第54話
ちゃぷん。
靴が半分、液体に沈む。
「雨漏り……でしょうか?」
地下の小部屋には、水が溜まっていた。
暗闇の中、灯火を黒く反射している。
「それに」
ゆゆねは口を抑える。
臭い、と感じていた。
鉄のような、錆のような。
いいえ、それらにはない生き物の生臭さ。
「これは血だな」ガジュマルが言った。
「血? この水がですか」
「動物、魔物。ヒト種もいくらか」
うぇ、とゆゆねは口を抑えた手に力をいれた。
マスクのようなものを持ってくれたばよかったと後悔した。
「血……なんで血が」
「囚人から集めたんでしょう」とヤシャ。
彼女は杖先の灯りを強くする。
部屋の全体が浮かぶ。
「血は代表的な錬金素材よ。特に魔法生物や、濃い家の魔術師のものは。……大書庫は害のある魔法存在の隔離のついでに、その力をかすめ取っていた」
「そんな」法律とかは? とゆゆねは訊いた。
「別に秘密でもない。聖会は嫌っているけど、大書庫はお金持ちだし、大国とも仲がいい。罪人をちょっといじめたくらい、誰も文句を言わないわ」
特に、とヤシャ。
「白金銀行の長に夢を見せてあげられるからね。……魔力を宿した血を固めるとね、疑似的な魔石を作ることができるの」
魔石。魔法を使うのに必要な臓器だ。
「それは使い捨てのニセモノだけど……でも、普通の人でも魔術師のふりができるのよ。それは一時。数多の命を使って見れる幻。常識的な倫理観では吊りあわない。でも、大枚をはたいても見たい人もいる」
「ひどい」とゆゆね。しかし。
少し思ってしまう。
私も魔法を使えるのではないか、という希望。うす暗い望み。
ゆゆねは首をふった。
部屋を見渡す。
「それでこんなに血を……でも、床にこぼれちゃってますよね」
「そうね。ふつうは瓶詰めにするはずだけど。地下部分も、放棄されて長いのかも」
奥に続く扉を見つけた。
錆びついた鉄が一枚。
「ん。カギがかかってるみたいです。待ってください」
ゆゆねは腰に手を伸ばす。解錠道具を出そうとした。
が、その時。
「上だ! ゆゆね」ガジュマルの叫び。
ゆゆねは即座に反応したが、次の行動を間違えた。
彼女は言葉に釣られ、上を見てしまった。
本当は確認など後回しに、ただ後ろに跳ねるべきだったのだ。
「あっ」
べちゃん。天井から塊。
ねばねば、ぐちょぐちょ。
粘液の手、あるいは口、あるいは全身。
「ごぼぼぼぼぼぼぼぼっ……!」
ゆゆねは何かに呑まれ、溺れた。
音は消え、視界が赤黒く染まる。
体の穴という穴に、おぞましいものが迫る。
入られる、犯される。
「らぁ!」
音が戻る。十秒ぶりの空気がおいしい。
「平気か? 吐けるだけ、吐け」
ガジュマルがゆゆねをゆする。
ゆゆねは涙と鼻水、その他いろいろを出しながら、必死に現状を把握しなおした。
――たぶん。
たぶん。
私は扉の前、天井から降ってきた化け物に襲われた。
それは巨大な粘液のかたまり。
私は飲まれ、食べられそうになった。
が、ガジュマルさんが力づくで中から引っ張りだしてくれたのだ。
「痛っ!」
ゆゆねは顔を抱く。
痛い。
素肌を晒していた場所が、焼けるよう。
まるで、強烈な日焼けのあと。
だがここはすでに敵地。
痛みに泣いている場合ではない。
体が動くなら、目が開くなら、立ち、睨め。
「ぐぅ……!」
ゆゆねは壁を這うように立つ。
そしてステイタスを起動した。
「……スライム。ブラッド・スライムです。血糊喰らい、とも」敵を認め、ゆゆねは吠えた。
もぞぞぞぞぞぞ。
隆起する水の魔物。
それは部屋に散った血を集め、太っていく。
全部を集めきると、小山ほどの塊になった。
頂点は天井に触れてさえいる。
もはや壁。建物の一部にも見えた。
「スライム。ちっ、潜伏してたのか。古い手に引っかかった」ガジュマルが剣を抜く。
「大きいわね……今の武装では」ヤシャも杖を構える。ゆゆねをかばうように。
ゆゆねは退路を見る。この地下に下りた階段を。
そこにはまだ淡く外の光が届いていた。
よかった、逃げ道は――
もぞぞぞぞぞぞ。
その視線を読んだのか、地面から沸き上がった粘液が道を塞ぐ。
スライムが体の一部を分けたのだ。
「そんな」ゆゆねは目を疑う。
「知性があるみたいね、信じがたいけど」ヤシャが舌打ちした。
「やべぇぞ」ガジュマルが剣を振る。腕のように伸びた粘液を斬った。「このサイズじゃ、剣は効かねぇ。お前の闇針も同じだ」
「そうね、悔しいけど」ヤシャはそれでも影の槍を剣山のようにし、迫るどろどろを押し返す。
「火! 火です。スライムの弱点は火みたいです」ゆゆねは焼ける肌に苦しみながら、ステイタスから得た情報を二人に伝える。
「知ってる。でも私は炎術は修めてない」とヤシャ。
「ならアイテムは」
「あんのは松明、ランタンくらいだ。このデカブツには頼りねぇ」ガジュマルが二刀で敵を払う。
ぐっと、ゆゆねは腰の袋を握る。
こんなことなら、濡れたいまつを買い直しておけばよかったと後悔した。
あれは少しだが、私の得意武器だ。
火。火さえあれば。弱点を。
「ぬべ!」
肩に重み、ゆゆねは膝をつく。まずい。
ゆゆねはまた、天井から降ってきたスライムの一部に呑まれた。
そのまま即座に、激流に呑まれる。
ゆゆねの体は部屋の奥の一番大きなかたまりに送られた。
「ゆゆね!」遠く、水の向こうからヤシャの声。
――ごぼごぼごぼ。
喰われる、消化される。
肌は焼かれ、溶かされていく。
ああ、私は。
猫を探して、こんなつまらない地下室で、死体さえ残らず。
――違う。考えろ!
ゆゆねは片目を開いた。
眼球が焼かれていく。でも耐えた。
我がチートを、ステイタスを、金の約定を深くうならせる。
お前はなんだ。スライムとはなんだ。
弱点は火だけなのか。
読む、解く、暴く。
そして理解した。いや、曲解したといってもいい。
ゆゆねは腰袋に手を突っ込む。
記憶を頼りに、あるアイテムを掴んだ。
信じた、これが望んだアイテムだと。
祈った、これが正解のアイテムだと。
「そんなに食べたきゃ……食べさせてやる!」
ゆゆねは粘液の中で、叫んだ。
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