第52話

建物に入った。


土に浸食された玄関を抜け、小部屋に。


「放棄されて長いんですかね、どれもみんな――」


ゆゆねが灯りを振る。

棚、机、寝具。

どれも渇き、ひび割れ、ホコリをたっぷりと被っている。


「――ボロボロです」


「警務室かしら。ほらこれ」ヤシャが杖の灯りを壁に寄せる。「カギよ。同じ規格の鍵束がいくつも」

「本当だ。この施設で使うものなら、解錠の手間が省けます」


ゆゆねは状態のよいものを見繕い、ポケットに入れた。


「でもなんで、こんなに同じ鍵が」

「入り口で話したが」ガジュマルが言う。「ここは牢屋だ。大書庫のおもちゃ箱」

「おもちゃ」

「ガジュマル」ヤシャが咎めるように言う。「冗談も皮肉もいらないわ。カランカの歴史は置いておいて」


ふん、と猫人は鼻を鳴らした。

「わかったよ。お前に言われたら、黙るしかない」


「さて。ゆゆね」ヤシャが続く道を確認する。「いつも通り、先行して。けど覚悟して」

「覚悟……敵がいるんでしょうか?」

「いないと思う。でもここは魔術師の実験場だった。嫌なもの、おぞましいもの。その残骸を見ることになるかもしれない」

「実験場? 牢屋じゃないんですか」

「そうよ。牢屋で、本棚で、実験場。つまりそういうこと。この先で。魔術とは強く律しない限り、こうなってしまうと知るでしょう」

「……」


それはどこでも同じだろう、とゆゆねは思った。

元の世界で、科学が宗教が政治が、どう歪むかはよく知っている。


「大丈夫です。ゴブリンを倒した、ゾンビもやっつけた。未熟者ですが、ちゃんと冒険者です」


ランタンをちょいと上げ、合図。

それで隊列はゆゆねが先頭になった。


「行きます」


――――――――――


通路を行く。

左右には格子の扉が並ぶ。


「ほんとに牢屋ですね」


ゆゆねは灯りをかざし、一つ一つ中を確認する。

今のところ、どれも空。

汚いゴザと割れた皿、本当にかすかな便臭が残っているだけだった。

当然、見つけるべき猫はいない。


「幸いだ。大書庫は、ちゃんと掃除してから引っ越したみたいだな」ガジュマルがカンと、わざと剣の鞘で鉄格子を打つ。。

「なんで引っ越したんでしょう? けっこう立派な建物ですけど」

「風の約定に負けたんだよ。具体的には制定者であるおっさんにビビった」

「風の約定」たまに聞く言葉だった。確か冒険者になったとき、唱えたような。


「この世界には。この接ぎの国は」ヤシャが言う。「約定というルールがあるの。神域に至った人、獣、機械はそのルールを制定できる」

「えっと、法律みたいなものですか?」

「法則ともいえる。風が吹いたり、雨が降ったり。それらは約定に従っている」

「いや? 自然現象なのでは?」

「確かに根源的な約定は、今では常識のもの。でも、全てかつての神が決めたものよ」


そうね、とヤシャが言う。

「あなたも約定を利用している。チート・ステイタスは、金の約定を使っている」

「きん」

「金の約定は古代機……その中でも最古のゴーレム王が決めたもの。エルフには知覚できないけれど、それは高次元に存在する意思や知識の共有網だと聞くわ」

「……知識、共有……」


ゆゆねは反芻する。元の世界で、よく似たものを知っていた。


「ゴーレム王が制定し、召喚人が肉付けし、わだつみ衆が間借りしている。それが金の約定」

「じゃあ、風の約定というのは?」


「ないんだよ、意味が」ガジュマルが笑う。

「ない?」

「ああ、なんの効果もない。運がよくなるとか、天気に恵まれるとか信じてるやつがいるが、実際は名前があるだけだ」

「ええっと。それは約定とか法則といえるのでしょうか」

「作った奴がひねくれた馬鹿だからな。約定なんて、法則なんて。そんなもん意味はないって。言いたかったんだとよ」


「冒険王」ヤシャがため息のように言った。「召喚人で冒険者ギルドを作った男よ。彼はね、あらゆるものを壊し、同時に、ぜんぶを助けたかったの」

「自由だ、自由だって、よく言ってたよ」ガジュマルが言う。「自由なんて本当はどこにもないし、信じれるような確かさもない。けど、あのバカはそれがわかっていながら、繰り返していた」


「自由」ゆゆねも言ってみた。「自由」


口に出して、思った。

嘘臭いと。青臭いと。張りぼてだと。

善人に。悪人に。語られ、騙られつくした言葉だ。


「あのバカは、約定を決められるほど極まったのに、なんの力もないルールを作った。それを笑って、馬鹿にしてほしかったのさ」ははっ、とガジュマルは声に出した。


「まあひとつ」ヤシャが言う。「副次的な効果はあったんだけどね。特に泥の約定を利用する大書庫がね、考えすぎちゃったの。――そんな馬鹿なものがあるはずない。なにか裏がある。そうだ、きっと風の約定には、他の約定を否定する力があると」

「あるんですか?」ゆゆねが訊いた。

「さあ? 知らない。でも大書庫は怖くてね、冒険王が嫌うようなことからは手を引くようになった。……あなたも助かっているわ。召喚人を捕まえるのを、控えるようになった」


「それで」ゆゆねは空の牢を見渡す。「それで引っ越したんですか、ここの建物の人たちは」

「大書庫にも正義がある。本当に害のある魔法存在を捕まえるのは冒険王も気にしない。だがまあ、活動しにくくなったんだろ。この風の国では大書庫の牢獄はなくなった」


感謝すべきなのだろう、とゆゆねは汚れた牢屋の中を見る。

自分もその約定がなければ、この中で震えていたのかもしれない。


「その冒険王さんは。今もどこかにいるんですか?」

「……そうだな」ガジュマルが天井を見た。いや、その先の青空を。「いるよ。ああ。いるさ」


「? いつか会ってみたいです。もしかしたら、日本人かも」


異世界に来て冒険者ギルドを作るんだ。

ゆゆねはノベルやゲーム好きに違いないと考えていた。


「ああ。そうだな」ガジュマルは目を閉じ、応じた。

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