第45話

朝。

かがみ湖。

青い空と、青い水面は、その境界がわからなくなる。


「いってきます」


ゆゆねはガジュマルとヤシャを振り返る。

背にはぽこんと、丸い膨らみ。

スフィアが入っている。


「いってこい。どうなっても、今日でおわりだ」と、ガジュマル。

「いってらしゃい。あなたの常識は、この世界の常識を覆せる」かもね、とヤシャ。


「はい」


出発。

ゆゆねは歩き出す。

昨日と同じ装備に加え、スフィアが加わった。

非力なゆゆねには重い。

が、心はその重さに安心できた。


「ふぅふぅ」


上を見る、下を見る。

青と、ときどき雲の白。

それだけだ。

平行感覚さえ、重力がなかったら忘れていただろう。


歩け、うん歩く。

歩け、ええ歩く。


思考はクリアだった。

景色の透明さを写したのかもしれない。

昨日のように、過去に溺れることもない。


ただ機械のように反復運動をくり返す自分を、なにも感じず見ている。


時間は自由だった。

いくらでもゆっくりに、いくらでもすばやく。

集中している。

ぼおっとしている。

起きながら、深く眠っているようだった。


歩いて、歩いて、だから見つけた。

小山。もや。

いいえ、人の影。


「見つけた」


ゆゆねの五感が戻る。

清らかな水と、ささやかな風を感じた。


どれほどの距離だろうか。巨人まで。

大雑把だが、1000メートルはありそうだ。


飛べるだろうか。

ゆゆねは背の重みを思う。

自分は背も体重も低いが、それがどれだけこの小さな球の助けになるのか。


ゆゆねは、装備を落としていく。

食べ物、水、のろし。

解錠道具と、スフィアを入れた背嚢だけを残す。


「よし」


飛ぶぞ。

水を揺らさぬため、水マナの波紋を生まぬため。

飛ぶ。


ステイタスでスフィアを装備する。

背でかすかな震え、起動した。


「お願い」


そしてごめん、と念じるように力を込める。

視界で「過積載」の文字が赤く輝く。

ごめん、ともう一度念じる。祈る。


浮いた。

背嚢に吊り上げられ、ゆゆねは水の上に出る。


「過積載」の文字が抗議するようにまたたく。

だが、無視して祈りを続けた。


ゆゆねは滑るように、動きだした。

水面の数センチ上をホバーのように滑っていく。


ゆゆねは苦笑した。

景気よく飛ぶ、などと言ったが、実際はアメンボのようだ。

足先がぎりぎり水に触れていないだけ。

恰好も背中から引っ張り上げられ、無様だ。


だが、いい。

ここには自分と、盲目の巨人。

そして空と湖しかない。


進む。

ステイタスの警告がいよいよ激しくなってきた。

アラートにはバッテリー残量がちらつきだす。


「10% 切った」


ゆゆねは焦る。

やはり、無理な運用だったか。

このスフィア。正式には「汎用球 白号」は調査の補助が目的だ。

力のいる運用には向いていないのだろう。

けれど、想像より消耗が激しい。


巨人までは500メートル。スフィアのバッテリーは残り10%。

半分の距離で、20%を使ってしまった。

届かない。


「でも」


もう始めてしまった。

たとえ失敗するとしても、できるところまで行きたい。


「残り3、2」1。


電力が尽きる。

せめて、とスフィアが落ちる前にゆゆねは足を延ばした。

ゆっくりと、波紋を立てぬよう着地する。

足が地面の砂を掴むと同時に、スフィアは停止した。


「……」


背の重みが痛い。

ステイタスはバッテリーが0%になったスフィアを、勝手に装備欄から外した。

酷使し殺してしまった、とゆゆねは思った。


だが、道具だ。

ゆゆねは前の、もうはっきりと見える巨人を睨んだ。

無駄使いしたのか、使い切ったのかを決めるのはまだだ。


「ここからは」


かがみの天地。

空と水と私と巨人。

マナを震わせたら、彼は逃げてしまう。


なら。できることはひとつ。


「歩け」


そう。ゆっくり。

水面を立てず、風を揺らさず。

ひたすらに、ゆっくり歩く。


シーフの基礎にして、奥義。

忍び足。

気付かれず、歩く。

音はもちろん、すべてを騒がせず歩く。


小さく、しかし長く息を吸う。


ゆゆねは集中した。

歩け、忍べ。

私は、盗賊だ。

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