。
あと、この子も何とも言えない不思議な姿に……骨だけになったお魚さんみたいとでも言えばイイのでしょうか。
これがただガソリンタンクを外しただけでこうなってしまったのですから、それはもう驚きました。
想像力の欠如と言ってしまえばそれまでなのですが……。
そしてもっと驚いたのが、作業がこれだけではなかった事です。
ガソリンが腐っていると言われていましたから、それを抜き取るというのはまだ分かりますが、それ以外にもエンジンオイルとブレーキオイルとやらを交換したのです。
作業前にマットを敷いたのは、この作業で床を汚してしまわないようにとの配慮もあったんだそうです。
つまりそれ以外にも理由があると。
天川くんは気配りさんですね。
それで、どうして交換するのですかと聞いたところ、「だって一年以上交換してないでしょ?」と返されました。
しかも「いや、二年以上か……」とか予想されてましたので、もう驚く他ありません。
彼の言う通り、この子が二年以上放置されていたのは確かです。
もちろん毎週のように綺麗にしてはいましたが、それは気を紛らわせるためのルーチンワークといった類いのもので、整備という点で見るなら間違いなく放置状態でした。
しかしその事は彼には言っていないのです。
彼は名探偵なのでしょうか?
身体は子供で頭脳は大人なのでしょうか?
身体つきは立派な男性ですが……身長も180cm近くあるのではないかという長身で体形もスッキリとしてはいますがガリガリという感じはなく、むしろ年齢の割にはガッシリとした印象を受けます。
スポーツマン的とでも言えば良いのでしょうか。
それとも、これが細マッチョというものなのでしょうか。
以前、お母さんが「細マッチョ最高っ!」とか言ってましたが、今ならその気持ちが少し分かる気がします。
でも、お母さん……お父さんは細マッチョなんかじゃありませんでしたよ?
あ、何やら思考が脱線気味です。
とにかく天川くんは様々な部分で私の先回りをしてくれていたんです。
オイルを吸い取る箱とか、ブレーキオイルを交換する時の透明なホースとか。
これらの作業が追加された理由に関しては「いや、バイクが直ったら走るでしょ?」と、簡単に言い切られてしまいました。
確かにその通りではあるのですが、彼は私の予想の遥か上を行っていたのです。
「ロングツーリングに行くなら特にエンジンオイルには気を配らなきゃね」と、私が遠くを目指している事を疑うことなく想定して用意してくれていたのです。
確かに私は遠くに行く事を想定して工具の選定を頼みました。
でもそれは今日頼んだものです。
しかし彼は事前にそれらを準備していたのです。
彼はエスパーなのでしょうか。
ちなみに重要だというエンジンオイルは、油膜の厚さと耐酸化性能に優れていて、長期間にわたり性能を保つ、普通のバイクに使用するオイルとしては最良と言っていいオイルなのだそうです。
ガソリンと同じく酸化というフレーズが出てきたので質問したところ、「サラダ油なんかと同じだよ。天ぷらなんかで揚げ続けてると茶色っぽくなって美味しく揚げられなくなっちゃって最後は油を捨てちゃうけど、あの茶色くなるのが酸化。油に限った話じゃないけど熱を加えると酸化するからね。そして酸化すると使えなくなる。で、エンジンオイルは名前の通り油だから基本特性は一緒で、熱を加え続けたら酸化する。酸化するって事は性能劣化、つまり使えなくなるって訳。エンジンはガソリンを燃やしてるから熱を持つわけで、エンジンオイルは常にその熱に曝されるわけだから、酸化しづらいオイルの方が良いんだよ」と懇切丁寧に教えてくださいました。
サラダ油とは目から鱗です。
身近にあるモノで例えていただけたので、とても分かりやすかったです。
しかしそんな良いオイルを使って良いものなのでしょうか?
私は料理好きなので調理油には多少なりとも詳しい方ではないかと思うのですが、料理によく使うオリーブオイルでさえ値段はピンからキリまであるのです。
天川くんは「うちに余ってたオイルだから気にしなくて良いよ」と言ってくれましたが、値段は教えてくれませんでした。
我が家には他にエンジンオイルがあるわけでもないので、これからエンジンオイルを買いに行くなんて二度手間を掛けさせるくらいならと彼の行為に甘えることにしましたが、もう彼には足を向けて眠れません……彼の家がどこにあるのか知りませんけど……あとで聞いておかなければっ!
あ、また思考があらぬ方向へ……。
そうそう、もうひとつ驚くことがありました。
それは彼が持ってきたトルクレンチという工具です。
それが出てきたのは、エンジンオイルを抜いてドレンプラグというボルトを締めようとした時でした。
その時私は確かに困りました。
どの位の強さで締め付ければ良いのだろうかと。
そこで差し出されたのがトルクレンチでした。
プリセット型と言っていましたが、違う形もあるということでしょうか?
工具と言うよりは精密機械の様で、どう考えても高価な代物です。
正直、素人が使っていいものなのか疑問に思いました……彼が「これ使わないと、下手するとヤバいレベルでバイク壊しちゃうけど……」と言われたのでありがたく使わせていただきましたが、作業が順調に進んでいて気分が軽くなっていたところでの話でしたので、身が引き締まる思いでした。
これは締め付ける力を管理する為の工具なんだそうで、その力はニュートン・メーターという単位で表されるのだそうです。
天川くん曰く「ただの簡単な物理だよ」との事でしたが、ニュートン・メーター……なるほど納得です。
長さと、そこで加える力……単位とはこういう実用的なモノなんですね。
「こういうものである」と漠然と覚えていた単位というものが、初めて身近なものであると理解出来ました。
お恥ずかしながら理系を少々苦手とする私でも理解出来てしまうとか、天川くんは先生に向いているのではないでしょうか。
天川くんが物理の先生だったら、私は理系の大学すら狙えるかもしれません。
すみません、言い過ぎました。
数学や化学が残ってますので無理です……いえ、これでも勉強に限って言えば出来る方だと思いますし受験に受かるだけなら何とかなるかもしれませんが、その知識を職業レベルに活かすとなると全く自信が持てません……それは今回の件で実感してしまいましたので。
勉強が出来る事と、その知識を使いこなす事は別物なのだと。
あ、また思考が飛んでしまいました。
そうそう、彼はトルクレンチ以外でも締め付け力の管理が出来るような方法を考えてくれていました。
太さの異なるネジを持ってきてくれていたのです。
正確にはネジではなくボルトとナットと言うそうで、オスがボルトでメスがナットなんだとか。
こんなところで性器に例えるモノがあるとか面白いですねと言ったところ、天川くんは微妙な笑みを浮かべていました。
おかしいです。
お母さんは下ネタを気軽に話す女の子はフレンドリーで好印象間違いなしと言っていたのに……まぁそれはいいでしょう。
天川くんが持ってきてくれたボルトとナットで何をしたかと言いますと、ネジ山が潰れるまで締め付ける練習でした。
どの位の強さで締め付けたらネジ山が潰れてしまうのかを感覚で覚えようとの事でしたが、どうしてこう私が不安に思う事を先読み出来るのでしょうか。
彼曰く「材質によって強度は変わるから無駄って見方もあるけど、数値に捕らわれて頭でっかちな理屈並べる前にネジ山潰す間隔を覚えた方が良いんだよね」との事でしたが、単位すら理解出来ていなかった自分にとっては耳が痛い話でした。
それにしても、彼にしてみれば当たり前の知識なのかもしれませんが、知識不足から来る他人の問題を的確に把握出来るものなのでしょうか?
おそらく天川くんはとてもとても気配りさんなのでしょう。
そうです、超気配りさんです。
作業前の準備の丁寧さもそうですが、その時彼は確かに言いました。
私に怪我をしてほしくないと。
何ですか、この優しい気配りは。
あまりの気配りさんぶりに、思わずぽーっとしてしまいました。
何ででしょうね?
それはともかく、キャブレーターの洗浄が終わるまでの空き時間の有効活用としてお話ししながらオイル交換をしていましたが、それが終わったところでお母さんがやって来ました。
何でしょう?
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