第56話
扉を抜ける。
また小部屋。前の濡れた部屋より一層小さな部屋だった。
「これは」
臭い、とゆゆねは思った。
前の世界だったら、気持ち悪いで一蹴していたその臭いをゆゆねは分析できた。
人、獣、便、血、食。
それらが淀んで時間の経ったもの。
「奥に……」
生物の気配。
それを察したのは視覚だったのか、聴覚だったのか。
それとも剣と魔法の世界特有の、第六感だったのか。
とにかく、ゆゆねは部屋の一番遠く、布の塊を人だと確信した。
「ガジュマルさん、ヤシャさん。誰か……」
「わかってる。鋭くなったな、ゆゆね」オレが調べる、とガジュマルが短刀を抜いて出る。
「三人で囲ってる。妙なことはするなよ」猫人は刃先で布を引っかけた。
布が剝がされた。毛布のような一枚。
その下からは――
「あぁ……あぁ。やっと助けか」
老人だった。
深い青のローブを着込み、まぶしそうにゆゆね達を見上げている。
負傷している。ゆゆねは解った。
さきほど同じく、直感で。
「灯りを弱くしてくれんか、なにも見えん」老人がうめく。「もう7日もここにいる。太陽はおろか、ロウソクさえ明るすぎる」
ガジュマルは持っていたたいまつを後ろのゆゆねに渡した。ゆゆねはランタンとたいまつの二刀流になった。
「あぁ……だいぶいい。目も慣れてきた。――おや、これは予想外だ」老人はガジュマルを見て、ゆゆねを見て、小さく笑った。
「あっ」その顔を、ゆゆねは思い出した。
「おじいさん。初めて会った大書庫さんの魔術師さん」
「なに? ……確かに、よく見りゃ」ガジュマルは下げていた短刀を持ち直す。
「ゾンゾの遺跡の? 本当に?」ヤシャも杖を握る。
「待ってください」ゆゆねは警戒する二人の前に立つ。「ケガしてるみたいです、おじいさん」
「演技かもわからんぜ。例えそうでも、手負いの方がヤバいことも多い」ガジュマルが目を鋭くする。
「同意だわ。青服に隙は見せられない」ヤシャの金の目もうずまく。
ゆゆねは困った。困って、少し悲しそうに笑った。
「前は、ケンカしっちゃったかもしれません。でも時間が経ちました。なら、ちょっと変わったんじゃないでしょうか?」
「変わらんよ。大書庫は亜人嫌いなんだ。きっかけがありゃ、カランカやエルフをいじめてきた」冷たいガジュマルの声。
「私は。わからないです。この世界のこと。歴史も宗教も政治も。……でも、目の前で弱っている人がいたら、助けたい」
私は、とまたゆゆねは言った。「私の憧れた強い人は。お姉ちゃんは、そうだったから」
「……」
「この世界に来て。少し、強くなれた思います、私。なら、その人の真似をしたい」
「……ちっ」うるんだゆゆねの目を見て、ガジュマルやっと剣を納めた。
「まったく、ガキには敵わないな。はぁ」猫人は首を振る。なにかを払うように。「……すまない、オレも感情的になっていた。お前の形が正しい」
「……そうね。冒険者は、聖会も、わだつみ衆も、そして大書庫も。誰の味方でもない。けれど、敵でない」ならば、とヤシャ。「ヒトとして良くあろう。皆のため、己がため」
三人は老人を囲い、かがむ。
「じいさん。助けがどうとか言ってたが、オレ達は完全な通りすがりだ」
「ああ、儂も思い出した。召喚人と猫の男、それに影の姫だな」
「あら、私は会ってないはずだけど」とヤシャ。
「君は有名人だからな……まあ、挑発はよそう。恥を知らずに言おう、冒険者よ。……助けてくれ」
「怪我か。足だな。原因は、あれか?」
「ああ、スライムだ。あの変異物。私は分牢の書類整理に来ただけだったのだがね」
「事故、なんですか。あのモンスターは。怪物を育てたとかじゃなく」ゆゆねが訊く。
「キメラやホムンクルスをこんな分牢で作らんよ。過去の間違いはあるが、我らとて世を思っている」
「信用できんが」とガジュマル。「が、信用しよう。あんたを医者に連れてく。喜べ、この猫人が運んでやる」
「くくっ。感謝する」
「礼なら、ゆゆねに言え。あんたのために泣きかけたんだ」
よいっと、ガジュマルは老人を持とうとする。
が、老人は手のひらを見せた。
「待ってくれ、冒険者たちよ。実はもう一人友がいてな」
老人が胸元をゆるめ、何かを出す。それは。
「あっ」
「まだ生きているか、友よ」
猫だった。
小さい、動物のねこ。
ぐったりと、老人の胸の上に横たわる。
「共にこの小部屋に逃れてな。スライムの被害者だ」
「足が」ゆゆねは言った。
そう。猫の前足は一本、欠けていた。
四本あるべきものが、一つ、ない。
「止血はした。が、大きく血を失ったのだろう。もう丸一日動かん」
「おじいさん、この猫、この子が」
私たちの依頼の目的だ。
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